19
翌朝。目覚めると隣に美しい人がいる。
それ以上の喜びが他にあるだろうか。
僕たちはまどろむようにベッドで過ごしている。
そのように時間を浪費していると、講義の時間が迫っていることに気がつく。
「今日一日、サボったっていいじゃない」
とは葉月の提案であるが、その提案は魅力的すぎた。
彼女と一日中、部屋に籠もり、一緒にいられるのならば、単位のひとつやふたつくらい落としてもなんの問題もなかった。
ただ、午後にはバイトがある。講義はサボってもバイトにはでないといけなかったし、先ほど確認したら、この世界軸での僕は単位がギリギリのようだ。
葉月も。
きっとふたりでサボりまくっているのだろう。
それはよくないことである。
留年したら婚期が遅れる、そんな言葉で彼女を説得すると、そのまま着替え、大学に行こうとしたが、それはできなかった。
どちらかが変心したわけではない。
とんでもない情報を耳にしてしまったのだ。
なにげなくテレビを付けたのは僕だった。
朝の情報番組をBGM代わりにしようとしたのだ。しかし、用意に思いのほか手間取り、ニュースを聞くこともできなかった。
代わりにニュースを聞いたのは葉月だった。
そのニュースを聞いた彼女は、
「ま、まさか、そんなことありえない」
と持っていたコーヒーカップを床に落とした。
幸いと中身はほぼ飲み尽くしていたし、厚めのカップだったので割れることはなかったが、それでも異常な事態が発生していることは容易に想像できた。
先ほどまであれほど上機嫌だった葉月の表情は曇っているを通り越し、蒼白だった。
身体も生まれたての子鹿のように震えていた。
なにごとが起こったのだろう。彼女に尋ねることもできたが、それよりもニュースを聞いたほうが早そうだった。
リモコンで音量を上げると、そのまま彼女の横に立ち、ニュースを聞く。
アナウンサーの第一声は「北原栞」と聞こえた。
最初、北原栞がなにかしらのスキャンダルに巻き込まれたのかと思ったが違うようだ。
アナウンサーは悲痛な表情をしている。
ならばなにかしらの事故だろうか。僕はアナウンサーの次の言葉を待ったが、その言葉を聞いた瞬間、表情を凍らせる。
「女優、北原栞さんの娘、北原葉月さんが、昨夜、自称元俳優の男に刺され、死亡した模様――」
その言葉を聞いたとき、僕の目の前は真っ暗になったが、手を伸ばせば届く距離に葉月はいた。
ならば彼女はなにものだ? 僕が見ている幻想なのか?
思わず手を伸ばし、彼女に触れるが、彼女は形を成していた。
震える身体を抱き寄せると、彼女は言った。
「――君のお姉さんが死んじゃった。私のせいで」
「なにを言ってるんだ? 死んだのはニュースで君だって。きっと誤報かなにかで」
彼女は僕の言葉を遮るように言う。
「昨日。私、あのレストランで財布を置き忘れてしまったの。君のお姉さんに買ってもらったお揃いの財布。たぶん、お姉さんはそれを間違えて自分の鞄に入れて、そこに身分証が入っていたから」
僕の脳裏に彼女の財布が映る。
姉に買ってもらったとはしゃいでいた財布。
可愛らしいピンク色の長財布。――たしかに姉も同じ財布を持っていた。
「それじゃあ、死んだのは僕の姉さんなのか? ……まさか。信じられない」
彼女はおそるおそるテレビを指さす。視線はテレビに向けられないほど沈痛だった。
アナウンサーはこんなことを言っていた。
「――犯人は女優北原栞の元交際相手のストーカーです。関係者によりますと、北原栞は男に付きまとわれており、男から逃れるため、海外に移住したという話もあります」
犯人はストーカー? しかし、男は姉のストーカーではなく、葉月の母親のストーカーではないのか。
なぜ、姉が、そう思っていると、葉月は言う。
「たぶんだけど、ストーカーは私を刺そうとしたんだと思う。ママには近づけないから、私を捕まえて人質にするとか、そんなことを考えていたんだと思う」
そこで自分を尾行していたのだけど、私とお姉さんを見間違えたのか、あるいは誰が誰だか分からないくらい頭がおかしくなっていたのか、と彼女は推察する。
その推理を補強するようにアナウンサーは続ける。
「男は俺は北原栞の夫だ、と供述しており、尿からは薬物反応も見られるとのこと――」
「…………」
なるほど、そういうことか。
これが運命の神が用意した結末なのだろうか。
ならば運命の神というやつの耳は尖っていて、口は耳まで裂け、牙のようなものもあるのだろう。
運命の神と悪魔の差異を明確に区別できる人間はこの世界にいない。
少なくとも僕はできなかった。
姉が死んだことは悲しかった。たったひとりの姉弟。幼きころから仲も良く、面倒も見てもらった。
そんな姉が無慈悲に、残酷に殺された。
それも誰かの身代わりに。
僕はその身代わりとなって助かった人物を許すことができるだろうか?
