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詩 雑文7

作者:

J.S.Bach - French Suites


を 聴きながら


**


今日は、お休みです。……刹那をに費やそうとする方のどれだけ多いことか、……かと思えば、私の両親のように言葉だけの自らが真意だと思い、実の気持ちに自身すら惑わされ無自覚な方々もいらっしゃったりして、……ひどく、この世は無情だな、と思えてしまいます。死を選ぼうが、自らが気づかぬままに迷宮に入り込もうが、苦しみを他者が全て解る筈もなく解ろうとする筈もなく、苦しみは文字通りその苦しみを持つ方のもの。その方の苦しみを他者が奪うことなど叶わぬものなのだから、喜びは奪えても。……だとするならば、苦しみこそがいつまでもいつまでも苦しみを持とうとする方に身近に寄り添い続けるものでしょう。だからこそ、人は、喜びの扱い方ではなく、苦しみの扱い方から先に身に着けなければならない。それは、その方々それぞれの一生の課題として、どの方にも寄り添い続けるものなのだとそう思考致します。


性愛の喜びとは、本来眠ったままにしている獅子を揺り起こそうとするようなもの。本能を触る喜びに似ているように思います。それはひどく神経に触れるように過敏に大本であり、ある意味根源でありえるのでしょう。性愛で群れを統括する手段にしているボノボという猿が居たり、人でもそれぞれ宗教で性愛を使う宗教のようなものが出現したりします。例えば、カーマストラとミトゥナ像や、インド仏教は、愛欲に非常に寛容なイメージがあります。多くの絵画がありますね。他、日本での衆道の歴史は長く古代ギリシャに匹敵すると言われたり言われなかったり。本能という部分に日本文化は(密やかにですが)寛容なイメージがあります。





確かに周りの真意にばかり目を蠢かせて、自身に足元が沼地なのも気づかぬのでは、自身があまりにも不憫です。仰る通りのように今の私も思考致します。人は本来一人であり、(けれど、それだけに固執すればそれはそれで視野が狭まり不憫となりますが)自らと真摯に向き合おうとする姿勢は何よりも人の心を惹きつけます。それは、何故でしょうね。人の本能の部分を揺り動かすからでしょうか、そして、その事実に人は気づきます。どのような事柄でも構わない。答えを求める方は必ずその方が求める答えの先にいきつくでしょう。その方が求めるなら。その方自身の答えに。それはどのような方にも平等に与えられた知という喜びなのだと私は思考致します。


さんのされていることが真逆なのかどうかは私にはあまり重要ではなくて意識してこなかった為、上手く言葉にはなりませんが、今思考した言葉だけならば、私は、>「それは違うやろ」

と、思われるのであれば、その先を見せて頂きたいように願います。


素敵なお言葉を有難う御座いました。


失礼致します。

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