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僕と北原葉月の出会いは、小学校までさかのぼる。
小学五年生のころだったろうか、彼女はある日突然、僕のクラスに転校してきた。
クラスメイトたちがざわめいたことを覚えている。
彼女の容姿が整っていたということもあるが、彼女が有名女優の娘だった、ということもある。
地方都市の小学生にとって東京からきた芸能人の娘は注目の的になるのだ。
しかし、彼女は自分が芸能人の娘であることなど鼻にもかけず、また友人を作る材料にもしなかった。
クラスメイトたちとは溶け込もうとはせず、孤高を貫き、休み時間や放課後、だれが話しかけても無視をした。
男女問わず。
最初は転校してきたばかりで気後れしているのかと思ったが、その無視の度合いがあまりにも徹底していたので、クラスメイトたちの興味が急激に収束し、好奇心が敵意に変わっていったのを覚えている。
女子たちはあからさまに彼女を避けるようになり、彼女に好意を抱いていた男子たちは彼女の持ち物に悪戯などをするようになった。
お昼休みの時間、彼女はひとりで弁当を食べ、持っていた高級ハンドタオルなどが泥だらけになっていた。彼女はいじめのターゲットになったのだ。
その稚拙で幼稚な行為は半月ほど続いたが、半月後には収まった。
誰かがクラスの担任に告げ口をし、その愚かな行為を告発したからだ。
当時、近隣の学校でいじめによる自殺が起こり、マスコミに総叩きに合っていた市の教育委員会は、いじめ撲滅をモットーに掲げており、担任は烈火のごとく怒った。帰りの学級会は数時間延長し、葉月へのいじめを止めるように諭した。
クラスメイトたちも元々は気の良い連中であったし、葉月がことさら生意気だったわけでもないので、以後、いじめは起こらなかったが、彼女はそれでも孤高を守り、いつもひとりで行動していた。
ただ、ある日、視聴覚教室へ移動するとき、たまたま隣になった彼女は蚊の鳴くような小さな声でこんなことを言った。
「ありがとう……」
彼女は僕が担任に告げ口をし、いじめを止めさせたことを知っていたのだ。
なぜ、それを知ることになったのかは知らないが、以後、彼女は稀に僕に話しかけるようになり、僕も彼女の言葉を聞くようになった。
そして中学生ころになると彼女と付き合い始めるようになるのだが、そのときのことが切っ掛けで僕のことが好きになったのか、数年後、尋ねてみたが、彼女は気恥ずかしそうに微笑むだけでなにも答えてくれなかった。
彼女との出逢いを思い出していると、僕は彼女の家の前にいることに気が付く。
僕たちが青春時代を過ごした地方都市の家ではなく、東京にある彼女の母親のマンションの前だ。
さすがに芸能人が住むだけあり、瀟洒で立派だった。
僕みたいな庶民が一生掛けても買うことなどできそうになかったが、不思議とここに住みたいとは思わなかった。
改めてマンションを見上げる。
彼女の部屋はたしか、最上階で、ワンフロアすべて彼女の母親が所有していたはず。
そんな話を昔聞いた。
彼女は僕と自分の母親が会うのを嫌がっていたから、この家にも入ったことはないが、彼女はこの大きな家でなにを考え、どう過ごしていたのだろうか。
そんなことを考えていると、僕のスマートフォンが振動していることに気が付く。
メッセージが着信したようだ。
最初は迷惑メッセージかと思った。
地方都市にいたときもそうだけど、僕には友人が少ない。
気軽にメッセージを送ってくれるのは姉くらいだ。その姉も最近、彼氏ができたらしく、不出来な弟にメッセージをくれる回数がだいぶ減った。
なので僕のスマホに送られるメッセージは、業者の広告メッセージと相場が決まっていた。
いい加減、アカウントに鍵をかけてしまえばいいのだが、それすら億劫な僕はメッセージが送られるたびにブロック設定をしていた。
今日もまたいつものようにブロックしようと指で操作を始めるが、その動きは止まる。
メッセージの送り主が意外な人物だったからだ。
いや、意外な人物などという生易しいものではない。
メッセージの送り主はかつての恋人、北原葉月その人であった。
「……そんな馬鹿な。そんなの絶対あり得ないのに」
思わず漏れ出る陳腐な言葉。
しかし、何度見ても送り主は北原葉月と表示される。
新しいアカウントではない。過去、まだ彼女を恋人と呼べた時代から彼女が使っていたアドレスで、最後に交わしたメッセージも残されていた。
「誰かのいたずらなのだろうか……」
それしか考えられない。
彼女は死んだ。それは間違いない。
同級生たちにそのことは確認したし、新聞の訃報欄もチェックした。大女優の娘の死は、新聞にも載るほどで、大学のコンピューターでも閲覧できた。
ならばこのメッセージを送っているのは誰であろうか。
考えられるのはみっつ。
・彼女の幽霊が送っている。
・悪意ある第三者にアカウントを乗っ取られた。
