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 意識を取り戻すと、案の定、僕は鼻から大量の出血をしていた。

 しかしそのことが奏功した。

 僕は葉月のことを記憶の片隅にとどめながら、過去に戻ることに成功したのだ。

 幸いなことにまだ僕は彼女のことを覚えていた。

 彼女のことを愛していた。

 彼女がどうすれば幸せになるか知っていた。

 今の僕にはそれで十分だった。


 僕は彼女の名を、彼女の顔を思い出す。脳に刻み込む。

 いつか忘れてしまうかもしれない恋人を胸に焼き付ける。

 僕は彼女の名を心に刻みながら、その日を待った。

 その日に備え、さる機関にも連絡をしておく。

 彼女の父親にしたためる手紙を用意しておく。

 父親に対しては真実のみを語るつもりだった。

 こうしてすべての用意を終えると、僕は最愛の人のもとに向かった。

 彼女に別れを告げるために。

 彼女を幸せにするために。


 

 辺りはクリスマスムード一色であった。

 イルミネーションが灯り、街は華やかさに包まれている。

 街角のショウ・ウィンドウは海賊の宝箱をひっくり返したかのように煌めき、

 恋人たちは世界中の幸せを独占しているかのように微笑みながら歩いていた。


 そんな中、彼女はそこにいた。

 街角にある大きなクリスマスツリーの前。

 忙しなく人が通る場所に彼女はいた。

 茶色いダッフルコートに白い手袋にマフラーをしている。

 とてもよく似合っていた。


 元々大人っぽいせいか、高校生くらいに見えなくもない。だから職務質問されることもなく、長時間立っていられるのだろう。


 僕は最愛の人を遠くから見つめる。

 彼女とは一週間前、一緒に家出をする約束をした。

 ふたりで駆け落ちをし、そのまま東京で暮らす約束をした。


 その約束は実行され、東京まで行くのだが、結局、泊まるところが見つからず、警察に保護され、僕たちの逃避行は終わる。


 その一年後、僕は彼女に告白をし、付き合うことになるのだが、その日の出来事は僕たちのターニングポイントであった。


 もしもここで僕がある行動をすれば、彼女ははなはだ失望し、愛想を尽かすだろう。

 僕のことなどどうでもよくなり、父親と一緒に暮らすことを望むようになるはず。

 いや、一足飛びに明日にでも彼女は父親を選ぶはずだった。

 暴力を振るい、彼女を虐待する母親を見限るはずであった。

 僕はそのために彼女のもとへ向かう。

 僕は彼女の後ろに回り込むと、彼女にこう言った。


「こんばんは、月が綺麗ですね」


 彼女は僕の声色で僕が僕であることを悟ったのだろう。

 振り向くことなく、軽く笑う。

 僕の台詞がとある映画を模していることに気が付いたのだ。

 僕は続ける。


「月だけではなく、君も綺麗だ。それにしてもこんなに綺麗な女の子を待たせるだなんて罪作りな男だ。僕が君の彼氏ならばそんな真似はしないのに」


 僕は軽く戯けると、彼女に言う。


「もしもあと三分待って彼氏がこなかったら、僕とデートしてくれませんか?」


 映画俳優のように気取っていったが、中学生の僕が言うと滑稽に聞こえた。

 だからだろうか、彼女は笑いをこらえながらこう言った。


「――もしも振り向いて、彼氏がいなかったら、デートしてあげてもいいわよ」

 と――。


 彼女はゆっくりと振り向く、と「これってなんの映画だっけ?」と尋ねてきた。

 僕はあえてその映画のタイトルは口にせず、代わりに言った。


「ありがとう。僕に付き合ってくれて」


「それは私の台詞じゃない? 駆け落ちに付き合ってくれるクラスメイトなんてなかなかいない」


「そうだろうね」


 と他人事のように言う。


「じゃあ、行きましょうか。補導されないうちに」


 彼女は地面に置いていた大きな鞄を手に取るが、とあることに気が付く。

 僕がなにも荷物を持っていないことに気が付いたのだ。

 不審に思った彼女は尋ねてくる。


「三日分の着替えと歯ブラシとかを用意して、と伝えたつもりだったけど」


「ちゃんと聞いたよ。でも、持ってこなかった」


「どうして?」


「駆け落ちなんて無意味だから」


「無意味じゃないよ」


「駆け落ちしても、君のお母さんは君のことなんて心配しないよ」


「――え?」


 と思わず不審がる葉月。僕は容赦なく続ける。


「君はお母さんに心配してもらいたくて駆け落ちするんだろう」


「そ、そんなことないわ」


「でも、そんなことじゃ北原栞は娘に心配なんてしないよ。それどころか君の身勝手さをなじる」


「どうしてそんなこと言うのよ! 君にそんなこと分かるわけがない」


 彼女は気の強い言葉を返すが、僕は動じない。

 ありのままに真実をさらけ出す。


「分かるよ。分かるんだ。いや、知っているんだ。葉月が北原栞に愛されていないことを。北原栞に虐待されていることを」


「虐待なんてされてないもん。ううん、されてないわ! 勝手なことを言わないで」


 僕は彼女の腕を掴むと彼女の服の袖をめくる。

