クロス公爵
なるべく足音を立てないように。そしてなるべく早く。
ユーフェミアは一人廊下を走る。
途中、やはり誰にも会わない。どこにも人の気配はない。誓約魔法も反応しない。
────・・・・このまま逃げられる。
期待と嬉しさと、そして恐怖で気が狂いそうだ。
玄関を開け放ち、一気に外に飛び出した。
10日ぶりの外の空気。久しぶりに感じる開放感に涙があふれた。
泣きながら、一心に走る。体が弱っているのか、少し走っただけで心臓が張り裂けそうだ。
肺が痛い、呼吸が苦しい、足に力が入らない。
何度もよろめいて、時には派手に転んで。
それでも起き上がっては走りつづけた。
そして・・・。
唐突に。
バンと体が何かにあたって、派手な音を鳴らす。
体に受ける衝撃。そして心に受ける衝撃。
・・・・・・・え・・・?
恐る恐る両手を突き出し、確認してみる。
バン・・バン、バンバンバン。
何もないはずなのに。向こうの景色もちゃんと見えるのに。なのに、何かが確かにそこにある。
見えない壁のような、とても固い何かが、右にも左にもずっとずっと続いている。
「・・・・・・・・・そ、んな・・・・・」
「ごめんね、君はここからでられないんだ」
突然、後ろから聞こえてきた穏やかな声に、ユーフェミアは飛び上がった。
見つかった?
連れ戻される。
ううん、きっとそれだけじゃすまない。
殺さ・・・・?
頭を過ぎった最悪の結末に体が震え上がる。恐怖で喉が引きつれ、呼吸がさらに乱れる。
心臓が3つあるのではと思えるほど、自分の心音が耳にいたい。
それでも、ユーフェミアは必死で恐怖を押さえ込んだ。
表情を引き締め、口を引き結び、顔をまっすぐにあげて。
覚悟を決めてゆっくりと後ろを振り返る。
「・・・・・四方をね。強力な結界がはってある。中からは絶対に開けられないみたいなんだ、ごめんね」
そこには言葉通り、心底申し訳なさそうに眉を下げている男が立っていた。
まだ若い男性だ。ユーフェミアより少し年上くらいの。
輝くような銀色の髪に、美しいペリドットの瞳。非常に整った顔に穏やかな笑みを浮かべている。
身につけているものは装飾品に至るまでどれも上品で、一目で一級品だとわかる。
着ている服が白を基調としているからか。
それとも、その表情が余りに穏やかで親しみやすいからか。
同じ整った顔立ちでも、いつも冷たい表情しか見せないルーナルドとは対極にいるような男性だった。
「ユーフェミア王女、だよね?」
「・・・・・・・・・・・」
優しく問い掛けられて、答につまった。
彼が何物なのか、なにが目的なのかなにもわからない。一見穏やかそうに見えるけど、ニコニコと笑いながら人を殺す人間をユーフェミアは嫌という程知っている。
ここは安易に答えるべきじゃない。
「まいったな・・・。そんなに警戒しなくても大丈夫だよ。・・・まあ、そうは言ってもこの状況じゃあ難しいよね」
男は、困ったようにうーんとうなりながら首をひねっている。
見た目に比べて仕種や表情が少し幼く見える。
「そうだ。じゃあとりあえず僕のことから知ってもらおうかな?」
自己紹介するね、と嬉しそうに笑っていた男が急に真顔になった。
途端に、男の雰囲気がガラッと変わる。穏やかで親しみやすかったそれは、高貴な人間独特の、覇気のようなものをまとい、そこに立っているだけで圧倒的な存在感を生んだ。
男は右手を胸に添えて、ゆっくりと優雅に頭を下げた。
頭の先から足の先まで洗練された仕種だった。
「僕の名前は、アッシュフォード。 アッシュフォード クロス」
「・・・クロス・・・?」
その家名には覚えがあった。
ユーフェミアが自国アルフェメラスで、和平を必死で呼びかけていたとき。
この国、ハイエィシアでもユーフェミアに賛同して和平を呼びかけてくれた家があった。
その家名がクロスだ。
何代か前の当主が王弟で、ハイエィシアにおいての筆頭公爵家。王家に次ぐ権力者であり、数年前に当主が交代したばかり。
当主とその妹、そして、まだ幼い弟の3人が現在クロス家の直系のはず。
では、年齢的に考えてこの人が。
「あなたが、クロス公爵・・・」
クロス公爵家がユーフェミアを支持してくれたのは、時期的に彼がまだ当主を継いだばかりの頃で。そして戦争が苛烈を極めていた時だ。
王家であるユーフェミアが和平を訴えるよりも、まだ家督を継承したばかりの彼の方が遥かに風当たりが強く、難しい立場であったはずなのに。
それでも、会ったこともない。しかも敵国のユーフェミアの言葉に賛同し、共に和平への道を戦い続けてくれた。
頑なだったハイエィシア王家が和平を受け入れてくれたのは、間違いなくこのクロス公爵のおかげだ。
ユーフェミアは、迷うことなく美しい角度で腰を折った。
「アルフェメラス王国第一王女、ユーフェミア ミラ アルフェメラスと申します。お会いできて光栄です、クロス公爵様」
先に頭を下げて名乗ってくれたクロス公爵にたいし、ユーフェミアも最上級の礼を持って返した。
本来であれば王族、それも第一王女であるユーフェミアが、他国の公爵にここまでの礼をとる必要はないのだが。そんな常識など関係なく、ユーフェミアはクロス公爵にずっと会いたいと思っていたし、もし会えたなら感謝の気持ちを伝えようと決めていた。
「うん・・。 僕もずっと会いたいと思っていたよ、ユーフェミア王女殿下」
クロス公爵は、そういってまた年よりすこし幼く見える、ほんわかとした穏やかな表情で微笑んだ。