承久の乱の際に、何故に追討使が速やかに任命されなかったのか
以前にも取り上げたことがある承久の乱ですが、改めて別の視点でエッセイを描くことにしました。
それは何故に後鳥羽上皇は、北条義時追討の院宣や官宣旨を出した際に、北条義時を討つための追討使を併せて任命しなかったかです。
これは、一般的には後鳥羽上皇が、院宣や官宣旨の威力を過信しており、追討使を任命しなくとも、北条義時は速やかに追討されると考えていたからだ、とされています。
しかし、源平合戦の際にも、院宣や官宣旨が出されていますが、結果的にそれらが極めて有効に常に働いたか、というと極めて疑問があるのが現実です。
そして、後鳥羽上皇は源平合戦を見聞きしながら、育っています。
そうした後鳥羽上皇が、院宣や官宣旨の威力を過信していた、とは私は考えにくいのです。
それならば、何故に後鳥羽上皇は追討使を速やかに任命しなかったのでしょうか。
私が思うに、それに相応しいと考えられる人材が後鳥羽上皇にはいなかったのではないか、と考えることがあります。
この時、後鳥羽上皇方として戦った主な武士として、私が最初に思いつくのが、藤原秀康ですが。
この人は藤原秀郷の末裔に当たるとされているものの、父や祖父については名前しか基本的にわからないという人物でもあります。
勿論、承久の乱の際の後鳥羽上皇方の武士の首魁ですから、それこそ比企氏のように主な記録が消されてしまった可能性もありますが。
そして、「承久記」等の二次資料によるものですが、秀康やその弟達の戦場での振る舞いを見る限り、父や祖父が、源平合戦等で戦ってきたような感じがどうにもしないのです。
上手く書けませんが、いわゆる京武者として朝廷守護を基本的な任務としてきた武士であり、それこそ本格的な合戦をずっと経験していなかったのでは、と私は疑ってしまいます。
それなら三浦胤義はどうか、ということになりますが。
そんなことをしたら、三浦胤義の実兄にして鎌倉幕府の実力者である三浦義村が完全にへそを曲げて、鎌倉幕府方に奔りかねません。
三浦義村と三浦胤義は実の兄弟ですが、三浦一族の惣領の地位を争う微妙な関係にあったようです。
実際に承久の乱で、弟の誘いを断り、三浦義村はすぐに鎌倉幕府方に味方しています。
それは日時的には少し先のことですが、三浦胤義を追討使に任命しては、三浦義村を鎌倉幕府方に完全に追いやるのではないか、と後鳥羽上皇は危惧したような気がします。
他にも山田重忠や源(渡辺)翔といった武士達が、後鳥羽上皇方で参戦していますが、私が調べる限り、追討使にするには声望等がどうも足りない気がします。
そうした中で思い起こすのが、承久の乱勃発直前に行われた伊賀光季討伐です。
その死を後鳥羽上皇は惜しみ、自分に味方させて、北条義時追討の大将軍にしたかった、と語ったと伝わります。
実際問題として、伊賀光季は北条義時の義兄(妻の兄)であり、後鳥羽上皇方に味方することは極めて難しかった、と私は想いますが。
その一方で、それだけ追討使を誰に任せるか、後鳥羽上皇は悩んでいたのでは、と考えるのです。
勿論、後鳥羽上皇の内心は誰にもわからないことですし、単純に後鳥羽上皇は院宣や官宣旨で、北条義時は速やかに討たれると楽観していただけかもしれません。
それに追討使を下手に任命すると、後でどのような恩賞を与えるのか、という問題が起こるのは必然で、それよりは鎌倉幕府が自壊するのを、後鳥羽上皇は期待してしまったのかもしれません。
ですが、その一方で、後鳥羽上皇方として戦った武士の面々を私が調べていく限り、これでは追討使を誰にするか、本当に人がいないのではないか、という考えが浮かび上がってならないのです。
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