「僕のために────」
アッシュはユーフェミアより数歩はなれたところで歩みを止めた。
雨脚はどんどん強くなって来ていて、その肩に、頬に、頭に、降り注いでいるのに。
アッシュはまるで気にした風もなく「おはよう、王女様? ・・・・・っていうにはもう遅い時間かな?」、と。
いつものように穏やかに笑った。
柔らかく目を細めて、口元に綺麗な弧を描いて。
とても落ち着いたいつもより少しだけ低い声で、いつもと同じように親しげに話しかけてくれる。
一見して、いつもと同じ。
けれど決定的に何かが変わってしまっている。
なにより先程も、今も、アッシュはユーフェミアのことを「王女様」と呼んだ。
もうずっと「ユーフェミア」と名前で呼んでくれていたのに。
その違いは単純に、呼び方だけの違い、だけではないはずだ。
そしてその手に握られた、真っ黒い抜き身の短剣は・・・。
「・・・・・・アッシュさま・・・?」
ユーフェミアの呼びかけに、アッシュの体がわずかに揺れた。
けれどその表情は一切崩れない。
顔は確かに綺麗に微笑んでいる。
纏っている雰囲気もいつものように静かで穏やかで。
なのに、どうして・・・。
────・・・・泣いているように見えるのだろう。
その頬を流れ落ちているのは、先程から急に降り出したこの雨で。
きっとただの水滴であろうそれは、温かくもないのだろうけれど。
それでも、静かに微笑むその顔は泣いているようにしか見えず、その白い頬を流れていく雨は彼が流した涙にしか見えない。
泣いている、アッシュさまが・・・。
涙を流すことも出来ずに泣いている・・・。
「・・・・・どうか・・・なさったのですか・・・?」
問い掛けながら、自分の愚かさに気がついた。
彼が以前話してくれた状況から見れば考えられる答えなど一つしかないではないか。
「・・・妹君と、弟君の容態が・・・よろしくないのですね・・・?」
ユーフェミアの問い掛けに、アッシュの体がまた揺れる。
綺麗に上がっていた口角がゆっくりと下がって行き、それと同時にアッシュの目線も下へ下へと下がっていく。
「・・・・・・その外套・・・。 ルーナルドがきたんだね・・・」
アッシュは顔を伏せたまま。
ユーフェミアの問いには答えず、ユーフェミアが今も両手で抱えている外套へと話を振った。
なにをしてもスマートにこなす彼にしてはずいぶんと強引な話題変更だと思った。
「・・・・・・はい・・・」
「・・・・そう・・。・・・じゃああいつが君の大事な【エト】だと気がついた?」
「・・・・・はい」
「・・・・そう・・・。・・・じゃあ、たくさん話をしたんだね・・・?」
「・・・はい」
ユーフェミアの言葉に、アッシュは顔を伏せたまま長い間沈黙していたけれど。
やがてまた抑揚のない声で「そう」とだけ呟いた。
「・・・・アルフェメラスでは、外套を置いて行くのは『必ず帰ってくる』という意味があります」
ですから、ルーナルドさまも必ず帰ってきてくれるのだと信じています。
そう告げると。
アッシュはまた長いこと沈黙していたけれど。
やがて「・・・そうだね」と静かに言葉を返してくれた。
「・・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・」
そうして、静かすぎる沈黙がユーフェミアとアッシュの中に落ちていく。
「・・・・アッシュさまは・・・やはりとても優しい方ですね・・・」
先に沈黙を破ったのはユーフェミアだった。
その言葉が思いもかけないものだったのか、アッシュが驚いたように顔を上げる。
見開かれた美しい瞳のすぐ側を。
先程から降り続く涙雨が幾筋も伝い落ちていくのが見えた。
「アッシュさまはとても優しい方です」
もう一度、ユーフェミアの感謝の気持ちがが少しでも伝わるように、ゆっくりその言葉を伝える。
先日読んだ本に、恋人に外套を残していく、という描写があった。
本の出版元はこの国、ハイエィシア。
国が違えば常識も変わる。
外套を残していく。
それが示す意味は、ユーフェミアの認識とは真逆だった。
・・・・『もう会うことはない、さようなら』。
それがこの国の共通認識。
この国の筆頭公爵であるアッシュがそれを知らないはずはないのに。
それでもなにも知らないであろうユーフェミアを気遣かって口をつぐんでくれた。
そうだね、と。
ただそう言って希望を持たせてくれた。
その優しさに、その気遣いに。今までどれだけ助けられたことだろう。
「・・・・・妹君と、弟君の容態が・・・悪いのですね?」
アッシュが答えなかった問いを。
強引に避けた話題をもう一度引き戻し、先程よりも低い声で問いかける。
「・・・・・・・・・・」
アッシュから返事はない。
けれど、その瞳が苦しそうに揺れたのを確かにユーフェミアは見た。
・・・・呪いは解けなかったのだ。
アッシュがあれほど大事にしている家族は。
今も変わらず命の危険に晒されている。
そうしてそのアッシュが、危篤状態にある家族を放って、ここに。
ユーフェミアのところに来たということは。