 そこには生々しい痣があった。

 彼女はそれを必死に隠そうとする。


「葉月の右足には障害があるよね。それは北原栞に階段から突き落とされたときに抱えた障害だ」


「…………」


 彼女は無限とも思える沈黙のあと、「呼び捨てにしないで」と言った。


 このとき、まだ僕は彼女のことを葉月さんと呼んでいたことを思い出すが、それでも構わず呼び捨てにした。


 彼女の名を呼ぶのはこれで最後だ。最後くらいさん付けなどしたくなかった。


「葉月、僕はこれから君を父親のもとに連れて行く」


「厭だって言ったら? 大声で叫んだら?」


「警察がきてくれたほうが話が早い」


「…………」


「これから葉月を父親の元に連れて行く。それにこのことはすでに、児童相談所、マスコミには伝えてある。君の母親は近い将来、君の親権を取り上げられるだろう」


「……ひどい。私からお母さんを引き離すなんて」


 彼女の瞳からは涙がこぼれる。

 それは演技なしの涙だった。彼女は演技が苦手だ。嘘の涙など流せない。


 彼女の憎しみの目には偽りがなかった。彼女は母親と自分を引き離す僕を本気で憎んでいた。


 それでいい。


 彼女が僕を憎めば憎むほど、彼女が僕を嫌いになるほど、彼女はこの街にとどまる理由をなくす。


「お母さんは悪くない。なにも悪くないの。悪いのは私なのに」


 彼女は最後まで母親をかばう。それがストックホルム症候群の一種であることを僕は知っていた。


 ストックホルム症候群とは、北欧のストックホルムで起きた強盗事件で起きた症例である。

 人質である被害者が、犯人をかばったり、擁護する現象のことを指す。


 あまりに長い間、異常な状況下に置かれた被害者は、やがて加害者に好意を持つようになり、共感まで始めるようになることもあるという。


 それは犯罪だけでなく、児童虐待でもよく見られる。長い間、虐待され続けた子供が虐待した親をかばうようになり、虐待そのものがなかったかのように振る舞う。それどころか虐待する親を必死で擁護することもあるという。


 親と離ればなれにされたくない心情が生まれるのだ。

 葉月が置かれている状況がそれであった。

 まさしく異常な環境で、一刻でも早くその環境から彼女を解放したかった。

 だから僕は悪役を演じ続けた。

 それでも厭がり、悲鳴まで上げようとする少女に対し、先手を打っていた。


 彼女の父親をこの場に呼びよせていたのである。

 真柴一樹が現れると、彼女は抵抗を止めたが、代わりにその視線の鋭さがました。

 呪詛にも似た言葉を口にする。


「……裏切った。信じていたのに裏切った。……君だけは世界中が敵になっても私の味方をしてくれると思ったのに……」


 彼女は嗚咽を漏らし、目を泣きはらしている


 気が利いた悪役ならば、「俺を信じるのが悪い」とか「見る目がなかったな」と言うのだろうが、僕にそのような器量はなかった。


 ただただ、心の中で彼女に許しを請い、謝った。

 ただただ、彼女の幸福を願った。

 それを言語化することはできなかったが、僕は彼女に背を向ける。

 幾通りも罵声を覚悟したが、彼女はなにも口にはせず、僕の背中を見送った。


 途中、真柴一樹と視線が交わるが、彼は一言、

「損な役回りを引き受けるものだ」

 と僕を慰めてくれた。


 ただ、その言葉も僕には届かない。

 もう二度と彼女と会えないと思うと、目が熱くなった。

 自然と涙が目頭にあふれた。

 こんな大通りで泣くことはできない。

 人前で泣くなど、男のすることではないと思ったからだ。

 僕はせめて彼女が見ているうちは泣き崩れまいとこらえた。


 十数歩ほど歩くとゆっくりと振り返る。

 するとそこには誰もいなかった。少なくとも僕の知っている人物はいなかった。

 先ほどまでクリスマス・ツリーの前にたたずんでいた少女は、影も形もなかった。

 こうして僕はすべてを失ったことを知った。

 それと同時に僕の中から彼女の記憶が消える。

 これは代償であった。

 何度も過去に戻った代償。

 自分の記憶と彼女の幸せを天秤に掛け、僕は後者を取ったのだ。


 未来から僕にメッセージを送った少女は、過去に戻り続けると記憶があふれ、大切なものから順に記憶が失われると言った。


 僕にとってなによりも大切なのは葉月だった。

 彼女の記憶から順に失うのは、公平であり、必然でもあった。

 あるいはそれは僕が彼女を愛した結果であり、僕が彼女を救った証しでもあった。


 それが神聖なことなのか、歪なことなのか、僕には判断はできない。五分後にはすべてを忘れてしまうからだ。すべてを失ってしまうからだ。


 駅の近くにあるベンチに腰掛けると、そのまま気を失った。

 僕を病院に運んでくれたのは、近くを通り掛かった親切な人だった。

 僕を迎えにきてくれたのは、高校生の姉だった。

 翌日、病院で目覚めた僕は、彼女のことをすべて忘れていた。

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