26 エピローグ
引っ越しの準備が終わると、父親の運転する車で東京に向かう。
父親の急な都合で東京の転勤が決まった僕たち一家。
この町に思い入れがないと言えば嘘になるが、この街に友人がいない僕は、大して感傷に浸ることはなかった。
姉は連日、友人たちと別れを惜しみ、東京の高校に転校しても連絡を絶やさないと誓っていたが、僕にそのような相手はおらず、姉弟でこんなにも違うものかと両親に呆れられたものだ。
東京に向かう車の中でもそのことが話題になり姉に話しかけられる。
「ああ、でも、さっき、ひとりだけ可愛い子が見送りにきたね」
その光景を見ていなかった両親は信じていないようだが、姉は弟を擁護するように言う。
「ええと、名前はなんだっけ? たしか小学校のときから仲が良い子だよね」
僕は反論する。
「あの子は見送りじゃないよ。まったく知らない子だ。自分でも間違いだと言ってたし」
「あれ? そうなの? わたしはてっきり――」
それでも姉は質問してくるが、本当に知らない子なので、答えようがなかった。
しばらくすると姉の質問はやむ。
姉はスマホを取り出し、メッセージを打ち始めた。早速、友人たちと連絡しているのだろう。まめな女性だ。そんなふうに姉のことを観察するが、僕の胸中は言葉にできない感情で満たされていた。
なにか大切なことを忘れているような、胸を直接かきむしられるような感覚に包まれる。あの女の子に会って以来、僕の胸がざわついていた。
あの女の子はいったい、誰だったのだろう。
彼女の名前はなんというのだろう。
彼女は本当に知らない子なのだろうか。どこかで会ったことがあるような。
そんな気分に包まれたが、彼女の名前を思い出すことはできない。
それどころか、先ほど会ったばかりなのに、彼女の顔がうっすらと消えかかっていた。彼女の顔を思い出そうとすると、もやが掛かったかのような感覚に包まれるのだ。
思い出そうとすれば思い出そうとするほど、彼女の顔を記憶しようとすればするほど、彼女の顔の輪郭が崩れるのだ。
不思議な感覚であったが、それも数分ほどだった。
数分後には僕は彼女のことを完全に忘れていた。
その後、姉にもう一度問われたが、そのときは先ほどの出会いすら忘れていた。
北原葉月、いや、真柴葉月はその後、高校に進学をした。
地元の高校だ。
本当は隣町の高校に進学しようかと思ったのだが、そこに彼はいない。
彼がいないのであれば、進学校とはいえ、隣町の高校まで通う必要はない。地元の高校を受験し、そこに通った。
学生生活は順風満帆だった。
どこにでもあるような地方都市の高校。刺激はないが、元々、刺激に興味がない私は、普通に高校生活を楽しんだ。
普通に生活し、普通に勉強し、普通に友達を作り、普通に部活に入る。
入った部活は映画研究会。
隣町にある高校のものとは違い、意識も低くガチではない。
文化祭に映画を撮ったりはせず、部室に集まっては映画の話をする程度の部活。
部活の棚に歴代の部員たちが部費で買ったDVDなどがあるだけで、幽霊部員なども多かった。私も熱心には参加せず、家で映画を見ることのほうが多かった。
ただし、友達は多かった。部活でもクラスでも。
映画の話をしてくれる友達は少なかったが、彼女たちがするお洒落の話や異性の話など、昔は苦手だった話にも積極的に参加できるようになっていた。
もっとも、彼女たちのように積極的に彼氏を作ったりしようとはしなかったけど。
そういうことに興味はないわけではないけど、男子から告白されるたび、こう考えてしまうのだ。
この人は私のことを命がけで守ってくれるだろうか。
すべてを捨ててまで助けてくれるだろうか。
そんな考えがふとよぎってしまうのだ。
だから私はどのような仲の良いクラスメイトからの告白も、格好いいサッカー部の子からの告白も「ごめんなさい」をしていた。
頭を下げるたびに思う。
あのとき、私が傷つけてしまった男の子は今、なにをしているのだろうか、と。
東京の高校に進学した僕は、平凡な日常を送り、平凡な成績で高校を卒業した。
平凡な大学に通い、平凡な企業に就職するのは間違いなかったが、それはもう少し先。
大学生活というやつは四年もあり、僕はまだ二年消化しただけであった。
あと、二年もこの生活が続くと思うと少しだけうんざりするが、楽しみがないわけではない。