─────・・・・その家族を救う手段がまだある、ということだろう。
彼の手にした刀身が真っ黒なあの短剣は、そのために持ち出されたもの。
おそらくただの剣ではないのだろう。
こうして立っているだけでぴりぴりと細い針で刺されているような痛みを肌で感じる。
「・・・・・僕が優しい・・・? ・・・・馬鹿だね、君は・・・」
長い沈黙の末、ふふっと喉を鳴らしてアッシュが笑う。
いつもの柔らかく穏やかな笑みじゃない。
光が一切消えたほの暗い目でユーフェミアを真っ直ぐに捕らえたまま。
アッシュは、ひどく妖しく、そして危うく笑む。
「最初っから殺すつもりだった。そのつもりで君に近づいたんだよ」
この剣で君の心臓をつけば全ての呪いは君に跳ね返る。
そのために僕はずっと君の側にいた。
君を油断させるために。
息継ぎをする暇もなく、一気に言いきったアッシュをユーフェミアは静かに見つめ返した。
「・・・・・では、どうして初めからそうしなかったのですか・・・?」
やろうと思えば、最初に出会ったあの時に出来た。
剣術大国ハイエィシアの筆頭公爵。
その彼は、少し剣術を習った程度のユーフェミアなど歯牙にもかけず、あっというまに御せるほどに強いのだろう。
いつだってその腰には二本の剣がぶら下がっていた。
彼が言うように油断などさせる必要さえもなく。
圧倒的な力の差でいつだってユーフェミアを殺すことが出来た。
なのに彼は一度としてその剣を抜かず、ただただユーフェミアの世話を焼き、文句もいわずいつも振り回されてくれた。
「ルーナルドだよ! あいつが君を守る結界をはってた! だから害意を持って君に近づくことが出来なかった!!」
悲鳴のような声に、心が痛くなる。
アッシュは、自分の言動の矛盾にさえ気づいていないのだろうか。
「・・・・・今もルーナルドさまの結界は変わらずそこにあるように思いますが・・・」
「・・・・・・っ! ああ、そうだ! あいつはバカ・・だから。 無条件で僕を入れてしまってる」
バカだから・・・。
言葉では辛辣に批判しながら、自分が今どんな顔をしているのかアッシュはきっと自覚できていない。
「・・・つまり、今の今まで、害意を持っていてもアッシュさまなら入れるのだと。知らなかった、と?」
「・・・・・っ! ・・・ああ、そうだ!」
「・・・一度もわたしを殺そうと。そう思ってここを訪れたことがない、と?」
「・・・・・・・っ!!」
苦しそうにアッシュの顔が歪む。
最初から殺すつもりだったなんて大嘘だ。
彼があんなに必死になってユーフェミアの特別になろうとしたのは。
呪いを解くための《許し》が欲しかっただけじゃなく。
きっとユーフェミアをも救おうとしてくれていたからだ。
呪いが解けなかった時、こうなることがわかっていたから。
そうしなければいけない立場にあったから。
そうならないように一人で必死になって、家族と、そしてユーフェミアの命を守ろうとしてくれた。
深い接触などしなければ。
心を寄せてしまう前に、さっさと目的を果たしてしまえば。
家族とユーフェミアに挟まれて、自分が今あれほど苦しい立場に追い詰められることはなかったはずなのに。
「・・・・やはりアッシュさまは優しい方です・・・」
「・・・・ふざけるな!! 僕は君を殺しに来たんだぞ!」
「・・・・・・・・」
「なんなんだ! いつもいつも! 訳知り顔で、そうやって穏やかに微笑んで! 僕が優しい? 自分を殺しに来た男が? ばかじゃないのか!! もっと顔をぐしゃぐしゃにして怖がってよ! 卑怯者って罵ればいいんだ!! じゃないと!! ・・・・・・じゃないと僕は・・・・」
アッシュの目から、ボロボロと涙が流れ落ちる。
今度こそ雨なんかじゃない。
彼の苦しみが、痛みが、葛藤が、涙となって幾筋も頬を伝い落ちていく。
「・・・ねえ、ユーフェミア・・・。 僕、一人ではだめなのか・・・」
魂が悲鳴を上げているような声、だった。
「罰なら僕が受ける。三人分僕が一人で引き受ける。どれほどの痛みも苦しみも僕が受ける。だから・・・」
妹と、弟だけは助けてやってくれ・・・。
そう言ってアッシュは左手で顔を覆い嗚咽を漏らした。
降り続く雨が、震える彼の肩に、背に、冷たく打ち付ける。
刃物で切られたわけでもないのに、胸が痛い。
アッシュの思いが、苦しみが、そして家族への深い愛情が、嫌と言うほど伝わって来る。
共感した心が痛くて痛くてしょうがない。
できるなら、力になってあげたい。
なのに、ユーフェミアにはそれを叶える力も手段もない。
「・・・・・・申し訳・・・ありません・・・」
震える喉を励まして、必死で言葉を紡ぐ。
アッシュの体は一瞬だけまた揺れて・・・。
「・・・・・・そう・・・・」
ゆらり、とアッシュの気配が変わった気がした。
俯いていたその顔がゆっくりと持ち上がって。
光を失った目がユーフェミアを捕らえ、そうして柔らかく笑んだ。
「・・・・じゃあ、王女様・・・。 僕も後から逝くから・・・僕のために────」
「死んでくれる・・・?」
読んでくださりありがとうございました。




