8
家に帰ると案の定、姉にはやし立てられる。
――こともなかった。
ここは二年前の街、姉はいない。
僕より二歳ほど年上である姉は、すでに進学を果たし、この街を出て行った。
この時点ではすでに東京で暮らしているのだ。
なのでこの時間、もしも鉢合わせする可能性があるのだとすれば、それは仕事が早上がりだった母親あたりだろうか。
僕は母親が家にいないか確かめるため、スマホを取り出し、メッセージを送る。
「彼女がくるから今日は帰ってこなくていいよ」
と、つぶやいたのは横にいる悪戯好きの少女、葉月であったが、もちろん、そんなメッセージは送らない。
彼女からスマホの画面を隠すと、
「今日の晩ご飯はなに?」
と尋ねた。
そう尋ねれば何時頃帰ってくるか、おおよその見当がつくし、母親に気取られる可能性もない、と思ったのだ。
案の定、母親は短い文章で、『安藤さんのトンカツ』と返信してきた。
安藤さんとは近くの商店街にある肉屋の名前で、そこで揚げるトンカツは我が家の定番メニューとなっていた。
安藤さんは夜の八時には閉まるから、おそらくではあるが、母親の帰宅は八時前後になるはず。
ならば映画を一本見るくらいの余裕がありそうだ。
そう思っていると彼女は僕の心を読んだかのように、
「ロード・オブ・ザ・リングの全三部作が見たくなった」
と意地の悪い台詞を口にした。
ロード・オブ・ザ・リングとはJ・R・R・トルーキン原作のファンタジー大河映画で、三部作の長編映画である。
一本あたりの上演時間は三時間以上なので、今から見ると日付をまたぐことになる。
母親と鉢合わせどころか、父親が飲み会に出席したとしても出会えるような時間帯まで映画を見ることになる。
それは避けたいというか、さすがに冗談だと分かるので、僕は彼女に「指輪物語」のDVDは姉が東京に持っていってしまった、と嘘をついた。
「へえ、お姉さんがねえ」意味ありげに笑っている。信じてはいないようだ。
くすくす、と笑いながら玄関で学校指定のローファーを脱いでいた。
それを綺麗に玄関に並べる。育ちがよくて綺麗好きな証拠であるが、彼女の育ちの良さは知っていたので驚きはしなかった。
彼女は誰もいないにもかかわらず、「お邪魔します」と僕の家に入った。
彼女をリビングに案内する。
廊下で彼女は尋ねてくる。
「あれ? 君の部屋に案内されるんじゃないの?」
「いや、リビングで見る予定だけど」
「いつもふたり同時で見るときは自分の部屋で見てるって言ってなかった?」
「いつもはね。でも、リビングのテレビのほうが大きいし、音響もしっかりしている」
父親が軽いオーディオ機器マニアである我が家のリビングはちょっとしたホームシアター装置があった。
彼女の家のように小さな試写室があるような環境ではないが、それでも複数人で見るなら僕の小さな部屋より、リビングで見た方がいい。
「残念、せっかく、彼氏の部屋を探索できると思ったのに」
「葉月の興味を引くようなものはないよ」
「それは私が決めること。もっともベッドの下を探ったりとか野暮なことはしないけど」
「それは有り難い」
と返すと、彼女をリビングのソファーに座らせ、お茶の用意をする。
麦茶でいい? と尋ねると彼女は「ありがとう」と言った。それでよいということだろう。
彼女は心ここにあらずと言った感じで、僕の家のリビングを見ていた。
僕がリビングから立ち去るとき、後ろから「普通の家庭ってこんななのね」という感慨の籠もった言葉が聞こえた。
麦茶をふたつ、それに柿ピーとカントリーマアムをお盆に乗せ、持って行く。
麦茶とカントリーマアムはともかく、映画を見るのに柿ピー? という顔をする。
「父さんが好きなんだ。お酒に合うからって」
「それは個人の嗜好だからなにも言わないけど、映画を見ながら柿ピーは無粋だと思う」
「その心は?」
「うるさい」
なるほど。たしかに。映画館で柿ピーやポテトチップスをボリボリ食べられたらそれはげんなりすることだろう。