最近、女の子の友達ができた。
映画のことを語り合える友人ができたのだ。
僕は彼女と頻繁にメッセージをやりとりするような関係になっていた。
その日も朝、姉の前でスマホを弄っているとからかわれる。
「また、例の彼女とお話?」
姉はにやにやとスマホをのぞき込もうとするが、僕は画面を隠す。
どうでもいいだろう、と抗議すると、姉は姉として放置できない、と言う。
「いや、ただメッセージしているだけなら微笑ましいのだけど、その子と出会ってから一年以上経つんだよね?」
「そうだけど」
「馴れ初めは?」
「馴れ初めって、彼女とはそういう関係じゃない」
「彼氏彼女じゃないってこと?」
「そうだよ」
「それにしては交流が途絶えないようだけど」
「昔だって文通という文化があったでしょ」
「私が生まれる遙か前にね」
「失われたわけじゃない」
「つまり、その子とは一回も会ったことないの?」
「ない」
と正直に言うと、姉は「呆れた」と漏らした。
「今時、どんな純情な中学生でもそれはないよ。相手は本当に女?」
「だと思うけど」
「ネカマじゃない?」
「だとしたら相当の演技力だね」
前述通り彼女とは一年以上メッセージのやりとりをしている。
映画のことを話したり、互いに写真のやりとりもした。
彼女は遠方に住んでいるから会うことはなかったが、どこかに出掛ければ互いに写真を送り合ったりした。旨いものを食べれば写真を撮り、見せ合った。
やっていることはふたりだけのSNSであるが、互いにツイッターすらやっていない。
見ず知らずの誰かに写真を見せるという文化というか、考えがないのだ。
しかし、彼女には違った。
珍しい形の雲を見かければそれをスマホで撮影して送るし、写真映えする食事にありつけばそれを写真に写し見せる。可愛らしい猫がいれば何枚も連写してトークルームに貼り付けた。
まるで恋人のようであるが、僕たちは恋人ではない。
写真の彼女はとても美しく、モデルのようであったが、それでもなぜか下心のようなものは湧かず、ただただ同じ趣味と嗜好を共有する友人として接していた。
姉に言わせればその写真は偽物か、僕の頭がおかしいらしい。
客観的に見ればそうなのかもしれないが、それでも僕は彼女の正体を探ったり、直接会おうとは思わなかった。
もちろん、今後もこの関係は続けていく。
少なくともどちらかに恋人ができるまでは続けるが、それは彼女に掛かっているだろう。
僕は今のところ、恋人を作る気はなかったし、それほどモテる性質でもない。
ただ、彼女は別で、明日には恋人ができてもおかしくはなかった。
そんなふうに思っていると、案の定というか、計ったかのようにメッセージがくる。
『わたし、明日、デートする』
いきなりであったが、彼女らしい文面だった。
虚心でいられなかったが、それでも喪失感は感じなかった。むしろ、彼女のような良い子にできる彼氏がどのような人物か気になったので尋ねる。
彼女は正直に答えてくれた。
「彼氏ではないけど、デートをする相手はあなた」
と彼女は言い切った。
驚く僕に彼女は続ける。
「あのね、わたし、明日、東京に行くの。だからあなたに会おうと思って」
なるほど、たしかに物理的な距離が障壁でなくなるのならば、一度くらい会っておくのも悪くないと思った。
彼女は、おめかししてきてね、格好いいジャケットを持っていたでしょう、と続ける。彼女が指定してきたジャケットはたしかにあった。姉に買ってもらったものだ。しかし、それを買ってもらったことは彼女に伝えていないはずだが、なぜ、知っているのだろうか。
気になったが、彼女は教えてくれなかった。
まあいいか。そう思った僕は、翌日に備え、早めに寝た。
翌日、僕は渋谷に向かう。
彼女はこれから会うというのに、情景描写を求めてきた。
渋谷に向かう電車のありのままを文字にしろという。
よく分からないが、変わったことを言うのは今に始まったことではないので、その指示に従う。
僕は私鉄の車両の色、込み具合、窓から流れる景色を説明する。
彼女の返答は「散文的すぎる。もっと詩的に説明して」だった。
無理難題だ。僕は普通の大学生で、小説家でもなければ詩人でもない。見たままを有りのままに伝えるしかなかった。
彼女は不満を漏らすが、以後、渋谷につくまで文学性がない文章を送る。