答えはイエスだった。
姉の死に対する悲しみ、衝撃はいまだに薄れないが、それよりも気になるのは姉の死の責任を一身に感じている最愛の女性だった。
彼女はこのまま消え去ってしまいそうなほど肩を小さくしていた。
僕はその肩を抱きしめる。
君は悪くない。君のせいじゃない、と言い続ける。
それでも止めどなく流れ続ける彼女の涙。
僕の力ではそれを止めることはできない。
僕はなんて無力で無意味な存在なのだろう。
愛する女性をひとり、幸せにすることもできない。
仮に今後、僕の全人生を費やし、彼女の心を癒やそうとしても彼女は幸せになることはないだろう。
彼女は誰かの不幸の上に築かれた幸せになんの魅力も興味も感じない。そんな女性だった。
あるいはもしかしたら、彼女はこのまま命を絶ってしまうかもしれない。
その可能性は高いだろう。
僕はまた、この世界軸でも彼女の死を目にするのだろうか。
彼女の死を見送るのだろうか。
それはあまりにも残酷で切ない。
ならばいっそ、死んだほうがましだ。
そう思った僕は彼女を抱きしめ、こう言った。
「……僕は今から過去に戻る」
なにを言っているの? 涙に濡れる彼女はそんな表情で僕を見た。
「理解してもらおうとも、信用してもらおうとも思わない。ただ、僕は君を救いたい。姉を助けたい。だから死ぬんだ」
僕は今からまた、タイムスリップをするつもりだった。
また死を選び、過去に飛ぶつもりだった。
彼女にはそれを話す必要はなかったが、それでも知ってもらいたかった。
僕が彼女を死ぬほど好きなことを。
彼女の周りにいるすべての人間に幸せになってもらいたいことを。
皆で笑いながら人生を過ごしたいことを。
僕は彼女の顎に手を添えると、そのまま口づけをし、スマホだけを持って家を出た。
彼女は僕に付いてこようとするが、僕はそれを制する。
「ついてきちゃだめだ!」
びくり、と身体を振るわせて止まる葉月。
彼女に大声を上げるなど、人生で初めてだったが、願わくは今後、未来永劫このようなことがないように願った。
僕は断腸の思いで彼女をひとりにすると、そのまま近所にあるマンションに向かった。
そこは古いマンションでセキュリティが甘かった。
姉はそこに入居しようとしたことがあるが、セキュリティがないので諦めたのだ。
そのときは女性らしいというか心配のし過ぎと思ったが、今の僕にしてみれば好都合だった。
誰でもマンションに入れるということは、誰でもマンションの七階の階段から身を投げ出せるということだった。
僕が七階に着くと、スマートフォンのメッセージが着信する。
未来からのメッセージがきた。
「……今回もハッピーエンドにたどり着けなかったね」
「ああ、残念だよ」
「また死ぬの?」
「過去に戻る」
「……もしも、過去に戻るのに回数制限があると言ったらどうする?」
「あと何回あるの?」
この期に及んで無駄な会話は不要だと思った僕は単刀直入に話した。
「たぶん、あと一回」
「どういう理屈でタイムスリップができなくなるの?」
「あのね、タイムスリップをすると、過去のいろんな情報が頭に混在するでしょう」
「そうだね、最初は混乱するけど、徐々にその世界軸の記憶が流入してくる」
「それと同時に過去の世界軸の情報も残っている」
「うん、そうだね」
「つまり、あなたの脳には膨大な情報が蓄積されているということ。でも、人間の脳の容量には限界がある」
「つまり、このまま過去に戻り続ければ、限界を超える」
「たぶん」
「限界を超えるとどうなるの?」
「すべてを忘れる。大切なことから順に」
真っ先に葉月の顔が浮かんだ。彼女のことを忘れてしまうのはなによりも辛い。
僕は彼女を救うためにタイムスリップしているというのに。
「だからタイムスリップを万能だと思わないで。たぶん、あなたは次に小学生時代にタイムスリップしようとしているんでしょ?」
「その通り」
「ならばあなたの脳にはもっと負荷が掛かる。小学校時代からの記憶がもうひとつ出来上がるのだから」
「論理的だ」
他人事のように言う。
どちらにしろ、過去に戻るしか選択肢はない。
今度は小学校時代に戻り、彼女が虐待されない方法を考えるつもりだった。
葉月の父母に円満な家庭を維持してもらえば、父親に虐待されないだろうし、それに母親もいかれた麻薬中毒者と付き合わなくて済む。
それはそのまま葉月の幸せと姉の生存に繋がるはずであった。