僕と葉月は恋人であるが、だからこそ親しき仲にも礼儀あり、礼節は守るべきであった。
なにか買ってくるよ、と家を出ようとするが、彼女も礼節を知っていた。
「まあ、そこまでするほどのものじゃないよ」
と、柿ピーを開けると、それを小皿に入れた。そうすれば少なくとも袋の音はしない。
機転が利く女の子だ。
素直に感心すると、そのまま借りてきたブルーレイディスクをプレイヤーにセットした。
広告などを飛ばすと映画本編が始まる。
本編が始まると途端、彼女は真剣な顔になった。
映画を見るときの彼女は誰よりも真剣になる。
今までは薄暗い映画館でしか見られなかった顔だが、今日初めて、明るいリビングで見ることができた。
そういった意味ではこの鑑賞会はとても意味あるものというか、僕にとっては最良のものになるかもしれない。
彼女にとってどういう意味を成すかは分からないけど。
ただ、彼女は嫌いなはずの父子感動作も真面目に見ていた。
少なくとも悪態をついたりとか、集中力を欠いたりとか、そういったことはしなかった。
彼女は映画に対してどこまでも誠実なのかもしれない。
その誠実さはどこからきているのだろうか?
母親が女優だということも関係しているのだろうか?
それは定かではないが、映画が終わるまでの二時間、彼女は物音ひとつ立てずに画面を凝視していた。
僕などは退屈なシーンなどではあくびをしてしまったが、彼女は観客として不誠実なことは一切しなかった。
こうして映画は終わる。
内容はよく言えばありきたりだった。展開はすべて予想できる範囲だった。しかし、観客の期待を裏切ることなく、最後に父子が世間の荒波を乗り越え、人間として成長し、感動的に幕が下りる。
僕は脚本家でも小説家でもないが、ここで変なひねりを入れられたら、途端、駄作となっていたことだろう。
しかし、名作と呼ぶにはなにかが足りないそんな作品だった。
僕は彼女の反応を見る。
さぞ怒っていると思ったのだ。
彼女の嫌いなタイプの映画を選択した上に、さらにあまり面白くないときている。
温厚な彼女でもさぞ腹立たしく怒っているかと思ったが、そんなことはなかった。
ただ、彼女は泣いていた。
その瞳から涙を流していた。
僕は彼女が泣いているところを初めて見たかもしれない。
彼女は昔から独立心が強く、強い女の子だった。
僕に頼るようなことも、泣き言を言うようなこともなかった。
同じクラスの女子に嫌がらせをされたり、同学年の男子に告白をされても、僕に相談するようなことはなく、ひとりで解決していた。
どんなに悲しい映画を見ても、どんなに感動的で素晴らしい映画を見ても、泣くことのなかった彼女が泣いていた。
僕は彼女の顔を見つめてしまう。
その横顔がとても美しかったと言うこともあるが、彼女に涙を流す機能があったことに驚いているのだ。
彼女はそんな僕の視線に気がつく。
非難がましい目でこんな台詞を漏らす。
「だから私、泣いちゃうっていったでしょ」
そういえば映画を見る前、彼女はそんな台詞を漏らしていた。
あのときは戯けるというか、僕を茶化しているのかと思ったけど、彼女は有言実行したわけだ。
「それにしてもまさか私が君の前で泣いちゃうとは思ってなかった。ああ、恥ずかしいな」
「感動できる映画や悲しい映画を見たら人は泣くものだよ」
「そうか。そうだよね。ちなみに君は映画を見て泣いたことがある?」
「もちろん、あるよ。感動作を見ればボロボロ泣く」
「君が泣いているところを見たことがないのだけど」
「葉月の前にではいい格好がしたいから」
「男が女の前では泣かないってやつ?」
「そんなところ」
「君にしてはかっこいいね。でも、今後は遠慮なく泣いていいよ。私だけ泣き顔を見せるのはアンフェア」
「それじゃあ、次に感動大作を見るときは、涙腺を緩めるよ」
「そうして。それとさっきの話の続きなんだけど」