渋谷につく。ハチ公前に行くが、普段、待ち合わせなどをしない僕は盛大に迷った。駅員や親切な女性に道を尋ねつつ、なんとか到着すると、こんなメッセージが流れる。
「到着したみたいだね、そこで待っていて」
彼女はそう言う。
電車が混んでいて少し遅れるそうだ。
それならば仕方ない、そう思って彼女を待つ。
一〇分、二〇分、時は無情に過ぎるが、彼女がやってくる気配はない。
あれからメッセージもやってこない。
なにかあったのだろうか? 僕は彼女にメッセージを送る。
「まだ時間が掛かりそう?」
彼女の答えはイエスだった。いや、それどころではなく、もしかしたらそこに赴けないかもしれない、と付け加える。
なにかトラブルでもあったのだろうか、それとも待ち合わせをする僕の容姿があまりにも酷かったのだろうか、尋ねる。ただ、彼女はそれは違う、と断言する。
直接話していい? と尋ねてくる彼女。もちろん、断る理由はなかった。
メッセージアプリの通話に出ると、彼女は開口一番に謝ったが、遅れている理由はなかなか教えてくれない。
荒唐無稽でにわかには信じられない理由があるそうだ。僕は彼女の言葉ならばなんでも信じるつもりだったが、あえてなにも尋ねなかった。
その後、当たり障りのない会話を数分続ける。それですら僕には心地よい時間だったが、彼女には時間が残されていないようだ。
彼女はこれで最後と言った。
最後というのは今日は、という意味なのか、今後も含めてなのか、それは分からなかったが、彼女はこう望んだ。
私の名前を口にして、と。
名前など、普段からメッセージに書いているし、電話越しにささやいたこともあるが、それでも彼女は最後に自分の名前を口にしてほしいようだ。
断る理由はなかったので、僕は彼女の名を呼ぶ。
出会ったときから彼女のメッセージアプリの名前はそれだった。
おそらく生まれたとき、両親にもらったであろう名を口にする。
「希美」
と――。
その名を聞いた彼女は満足したのだろうか。電話越しでは分からなかったが、最後に「ありがとう」と謝辞を伝えると、電話を切った。
なにがしたかったのだろうか。スマホを切ったあともしばらく画面を見つめるが、数秒後、彼女からメッセージがくる。
『これがわたしからの最後のプレゼント――』
彼女は右方向を見つめるように言った。
なんのことだろうか? いぶかしくは思ったが、僕は素直に希美の指示に従った。
なにか変わったものがあるのだろうか、周囲を見まわすが、その視線は止まる。
とある人物が目に入ってしまったからだ。
希美ではない。似ているが彼女ではなかった。
僕と同年代の女の子。
黒髪の女の子。
どこかで見たことはあるが、逢ったことのない女の子。
少なくとも僕の記憶にはいない少女。
しかし僕の心臓は高鳴る。
僕の頭は彼女のことを覚えていなかったが、僕の心臓は彼女を覚えていた。
僕の心は彼女を忘れなかった。
僕は何度も何度も彼女を救ったような気がする。
何度も何度も彼女を愛したような気がする。
こことは違う時間、違う場所で。
それはSF的な解釈で、現実主義者の僕とは相容れぬ考え方であったが、僕の心はどうしようもないほどの速度で動き出し、叫びたがっていた。
「君を守るため、僕は何度でも死に戻る――」
そう心の中に刻みつけると、僕は彼女に声を掛けた。
彼女は、その人は、僕に声を掛けられた瞬間、全身を震わせた。
それが見知らぬ男に声を掛けられた恐怖のためだったのか、それとも違う感情が作用していたかは分からない。
ただ、彼女は泣いていた。
街中だというのに、止めどなく涙を流していた。
彼女は初めて僕に会うというのに、僕の名を呼んだ。
驚きはしなかった。なぜだか、自然に受け入れることができた。
僕は心の中にふと湧き出てきた名前、心の真ん中にあった名前を口にする。
僕はなぜ、その名前を今まで口にすることができなかったのだろう。
世界一大切で、世界一美しい名前を。
僕はその名前を紡ぎ出す。
「葉月」
その名前を聞いた女性は花を咲かせたかのように微笑んでくれた。
最後までお読みくださりありがとうございます。
この「物語」に「心」動かされた。
「感動」したという方は下部から「評価ポイント」を入れて頂けると嬉しいです。
小説家になろうはポイントは増えると、より多くの人に読まれ、作品が広がっていきます。
どうか「応援」よろしくお願いいたします。