18
飾り気のないワンピースに着替えると、彼女は僕になにか言うことはないの? と尋ねてきた。
それが褒めろという意味だと理解するのに三〇秒ほど掛かってしまった。
ただ、三〇秒掛かったとはいえ、その答えに行き着いたのは女の姉弟がいるからだろう。
姉も一緒に暮らしていたころは、服の感想などを求めてきた。
そのときに学んだのは、女性は細かな指摘を求めているのではなく、賛辞を求めているということだった。
「似合っているね、素敵だね、可愛いよ」
その三パターンをローテーションしていれば彼女たちは満足する。
この世界軸では前回、どの言葉を使ったかは知らないので、無難に全部のパターンを一回で使い切ると、彼女は満足したようだ。
上機嫌で家を出た。
僕たちはそのまま駅に行く。
JRで二駅ほど離れた場所に姉の新居はあった。
駅に着くと、改札の前で姉が手を振っている。
事前に葉月が到着時間を知らせていたようだ。乗り換えアプリで調べたのだろう。便利な時代だった。
僕たちが入ったのはイタリアン・レストランだった。
他の世界軸でもよく姉が連れて行ってくれたレストランだ。
夫婦ふたりで経営する小さなレストランで、席の数も一〇ほどとこじんまりしていた。
その代わり味は高級店にも引けを取らない、と姉は給料日になるとよく連れてきてくれた。
僕はよくワタリガニのクリームパスタを頼んでいたので、それを頼む。
姉はボロネーゼ、葉月はラザニア。それとみんなでつまめるように海老のオリーブ揚げと、副菜になるようなものを頼んだ。
ワインも一本注文する。
ここにいるのは全員、成年、お酒があっても不思議ではない。
姉はもともとかなり飲むほうであったが、葉月はどうであろうか。
気になって横目で見てしまうが、彼女はグラスに半分注がれた赤ワインと水を交互に飲んでいた。
彼女はあまりお酒が強くないようだ。
ほっとする。姉のように酔っ払って絡んでくるような女性になったらどうしようと思っていたのだ。
姉は酒が入ると多弁になり、延々としゃべるので厄介なのだ。
そんなことを思っていると、案の定、姉は質問攻めをしてくる。
「取りあえず婚約おめでとう」
姉がグラスを掲げたので、ふたりはそれに応じる。
「まさかあの奥手の弟がこんな美人と婚約するなんてね。奇跡ってのはあるものね」
「弟さんは私の前では情熱的ですよ」
「へえ、例えば?」
「中学生時代、私を取り合って身長一八〇センチのバスケ部のキャプテンと決闘をしてくれました」
「すごいね。弟が喧嘩をしたなんて聞いたことがない」
「あとは毎年誕生日になると花を贈ってくれます」
「意外だ。普段は花なんて食べられないとか言ってる癖に」
「まあ、他にも色々ありますが。基本ロマンチックで情熱的な男の子です」
目の前でそんなことを言われると気恥ずかしいが、下手に会話に入るとやぶ蛇なのでなにも言わない。
話題を転じさせるため、料理を褒める。
「ここのパスタは最高に美味しいね」
「そうですね。ワタリガニのパスタなら家でも作れそうだから練習しないと」
「へえ、葉月ちゃんって料理するんだ」
葉月は失礼ですね、と怒ったふりをすると、料理の天才であることを主張する。
僕は詳細を説明する。
「彼女は中学時代から料理を覚え始めて、高校のころには毎日、弁当を作ってきてくれたよ。同棲してからも毎日、美味しい料理を作ってくれる」
はず――と心の中で付け加える。今の僕はあらゆる世界軸の記憶が混濁していた。
「へえ、見習わないと。わたしは忙しくてあまり手料理を振る舞えない」
「葉月は少ない予算でも工夫して美味しいものを食べさせてくれるんだ。将来、きっといいお嫁さんになる」
その言葉を聞いた葉月は顔を赤らめる。
「……君が一生懸命にバイトしてくれているから、せめて私は家事を頑張ってるだけだよ」
と小さな声で言った。
その姿を初々しい可愛いと姉は表すと、わたしにも似たような時期はあった、と言った。