・彼女の近親者が彼女のスマホを弄り、メッセージを送っている。
一つ目の可能性は論じるまでもないだろう。この世界に幽霊はいない。
少なくとも僕は幽霊を信じていない。だからその可能性は真っ先に排除した。
二つ目の可能性は大いにありうるが、アカウントを乗っ取った人物がなぜ、僕にメッセージを送るのか、それが謎であった。
メッセージの文面はとても親し気なもので、「こんばんわー♪ 今、暇?」という垢抜けたものだった。
業者や詐欺師のものとは思えない。もっとも、この後、怪しげなURLが張られたり、商品購入の催促や宗教の勧誘が始まる可能性もあるが。
三つ目の可能性。これが一番高い。彼女はすでに死んでしまったが、彼女には母親がいるし、父親もいたはず。腹違いの妹もいると聞く。
近親者がスマートフォンを手にし、それを操作しているというのが、もっとも可能性が高い。
少なくとも幽霊の存在を信じるよりはましである、そう思った僕はメッセージの送り主を彼女の近親者と仮定し、返信した。
メッセージを打ち込む。
『君は誰? そのスマホは葉月のものだろう?』
『今はまだ名前は言えないけど、この携帯は北原葉月のものだよ』
『君は葉月の家族?』
『まあ、そんな感じかな。幽霊になった北原葉月がかつての恋人にメッセージを送っている、と解釈したほうがロマンチックでわたしは好きなんだけど』
やはりメッセージを送っているのは葉月ではないようだ。
安心すると同時にどこか残念に思ってしまったのは気のせいであろうか。
『……自分の正体も明かせない人物と会話をしたくないんだけど、ブロックしてもいい?』
『するしないはあなたの自由だけど、後悔すると思うよ』
『どうして?』
『わたしは北原葉月がどうして自殺したか、その理由を知っているから。あなたはその理由を探すためにわざわざ彼女のマンションの前にいるんでしょ?』
僕は思わず周辺を見回してしまうが、怪しげな影は確認できなかった。
『探しても無駄だよ。わたしはそこにいないから』
『じゃあ、君はどこにいる?』
『あなたとは違う世界』
『急に哲学的になった』
『事実を言っているだけなんだけどね。まあ、いいか。あのね、実はわたし、あなたとは違う【世界軸】の人間なの』
『違う世界軸?』
『あなたが過ごしている世界とは違う未来の世界の人間』
『僕をからかっているの?』
『まさか。からかったりしたらブロックされちゃうでしょ』
『するよ。現に今、操作をしようか迷っている』
『なら三十秒だけ待って、そして十秒空を見上げて』
空? なにを言っているのだろうか。無視しブロックする、という選択肢もあったけど、なぜだか彼女の指示に従ってしまった。
空を見上げる。
すでに日が落ちていた。
辺りは真っ暗かと思ったが、思いのほか明るくて驚く。もっとも、東京の夜はいつもこんな感じだが。
それにしても今日はいつもより明るいような気がする。満月だろうか。
月を探すが、そこに丸い衛星はなく、代わりにあったのは長細い一筋の光だった。
はて、あれはなんだろうか。
彗星ではない。彗星がこんなにも間近で見られるのならば、ニュースで騒ぎになっている。世紀の天体ショーが始まる、とワイドショーなどで取り上げられているはずだ。
僕はあまりニュースは見ないが、ニュースサイトはチェックしている。そんな記事は読んだ記憶がない。
そう思っていると、僕のスマホが震える。
『今、あなたが見たのは八〇年代に打ち上げられたロシアの秘密衛星。各国、存在は知っているけど、ニュースなどにはなっていないよ。それが機器の故障で大気圏を落下してきたのだけど、明日、それが大ニュースになるから』
『大ニュース?』
『うん、進入角度なんかの問題で、四五キロのステンレスが燃え尽きずにアメリカに落下しちゃうの。ロシアの衛星がアメリカに落ちちゃうんだよ? 上を下への大混乱になるよ』
『もしかして戦争が始まるとか』
『さて、それはどうだか教えられないけど、ひとつだけいえることがあります』
それはなんでしょう? と尋ねてくる彼女。
僕が返答を迷っていると、彼女はメッセージを送ってくる。
『正解はこれであなたはわたしをブロックできなくなった。少なくとも明日の朝のニュースを見るまではね。ちなみにわたしのお勧めは4ch。アナウンサーの人が男前だから』
彼女はメッセージでおどけると、そのまま会話の休止を宣言する。
違う世界軸に住んでいるらしいが、昼と夜は同期しているらしい。
つまりもうお風呂に入って寝る準備をするのだそうだ。
時計を見ればまだ八時であるが、謎の人物は規則正しい生活をしているようだ。
見習いたいわけではないが、葉月の家の前でたたずんでいても仕方ない。
ここは高級住宅地。関係者以外が長居をすれば職務質問されるだろう。
そのとき、違う世界軸の女の子とメッセージのやり取りをしていました、と答えれば僕は一晩、警察の厄介になるはずだ。
それだけは避けたかった。
なので僕は姉と一緒に借りている東京のアパートへ帰ることにした。