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北原葉月は、女優北原栞の娘であった。
彼女と一緒に豪邸に暮らし、常陽中学校に通っていたが、それも先日までの話だった。
私の親権は父親である真柴一樹と真柴沙織夫妻のものとなり、彼らの家で一緒に暮らすことになった。
北原栞は娘の親権を手放すのを惜しんだが、週刊誌に児童虐待疑惑が報じられ、自分の仕事に影響が出始めると、手のひらを返したかのように娘を手放した。
ほとんど身ひとつで父親の元に送りつけ、以後、干渉してくることも、会いたいと言ってくることもなかった。
これは後日、大人になって気が付くのだが、母親は日に日に成長する自分にかつての自分を重ねていたのかもしれない。
若さと可能性を持った娘に嫉妬していたのかもしれない。
女優という生き物として芸能界という狭い世界で生きていた彼女にとって、自分は娘ではなく、かつての自分を映し出してしまう望まぬ鏡だったのかもしれない。
母親と離れてそう感じた。
今まで営んでいた母親との生活のほうが異常だったのだ。
父親と暮らすようになって初めてそれに気が付いた。
真柴一樹は、芸能人としても音楽家としても才能はなかったが、父親としての才能に恵まれていた。
それは彼の娘を見れば分かる。
私の腹違いの妹、可憐は幸せを煮詰めて作った砂糖菓子のような存在だった。
他人から殴られたことも罵倒されたこともない人生。
両親に可愛がられ、宝物のように扱われてきた人生を歩んでいた。
そんなふうに育てられた少女は、心にゆがみなどあろうはずもなく、ある日、突然現れた姉を歓迎してくれた。
本当に小躍りし、目を輝かせ、姉ができたことを喜んだ。
自分の部屋に半分しか血の繋がっていない姉が転がり込んできたというのに、厭な顔をするどころか、それが幸運であるかのように受け入れてくれた。
最初、母親以外の「他人」と暮らすことになれておらず、お手伝いさんもいない生活に戸惑っていた私。
また、当時の私は「異常」で母親から離されたあとも、母親に対する情のようなものが残っており、父親に対しても心を開いていなかった。
母親から自分を引き離した張本人、と思っており、有り余る感情を浴びせたこともあったが、真柴一樹と沙織は辛抱強く私に接し、愛情を注いでくれた。
あるいは年若い妹よりも大切にされたかもしれない。
特に沙織は私が自分の娘でもないにもかかわらず、可憐より可愛がってくれた節がある。
可憐が大人になったとき、沙織と私の血が繋がっていないことに驚いたほどの可愛がりようであり、それは母親との生活で心が摩耗していた私にとってなによりもの支えとなったのは言うまでもなかった。
私は真柴夫妻、いや、本当のパパとママのもとで一年間生活することにより、人間らしい感情を取り戻すようになった。
人並みに笑える女の子になった。
そして二年という時間を掛け、やっと、あのとき自分を助けてくれた「男の子」に感謝できるようになっていた。
私を救ってくれた男の子。
彼は何重もの意味で私の恩人だった。
私があの街の小学校に転入したとき、彼はクラスメイトのいじめから私を救ってくれた。
先生に報告することによってくだらないいじめから解放してくれたのだ。
それだけでなく、友人を作ることのできない私を気に掛け、時折話しかけてくれた。
今日は涼しいね、一昨日は暑かったのに。
学校の花壇でコスモスが咲いている。
今日の給食はカレーライス。
他愛のない話だったが、話題のない私に合わせてくれているのは明白だった。
たどたどしくも彼と頻繁に話すようになると、互いに映画が好きだという話になり、よく映画の話をするようになった。
互いに共通の趣味があると分かると、ふたりは親友のように話すようになり、惹かれ合っていった。
一緒に父親のもとに家出までした。
そのとき、指輪を買ってくれた。
私はきっと将来、この男の子の彼女となり、妻となる。
幼いながらにそう確信していた。
――あの日、裏切られるまでは、だけど。
彼は私が一緒に駆け落ちをしようと提案すると了承してくれた。
一緒に東京に逃げてくれると言った。
しかし、決行の当日、彼は私の前に現れると、私を父親に引き渡し、私の母親をマスコミに売った。
結果だけ見れば彼の行動は是であり、正義そのものだったのだけど、近視眼だった私は彼を恨んだ。
繰り返すが、当時、母親にゆがんだ愛情を持っていた私は彼を憎んでしまったのだ。