姉のそういう時期はあまり想像できなかったが、姉の次の言葉はなんとなく分かる。
僕はそれに備える。
「ところであんたたち、いつごろ結婚するの?」
「今すぐにでも、といいたいところだけど、大学を卒業してからかな。互いに就職して、ある程度経済基盤が整ってからにする」
「殊勝というか常識人だね。今すぐしてもいいのに」
「今、葉月の母親が日本にいないんだ。ロスで暮らしていて。仕事も忙しいらしいし、まず彼女の母親に挨拶しないと」
「へー、そうなんだ」
「………………」
その言葉を聞いた葉月はなにもない空の一点を見つめていた。
ぼうっとしている。
なにがあったのだろうか、と尋ねると、「このボロネーゼが旨かっただけ」と返した。
見れば姉と彼女は互いに自分たちの主食をシェアしていた。
なかなかに仲良しさんである。まるで実の姉妹のようだった。
「そうか、北原栞は今、ロスに住んでるんだね。さすが芸能人。豪勢だ」
「そんな優雅なものではないですよ」
と葉月は反論する。
「というと?」
姉は尋ねる。
「実は母親は最近、ストーカーに悩まされているのです」
「ストーカー?」
「はい。売れない俳優と付き合っていたのですが、彼が必要以上に熱を上げてしまって。仕事場に乱入してきたり、家の玄関を壊したりするものですから……」
「それから逃れるために海外、ってわけか。女優さんも大変だね」
「ちょうど、仕事の切れ目で、継続していたドラマもないですし、リフレッシュも兼ねて海外に引っ越したみたいです。娘も大学生になりましたし」
「ふーん、そうなんだ。でも、よくお母さんは同棲を許してくれたね」
「それなんですが、同棲の件は黙っています」
その言葉に僕たち姉弟は驚く、「え?」と同時に漏らす。
「ママは私が東京で一人暮らしをしていると思い込んでいるはずです。生活費もたくさん貰っていますが、それも将来のため、貯金しています」
「言わなくていいの?」
とは僕の言葉であるが、葉月は「いいの」と肯定する。
「たぶん、ママに話すと別れさせられてしまうから」
「たしかに僕たちはまだ学生で同棲はどうかと思うけど」
「そう言うレベルの話じゃないんだけどね。まいいいわ。この話はおしまい。もっと楽しい話をしましょう」
と彼女は強引に話題を転じさせる。
本日の食事会の主役にそう言い切られてしまえば、僕たちは話を戻すこともできず。話題を変えた。
話題は必然的に姉のものとなる。
僕たちはともかく、姉のほうはどうなっているんだ、という話になる。
姉とその恋人である佐川さんが同棲を始めて一年。僕たちとほぼ同じである。
佐川さんも姉も社会人だから、そろそろ結婚という話になってもおかしくなかった。
その辺を尋ねると、姉は珍しく顔を緩めた。
その第一反応でどれくらい上手くいっているか分かった。
以後、彼ののろけ話を延々と聞かされる。
いわく、わたしのことを宝物のように扱ってくれる。
いわく、お風呂掃除とゴミ出しは必ずやってくれる。
いわく、今度、婚約指輪を買ってくれる。
と、聞いていないようなのろけ話を延々としてくれた。
さすがに聞いているほうが苦痛だったので、話を転じさせようとしたが、葉月がそれを許さなかった。
というか対抗意識を湧かせたようで、僕のことを自慢し始める。
いわく、私のことをお姫様のように扱ってくれる。
いわく、トイレ掃除をしてくれる。
いわく、寝ている間に前にほしいと言った耳にイヤリングを付けてくれたことがある。
などということを暴露し始めた。
身内に聞かせるのは赤面ものであるので、僕はわざとらしくスマホを見ると、「明日もバイトがある」とこの場を納めることにした。
見ればテーブルの上の料理は綺麗に片づけられ、ワインボトルも空になっていた。
姉にも仕事はある。店を立つには十分な頃合いだった。
軽くヒートアップしているというか、この手の話になると女性は俄然、盛り上がるので、続きは個別メッセージで送る、と姉は言い切ると、会計をするために席を立った。