そう思った僕は再び死のうとするが、未来は引き留める。まだ用があるようだ。
「待ってよ。もしかしたらもう私のことを忘れ去られてしまうかもしれないから、最後にもう少しだけお話ししよう」
それは今しなければならないことなのか。そう返信しようとしたが、止めた。彼女は僕に過去に戻る能力があることを教えてくれた恩人。
おろそかにできない。それに僕自身、彼女に興味がないと言えば嘘になる。
一度、話したいと持っていた。
「でも、メッセージはまどろっこしい。僕は女子高生みたいに早く打てない」
事実、葉月と家族くらいしかメッセージを送らない僕の指裁きはたどたどしかった。
「ならば電話しましょうか?」
と不意打ちのように提案してくる未来。
僕は驚く。
しばらく驚いていると、「女の子と電話には不慣れ?」と茶化すメッセージがくる。
「……不慣れだよ。でも、それよりも驚いているのは違う世界軸の女の子と電話できるってこと」
「こうして電波が繋がっているんだから、電話もできるでしょう」
道理であるが、電話ができるのならばどうして最初から声を聞かせてくれなかったのだろうか。
なにか意味があるのだろうか。考えていると電話を鳴らしてくる。
考える余地を与えてくれない。僕は電話に出る。
「こんにちは」
いつもメッセージではテンションの高い女の子であったが、意外にも電話では落ち着いた声の女の子だった。
文字と会話ではキャラが違ってみえる。
僕も「こんにちは」と返すが、彼女の第一声を考察していた。
いや、正確にはその声に奇妙な感覚を覚えた。
どこかで聞いたことがあるような。聞いていると落ち着くような。奇妙な既視感と安心感を覚えるのだ。
そのことを彼女に話すと、「あなたは未来の少女をナンパするんだ。アインシュタインも、アイザック・アシモフもびっくりだね」と笑った。
その笑い声もどこかできいたようなことがある。
とても身近な人の声、いつも聞いている人の声。それが葉月の声に似ていることに気がついたのは、彼女が三言目の言葉を発したときだった。
「不思議な感覚……。あなたと会話する日がくるなんて」
情感豊かに言葉を発する未来。僕はその声が葉月のものではないかと疑い始めた。
ならば葉月が今、電話をしているのだろうか?
僕が会話しているのは違う世界軸の少女ではなく、同じ世界に住んでいる葉月なのだろうか。
そんな疑惑が湧いてしまうが、それは否定される。
「今、わたしのことを北原葉月だと思ったでしょう」
正直に話す。
「思った」
「あなたにしてはいい線を付いているけど、そんな落ちじゃないよ。わたしはわたし。なにものでもないけど、北原葉月ではない。絶対に」
違う世界軸の少女が毎回、僕にアドバイスするメッセージする確率と、毎回、葉月が別の携帯を用意して僕にメッセージを送ってくる確率、天秤に掛けたが、どちらも荒唐無稽なのは一緒だった。
なので僕は彼女の言うことを素直に信じることにした。
彼女が誰であろうとも良かった。僕の味方であり、アドバイスをしてくれる限り、僕にとって未来は未来であった。
だからこのように返答する。
「君が誰でもいいよ。僕にとって未来は未来だ。さて、なにを話そうか」
と続ける。
その台詞を発すると受話器越しの彼女の心が弾んだような気がした。
声のテンションが上がる。
「こんなときにありがとう。後悔はさせない、とは言わないけど、何分か付き合って。そうしてくれたらどこかの世界軸の少女が救われるから」
「それは責任重大だ」
戯けながら返すと、僕は未来と話をした。
彼女との会話はごくごく有り触れたものだった。
彼女の家族の話題だ。
彼女の年齢は一五歳、高校一年生。
母親とふたり暮らしをしているらしい。
現在、とても幸せであるというが、父親との思い出が薄く、それが悩みなのだという。
「母子家庭なのか……」
言葉が止まってしまったのは、葉月と同じだったからだ。
ただ、詳しく聞くと彼女の場合は離婚ではなく、死別らしい。父親は脳腫瘍になって死んでしまったのだそうだ。
彼女が子供のころに。
以来、母親とふたりで暮らしていると聞く。
なんでも母親は今でも父親を愛しており、再婚などは絶対にあり得ないそうだ。
「つまり、新しいお父さんができるとか、そういうのはないのか」
「そうだね」
「父親が欲しいの?」
「まさか。そこまで子供じゃない。でも、父親と一回話してみたかった」
「そのスマホでは話せないの?」