「さっきの話?」
「私が泣いてしまうって話。奇しくも予言通りになったけど、そのとき、もうひとつ言葉を添えていたのを覚えている?」
「さて、分からない」
「君は探偵の素質がないね」
「探偵じゃないからね」
「もしも私たちの物語が映画ならば、リモコンを押して巻き戻してほしいところだけど、私、そのとき、こう言ったの。『たぶん、私はこれを見たら泣いちゃうから、責任をとって』って」
確かに彼女はそんな台詞を言っていたような気がする。
一言一句間違いがないか分からないが。
「そう言っていたの。ちなみに君は『うん』って生返事をしていた」
「そんなこと言ったかな」
一応、記憶をたどるが、覚えはない。
ただ、優柔不断で主体性のない僕が、責任を取れと彼女に言われて否定するはずがなかった。
おそらく、彼女の記憶のほうが正しいはず。
ならば責任をとらなければならない。
その旨を彼女に伝える。
「ふふふ、さすがだね。話が分かる。じゃあさ、キスしようか」
「え?」
思わず彼女の言葉を聞き返してしまう。
「そんなに驚くようなこと? 彼女を初めて家に連れ込んで、彼女が涙を流してロマンチックな気持ちになってるんだよ? 普通キスしない?」
「……普通かは分からないけど」
「あ、もしかしてそれ以上のことを期待してた?」
「まさか」
「ならいいじゃない。キスしよう」
と彼女は両手を広げ、口先を尖らせる。
「……倫理的にどうかと思う。もうすぐ、母さんも帰ってくるし」
「大丈夫、アメリカでは挨拶代わりだから」
「ここは日本だよ」
その言葉を聞いた彼女はアメリカ人が困ったときにするようなポーズで肩をすくめた。
「あのね、私としては勇気を出して誘っているのにそんなに嫌がられたら立つ瀬がないのだけど? 君は女の子に恥をかかせるのが趣味なの?」
「そ、そんなことないけど」
思わず臆してしまうが、冷静に思考を進める。
当初の目的を思い出す。
僕がタイムスリップしたのは、彼女との別れを回避するためだった。
彼女からの好感度を上げ、別れようだなんて言わせないためだった。
そう考えればこれは千載一遇というか、有り難いことなのかもしれない。
そう思った僕は覚悟を固め、彼女の両肩を掴む。
彼女はそれを実況する。
「お、初めてのチューなのに、両肩をホールドですか。やりますね」
「……茶化さないでよ」
「……分かった」
というと彼女は僕に目をつむるように指示する。
「キスをするとき、目を開けている女は信用しちゃだめなんだって。まあ、フランス人じゃないんだし、ここは互いに目をつむらない?」
「……うん」
と僕は彼女の指示に従うと、目をつむる。
しかし、目をつむると目の前が真っ暗になるな。
当たり前であるが、唇がどこにあるか、よく分からない。
僕は両肩の位置から彼女の唇を探そうとするが、なかなか見つからない。
前のめりになれば頭をぶつけそうな気がしたし、目を見開くわけもいかないし、なかなかことは上手く運ばない。
こういうときになかなかスマートにことを運べないのは人生経験が足りないからだろうか。
そう嘆いていると目の前から、「くすくす」という声が聞こえた。
なにが可笑しいのだろう? 目を開けて尋ねたいが、彼女との約束上それはできない。
彼女はそんな僕にこう言った。
「キスする瞬間までは目を開けてもいいのに。君はこういうことをするのは初めてなんだね」
「……そうだよ」
気恥ずかしくて目を開けることができない僕に、彼女はこう言う。
「私は目を開けているよ。前世はフランス人だから。だから私が代わりにキスをしてあげる」
彼女はそう宣言すると、僕の頬に軽く唇を添えた。
僕は思わず、目を開けてしまうが、開けた瞬間には彼女は僕のもとから離れていた。
彼女のぬくもりが残る頬に手を当てる。
艶めかしい感触がよみがえる。
僕は彼女を見つめてしまうが、彼女は悪戯好きの精霊のような目でこちらを見ていた。