僕も半分だそうとするが、「学生が余計な心配しないの」と断られる。
その後、僕たちは姉を改札まで見送ると、深々と頭を下げる。美味しい料理と楽しい時間をもらった礼を述べる。
姉は「またね」と言うと、そのままホームに向かった。
僕たちもそのまま帰る。明日、バイトがあるのは事実だったし、講義もある。
彼女も講義はあるのでいつまでも夜更かしはできない。
帰りの電車の中、少しだけ酔った彼女は僕の肩に頭を預け尋ねてくる。
「今日は楽しかったね」
「うん」
「今日が楽しいと明日も楽しいよね、きっと」
「そうだね。明日はもっと楽しい」
「……お姉さん、婚約指輪を買ってもらったんだって」
「……葉月もほしい?」
「……いらない」
と言下に言い切るが、その態度、見え見えだった。
婚約指輪を欲しがらない女性などいない。
ましてや彼女のようにロマンチックな女の子がいらない、だなんて本心とは思えなかった。
がんばって買うよ。
そう告げると、彼女は言う。
「いらないよ。てゆうか、私は働きもしないで養ってもらってるのに、この上、婚約指輪まで買ってもらったら罰が当たる。そういうのは社会人になってからでいい」
なるほど、そういうことか。
たしかに僕たちは東京でアパートに住み、ふたり暮らしをしている。金銭的余裕はないはず。
コミュニケーション能力が乏しい彼女がバイトをするのも難しいであろう。
我が家の家計は火の車だと想像できる。
それでも男として指輪のひとつでも買ってあげたい、そう言うと彼女は指輪ならあるからもういいよ、と言った。
君に買ってもらった大切な指輪ならある、と彼女は言う。
ほう、と感心する。
この世界軸の僕は彼女に指輪をプレゼントしていたのか。
なかなかに気が回るというか、甲斐性があるではないか、そんな感想を漏らすがそれは誤解だったようだ。
彼女が言う指輪とは僕が想像したものとは違った。
ふたりの住むアパートに帰り、それを見せてもらう。
その指輪は確かに指輪なのだが、おもちゃの指輪だった。
縁日の夜店で売っているようなプラスチックの安物。
三〇〇円くらいで買えそうなものだった。
僕は思い出す。
それは僕たちがまだ小学生のときに買ったもの。
たしか彼女と遠出をし、その帰り道に買ったものだ。
あのとき、僕たちは望むような結果を得られず沈んでいた。特に葉月は顕著で、この世の終わりのような顔をしていた。
それを慰めるためではないが、僕はたまたま近くでやっていた夏祭りに彼女を誘い。そこで指輪を買ってあげたのだ。
彼女はそれを後生大事に持っていたのか。
そんな感想を漏らすと、彼女は頬を膨らませる。
「そんな指輪とは失礼な。これは婚約指輪なんだから」
「そうなの?」
「これをくれた男の子はこれを私にくれたとき、こう言ったの。泣かないで。この先、ずっと僕が君を守ってあげるから」
その言葉は今のところずっと果たされています、と彼女は上機嫌に指輪を指にはめようとするが、子供用のためか、サイズが合わない。
小指に無理矢理はめようとするが、抜けなくなって消防署に行くのも馬鹿らしい、僕は止める。
彼女は残念そうに指輪をジュエリーケースに戻すが、ハンカチでくるみ、宝物のように扱ってくれた。
彼女は目をつむりながら独白するように言う。
「私にはこれがあるから指輪なんていらないの。指輪よりも君のそばにいたい。君が指輪を買うためにバイトを増やして一緒にいられる機会が減ったら本末転倒でしょう」
たしかにその通りだった。そもそも彼女が物質的なものに固執しない性格であることを忘れていた。
彼女はそういった俗っぽいことに興味がないのだ。
僕は指輪のことを忘れると彼女を抱きしめた。
急に抱きしめられた彼女は驚くが、すぐに僕を受け入れてくれた。
そのまま彼女の唇に自分の唇を重ねると、彼女を押し倒した。
なにもいわずに受け入れてくれる葉月。
僕たちは互いの魂を求めるように愛し合った。