選択の時
迷いましたがアッシュ視点に行きます。
いきなりえらい状況になってますが、わざとそう書きました。
よろしくお願いいたします。
────・・・なんの予兆もなく、変化はいきなり訪れた。
ぐらり、と。
頭を傾けたわけでもないのに視界が揺れた。
両脇にあったリアとトーマが眠るベットが、一瞬ぼやけてまた揺れる。
あれ、と不思議に思ったときにはもう体が危険なほど傾いていた。
慌てて体制を整えようとしたのに力は入らず。
まるで他人のもののように動かない体は簡単に傾いて。
それでもいまだ昏睡状態の妹弟の上に倒れ込むことだけは何としても避けなければいけないと体を捻った。
結果アッシュの体はサイドテーブルに置いてあったカップと水差しを巻き込んで、受け身も取れずに盛大に倒れ込んだ。
置いてあった新しいカップが3つ、派手な音を立てて割れる。
ひっくり返った水差しから冷たい水がこぼれ、倒れ込んだアッシュの体にじわじわと染み込んだ。
・・・・・・・・・・なにが・・・・。
起こっている?
体を起こそうにも、まるで力が入らない。
全身くまなく、鋭い刃物で刻まれているかのように痛くて。
身の置き場もないほど苦しい。
「旦那様!!」
けたたましい音に気がついたのだろう。
たった今まで静かだった薄ぐらい部屋の中に、誰かが慌てて入ってきた気配がする。
この声は、家令と、メイド長だろうか?
何か必死で喋っているようだが、耳に膜でも貼ったかのように声がうまく聞き取れない。
頭をあげれば、ぐるぐると景色が回り凄まじい吐き気に襲われた。
胃が収縮し、喉が鳴る。
気持ち悪い。
思わず口元にあてた手。
その手の指先に、何か黒いものが浮かび上がっているのが視界の端に見えた。
一瞬呼吸が止まる。
吸ったまま止まった空気が喉を鳴らし、声にならない小さな悲鳴になって消えていく。
・・・・・・・な、んで・・・・・。
ドクドクと心臓が早撃ちを繰り返す。
今も全身を貫く鋭い痛みのためか、それとも指先に浮き出たそれへの衝撃か。
アッシュの体が意思とは関係なくブルブルと震えた。
────────・・・・今日で全てが終わったと思っていた。
やっと因縁から解放された、と。
できうる限り、最高の結果を残せたんじゃないかと、誇らしい気持ちでさえいたのに・・・・。
なのに何故こんな事態になっているのか、と。
アッシュは震える体を抱きしめながら、自らの行動を振り返った。
今日の朝。
まだ日が昇りきってもいない時間。
アッシュは、ユーフェミアに問い掛けられた。
「アッシュがエトなのか」、と
そう問われるように会話を誘導した。
そちらから聞いてくれたほうが不自然じゃないし、なによりもアッシュが楽だったから。
はい、と答えれば済むから。
だから彼女の問いに対して、焦りも戸惑いもなかった。
答えはすでに準備している。
勿論告げるべき言葉は「はい」だ。
なのに喉が引き攣れたように言葉がうまく出てこない。
早く答えなければ。
長い沈黙は疑心を呼ぶ。
「公爵さま」と。
答えを促すようにユーフェミアが再度声を上げる。
アッシュの心を覗き込むように、宝石のような美しい瞳がまっすぐに見つめてくる。
「・・・・・・・・・・そ・・・・・」
そうだよ・・・・。
そう告げるつもりだったのに。
またしても言葉が喉の奥で止まる。
「お答えください、公爵さま」
いつもと同じ穏やかな彼女の声。
それなのに・・・。
いや、違う。
同じだからこそ、違和感を覚えた。
・・・・・・・・・・おかしい・・・・。
彼女からしてみれば、今はずっと待ち望んだ相手との再会であるはず。
なのになぜ彼女はこんなにも冷静なのか。
先ほどは確かに涙を浮かべていたように見えたが。
今ではそれも見られない。
将来を約束したと語った相手との再会。
本当なら、もっと嬉しそうな様子を見せてもよさそうなものなのに。
まるで感情を読ませてくれない彼女の様子に、ふと不安感を抱いた。
このまま本当に「はい」と答えてもよいのだろうか?
違和感は確かに残る。
けれど、王族として感情をコントロールしているだけと言われれば、そのようにも見える。
事実ユーフェミアはいつだって、アッシュに感情を読ませてはくれなかった。
『お前は正しい道をきちんと選んでいける人間だ』
頭の中で、昨日のルーナルドの言葉が蘇った。
アッシュのことを信頼しきった目で、穏やかに微笑んでいた。
けれど、違う。
ルーナルドはアッシュをかいかぶり過ぎだ。
アッシュには正しい道などわからない。
馬鹿なアッシュはこんな土壇場でまだ迷っている。
何が正解で、何が間違いなのか。
アッシュにはわからない。
死の淵に追い込まれている妹弟をただ救いたくて。
けれど義弟も大切で。
なにより唯一心惹かれた女性も大切にしたい。
「あなたの言うことを信じます・・・・アッシュさま」
「・・・・・・・・・・っ!!」
静かなユーフェミアの声が、雷のようにアッシュの体を突き抜けていった。
言葉を理解した瞬間。
まず、ずるい、と思った。
ここで、≪それ≫を言うのか、と。
今まであれほど名前で呼んでと声をかけても笑顔でかわすだけで、一度として応じてはくれなかったのに。
この局面で、そう呼んでくるなんて・・・。
王族と言うものは得てしてそういうものなのか。
ルーナルドもそうだが、ユーフェミアも。
人を従わせる術を無意識に理解している。
王者の気質か。それとも、個人の高い能力故か。
とにかく、一番効果的な言葉を、ここ一番というときに使ってくる。
今回で言うならば、名前がそれにあたる。
今までの、明らかに一歩線を引いた呼び方、爵位でしかない≪公爵≫ではなく。
個人名の≪アッシュフォード≫ですらなく。
愛称である≪アッシュ≫と呼んだ。
それはすなわち、『あなたのことを誰よりも信頼しています』という無言の意思表示。
友好の証に他ならない。
ユーフェミアは先ほど自分で言った通り。
もしアッシュが「そうだ」といったなら。
おそらくそれを信じるのだろう。
アッシュをエトだと信じて疑わない。
けれど・・・・・。
「・・・・ごめん、ユーフェミア・・・。 ・・・・僕は・・・エト・・・じゃない・・・」
後戻りなどもうできないところまで来ていたはずなのに。
覚悟を決めて、ここを訪れたはずなのに。
気付けばアッシュの口は。
あれほど言葉を発することを拒んだ喉は。
その言葉をするりと吐き出してしまっていた。
アッシュはここからどん底まで追い込まれます。
よろしくお願いいたします。