当然、そのような男の子に対する恋愛感情など消し飛び、ただただ、憎しみを募らせていたのだけど、最近、その感情は消えていた。
二年という月日が私の心を変えたのだ。
母親に対する慕情は完全に消え去り、父親と新しい母親、それに妹に対する愛情だけが積み重なっていく。
その合間から時折漏れ出るのは後悔だった。
その後悔とはあのとき、あの男の子に酷い言葉を浴びせてしまったこと。
その後、あの男の子に感謝の言葉を告げなかったこと。
今、自分が幸せであるとあの男の子に伝えていないことだった。
それらはわだかまりのようなものになり、私を支配していた。
だから私は中学卒業を控えたある日、両親の許可を取り、かつて自分が住んでいた街に向かうことにした。
もちろん、母親に会いに行くのではない。
あの男の子の家に向かい、あの男の子に謝りにいくのだ。
彼に感謝の気持ちを伝え、今、とても幸せであると教えたかった。
あるいはそれは私の身勝手な行動なのかもしれないが、それでも私は彼に会いたかった。
この思いを伝えたかった。
私はあの日以来、初めてあの街に戻ると、彼の家を探した。
彼の家は記憶の片隅にあった。
一緒に下校したことは何度もある。
彼の家は私の家より学校から遠かったし、寄ればさらに遠回りになるが、当時の私は彼と一分でも一緒に長くいたかったのだろう。回り道をしてまで彼と一緒に帰った記憶がある。
その記憶を思い出し、彼の家の前まで行くと、その家が見える。
どこにでもあるような小さな家。
地方都市の庭付き一戸建ての家。なんLDKなのかは入ったことがないので分からないが、当時、私が住んでいた家の十分の一もない。
ただ、今、私が住んでいる父親の家よりは大きかった。
そんなふうに観察していると、私は気が付く。
家の前に引っ越しのトラックがあることを。
厭な予感がする。
業者の人々は次々と家の中から荷物を出していた。
私は慌てて近寄ると、業者の人に尋ねる。
「引っ越しですか?」
業者の人々は肯定する。
表札の名前を確認し、この家の人ですか? そう尋ねると彼らはうなずいた。
私は慌てる。男の子の名前がそこにあったからだ。
彼がこの街から引っ越すのだろうか。どこに引っ越すのだろうか。
私は彼らに尋ねるが、さすがにそこまでは教えてくれなかった。個人情報などがあるのだそうだ。
いても立ってもいられなくなった私は家の中に入り、彼に直接会おうと思ったが、それはできなかった。
いや、できなかったというよりもその必要はなかった。
彼が小さな荷物を抱えて出てきたからである。
彼の顔を見た私。再び出逢った私。思わず硬直し、感情の波が押し寄せる。
神経が高ぶり、目頭が熱くなるのを感じる。
このまま彼の胸に飛び込み、感情を解放させたかったが、それはできない。彼は私の恋人ではないし、私は彼に酷いことを言った。
まずは彼に直接謝りたかった。
あの日、酷い言葉を掛けてしまったことを謝罪したかった。
私は深々と頭を下げると、彼に言った。
「あのとき、酷い言葉を掛けてしまってごめんなさい」
その言葉を聞いた彼は不思議そうに私を見つめた。
まるで初めて私を見るかのような表情だった。そして彼はその表情通りの言葉を発した。
「――ごめん、君と僕は知り合いなの? 僕は君に覚えがないのだけど」
その言葉は衝撃的であった。
彼が私のことを覚えていないのは、想定になかったからだ。彼とは小学校からの付き合い。一緒に家出をした仲。嫌われているかもしれないという可能性は考慮したが、忘れ去られているという可能性は考えなかった。
ただ、よくよく考えれば彼にそのような態度を取られても仕方なかった。
忘れられたふりをする。
存在さえ無視される。
あるいは本当に記憶の中から消去される。
それは当然のことで、昔のように親しげに話してくれたり、優しくしてもらおうというのがおこがましい考えだった。
ましてや彼に自分のことを好きになってもらうなど、自分勝手で身勝手の極みであった。
私の目にはいつの間にか涙があふれていた。
それを流さなかったのは、これ以上、卑怯で卑劣な女になりたくなかったからだ。
かつて自分が罵倒し、傷つけてしまった男の子の感情をこれ以上、かきむしりたくなかった。
私は愛想笑いを浮かべると、最後に振り絞るようにこう言った。
「――忙しい中、ごめんなさい。勘違いでした」
やっとの思いでそれだけを言い終えると、私はその場を立ち去った。
角を曲がり、彼の家が見えなくなると、その場で泣き崩れた。