「ほっぺでもチューはチューだよね。唇は……そうね、来週の文化祭までとっておきましょう」
彼女はそう宣言すると、プレイヤーからBDを取り出し、それをケースに入れた。
「これは私が返却するね。面白かったよ、この映画」
彼女はそう言い切ると、最後にこう付け加えた。
「それにキスをしようとしているときの君の表情も」
ごめんね、キスをするときに目を開けちゃう女でした、私は。
だから今後もあまり信用しないでね。
そう戯けるが、彼女の言葉はあまり僕の耳に入らなかった。
僕は忙しなく立ち去る彼女の背中をただ見つめているしかなかった。
それから彼女との接触はなかった。
映画を見たあと、メッセージアプリを起動し、珍しく自分からメッセージを送った。
メッセージの内容は先ほど見た映画の批評、今日出された数学の課題などについて。
いつもと同じような内容だった。
それでも自分から話題を振り、メッセージを送るのはすごいことで、珍しいことではあった。
過去に戻ってきた僕は少しだけ能動的だった。
しかし、肝心の彼女は素っ気なかった。
僕は映画についての考察、キャラクターの解説、ストーリーラインの批評、監督の手腕、それに監督の過去作に対する蘊蓄まで語ったが、彼女には暖簾に腕押しだった。
いつもなら食いついてきてくれるし、日付が変わるまでメッセージのやりとりが途絶えないというのに。
今日は忙しいのかな、そんな感想が真っ先に浮かんだが、僕がメッセージを送ればすぐに既読のマークが付いたし、「うん」とか「そうね」という生返事は貰えた。
やはり映画の話題が駄目なのかと、数学の課題や学校生活について話を振っても、彼女の態度は変わらなかった。
これは駄目だな、と思った僕は時間を置くことにした。
明日になればいつもの彼女、メッセージ上ではやたら多弁で、映画の話ばかりしてくる少女に戻ることだろう。
そう思った僕はメッセージのやりとりを終える旨を伝える。
「今日はもうお風呂に入って寝るね」
そう切り出すと、彼女も「私も」と返信してくれた。今日のメッセージは三文字以上の言葉が出てこなかったような気がするが、僕がお風呂に入り、寝る前にスマホの画面を見たとき、三文字以上のメッセージが書き残されていた。
『いくじなし』
頭を拭いていたバスタオルを床に落とすとそのメッセージの意味を考えてしまう。
いくじなしとは意気地なしと言う意味だろう。僕のことを指している言葉だと思われる。
自慢ではないが、僕は意気地がない。それは今に始まったことではないし、彼女は小学校時代から知っているはずであったが、何を今さら、と悪態をつくことはできない。
今日、彼女は僕の家にやってきた。
誰もいない家で、ふたり、映画を見た。
彼女は自分からキスを迫ってきた。
僕はその場に及んでも躊躇し、スマートにことを運べなかった。
いくじなしと糾弾されて当然の男だった。
ただ、ここで「ごめん」と謝るのは三流のへたれのような気がした。
今日の行動は失点であるが、まだ一週間の猶予がある。
それまでに彼女にこの気持ちを伝え、キスをすればいい。
今日は臆してしまったが、次こそは上手くできるはずだった。
根拠のない自信であるが、僕はもう迷わない。
残された時間は少ないのだ。
それに今日、彼女に頬にキスをされ、分かったことがある。
僕は北原葉月が好きだということだ。
彼女のことを掛け替えのない存在だと思っている。
彼女のその桜色の唇に自分の唇を重ねたいと思っていた。
今日の出来事でそれがより顕著に強まった。
次、同じような機会があれば僕は迷わず彼女にキスをするだろう。
そう思った。
なので明日以降、そのチャンスを掴もう。
そう思いながら僕はベッドに入った。
僕は二〇分で眠りにつく。
寝付きのよい僕にしては時間が掛かったほうであるが、たぶん、興奮していたのだろう。
眠りについたあと、夢に葉月が出てきたが、そこでも彼女にいくじがないと怒られてしまった。