「もしも話せたらこんな相談すると思う」
「たしかに」
「なぜだか知らないけど、神様はわたしが別の世界軸と話せるという能力をくださったけど、過去に戻れるという能力はくださらなかった。もしも、わたしにも過去に戻れる能力があったら、過去に戻ってお父さんを救っている」
「お父さんは脳腫瘍だって聞いたけど」
「脳腫瘍にならないようにする」
「例えばお酒を止めるように説得したり、働きづめにならないように言ったりするの?」
「そんな感じ。わたしも実は未来を変えたい。でも、できないからあがいてるの」
「僕と一緒だ」
「一緒にしないでくれる? あなたは過去に戻れる能力を持ってるでしょ」
「そうだね。でも、僕は無能だ。こんな神様みたいな能力を持っていてもそれを活かせない」
「そんなことないよ。未来は着実に変わっている」
「悪い方向にも」
「それは運が悪かっただけ。一回目のタイムスリップでは北原葉月の自殺を先延ばしにした。二回目では自殺を未然に防いだ上に婚約まですることに成功した」
「代わりに姉が死んでしまったけど」
「三回目はきっとみんな幸せになるよ。もしかしたら次は結婚しているかも」
「次、目覚めるときも大学生だからそれはないと思う」
「学生結婚って言葉知ってる?」
「知ってるけど、僕には無縁かと思ってた」
「わたしのお父さんとお母さんはしていたよ。だからお母さんは若いの」
「なるほど」
「美人だよ」
という聞いてない情報もくれる。
ならば僕も次は学生結婚できるようにがんばる、と生返事をすると彼女はくすくすと笑った。
笑い声も葉月に似ていた。
葉月と話しているような気持ちがし、不思議と気分が落ち着く。
つい先ほどまでは死ぬ気でいた。
このマンションから飛び降りる気持ちでいたが、当然、恐怖を持っていた。
死ぬ恐怖。二度とよみがえられないかもしれない恐怖。葉月を救えない恐怖。
それらと戦っていたが、それら恐怖は薄れていた。
そのことを話すと彼女は自慢げに言う。
「わたしのヒーリング効果だね。美人は一緒にいるだけで癒やされる」
「…………」
他意はなく沈黙していると、彼女は頬を膨らませる。
「今、電話越しならばいくらでも誤魔化せると思ったでしょ。こうみえてもわたしは美人なんだよ。お母さんの娘だからね」
「もちろん、美人だと思っているよ」
「なんか心がこもっていない」
「そんなこと言われても困る」
「ならばお詫びとして、名前を考えて」
「名前?」
「うん、わたしが将来、産む予定の子供の名前」
「君は妊娠しているの?」
「まさか。わたしは一五だよ。まあ、一五で親になる子もいるけど」
「ならどうして」
「なんとなく、かな。あなたにどんなネーミングセンスがあるか知っておきたい」
急にそんなことを言われても困るが、彼女の頼みを断るのも気が引けた。
それに名前を付けるくらい一瞬で済む。
彼女のお陰でマンションから飛び降りる決意がさらに固まったし、その返礼をしても罰は当たらないだろう。
そう思った僕は、名前を口にする。
「センスがあるかどうかは分からないけど、希美がいいと思う」
「希美?」
「ダサいかな?」
「ダサいダサくない以前になんで女の子なの?」
「ああ、そういえばどうしてか女の子にしてしまった。なぜだか女の子だと思い込んでいた」
「もしも男の子が生まれたら希美だとかわいそう」
「そうだね。今から男の子でも女の子でも使える名前を考える」
僕がそう言うと、彼女はいい、と言う。
理由を尋ねると、きっとそれが運命だから、と彼女は言い切った。
そう言われてしまったら、今さら変えることはできない。僕としては彼女が女の子を産むことを願うだけだった。
このように未来との初めての会話を終える。
僕はタイムスリップする旨をはっきりと彼女に伝える。
彼女は名残惜しそうに、「そう……」というとこう続けた。
「頑張ってね……というのも変だけど、応援している。痛い思いも苦しい思いもこれで最後。そんな気持ちでいて」
「分かった」
と了承すると、僕はそのままマンションの階段から飛び降りた。
落下防止用の柵を乗り越えそのまま地上にダイブした。
この高さならば確実に死ねるだろう。
そして僕のこの意思は、確実に過去に導いてくれるはず。
そう信じていた。
実際、数十メートル下のコンクリートに叩き付けられた僕は、次の瞬間、過去へと向かっていた。
葉月と初めて会った小学生時代へと戻っていた。