15
翌日、僕は学校に行こうかと思ったが、行けなかった。
朝、起きるとくらりと立ちくらみがしたのだ。
そのまま崩れ落ちると、嘔吐した。
母親は仕事に行ってしまったので、姉が甲斐甲斐しく看病してくれた。
嘔吐物も皮肉を言うことなく掃除してくれた。
姉は僕の額に手を当てると、「熱があるわね」と言った。
風邪かもしれない、という。
季節外れの風邪だから、医者に診てもらったほうがいいと勧める姉。
姉は自分と僕の学校に連絡を入れると、そのまま僕を医者に連れて行く。
近所の開業医に診てもらうと、やはり「風邪」という病名をもらった。
点滴され解熱剤をもらうと帰される。
風邪には違いないが、重症ではなく、家で寝ていれば治る程度らしい。
家に帰ると姉はそのまま高校に向かい、僕は大人しく自分の部屋で寝ていた。
まったく、付いていない。今日は意を決して葉月に父親のことを聞き出そうとしたのに、それができなくなった。
それに今日は修学旅行の説明会などがあるはず。
班決めも行われる予定だった。
今日、欠席したと言うことは適当な班に放り込まれ、葉月と一緒に行動できなくなるかもしれない。
それは過去を修正しにきた僕には痛恨の極みだった。
今から向かえば説明会には間に合うかな、と時計を見るが、足が思うように動かない。
それに先ほど飲んだ解熱剤のせいで眠気が最高潮に達していた。
このまま睡魔に打ち勝ち、登校するのは難しそうだった。
僕は睡魔に負けると、付けっぱなしのテレビをBGM代わりに眠りに落ちた。
何分ほど眠っていただろうか。
テレビを見て判断しようと思ったが、テレビは消えていた。
僕の部屋のテレビには自動消灯機能などなかったはずだけど。
寝返りでリモコンを押してしまったのかな、と上半身を起き上がらせると、涼やかな声を聞いた。
「電気代がもったいないから消しておいたよ」
その声の主はすぐに分かったが、その声の主がどうしてここにいるのかは理解できなかった。
彼女は僕の家を知っているし、毎日、通りがかるが、僕の家に入ったことがない。
僕の家族と会うのが怖い、と中学時代は言っていた。彼女は人見知りなのだ。
そんな彼女がここにいるのは、ひどく場違いというか、浮いて見えた。
現実感をあまり感じない。
まだ夢を見ているのだろうか、それとも熱が冷めずに幻でも見ているのだろうか。
そう解釈していると彼女は正解から言う。
「ごめん、鍵が開いてたから勝手にはいってきちゃった」
なるほど、どうやら彼女は勇気を振り絞ってくれたようだ。
「だって君が学校を休むなんて珍しいから。心配しちゃったの」
「心配を掛けてごめん。でもただの風邪だから。それに大分良くなった」
「それは良かった。来週の修学旅行は一緒に行けるね」
「そうだね。同じ班で行動できるかは分からないけど」
「できるよ」
「ほんと?」
「うん、班決めになったとき、仲の良い子同士でくっつくでしょ。そうなると必然的に最後にボッチが集まるの。私と君はボッチ」
「なるほど、道理だ」
「嘘だけどね」
「嘘なの?」
「なんか、最近はそういうのをしないでくじ引きで決めるみたい。いじめに繋がらないようにって」
「なるほど」
くじ引きになればいじめがなくなるかは分からないが、少なくとも僕たちのような孤独な人種には有り難い。
仲の良い人物を葉月以外に四人も集めるなんて不可能だ。
「それじゃあ、僕たちは運良く一緒の班になれたんだ」
「まさか、そんな都合良くいかないよ」
「どういう意味?」
「ちょっとずるをした」
「ずる?」
うん、と、うなずく彼女。
「くじ引きをするとき、先生がノートの切れ端に番号を書いていたのだけど、C班の番号をふたつ偽装しちゃった」
「そんなことしたの?」
「最後にくじ引きの箱の中に二個あまりが出たけど、先生のミスってことで丸く収めさせた」
「悪党だ」
「策士と呼んで」
それくらい君と京都を巡りたかったの、と彼女は続ける。
「まあ、しでかしてしまったことはしょうがないけど、そういうのは今後なしね」
「どうして?」
「ばれたら怒られる。それに冷やかされる」
「怒られるのと冷やかされるのどっちが厭?」
彼女は興味深げに尋ねてくる。
中学生のときの僕ならば後者、もしくは両方と答えるだろうけど、今の僕は沈黙という便利な意思表示を知っていた。
「…………」
しばし沈黙し、間を置くと彼女に言った。
「――君と一緒の班になれて嬉しいよ」
彼女は気恥ずかしげに微笑んでいた。
その後、彼女がもらってきたふたり分のしおりを一緒に見ると、自由行動の時間、一緒に回ろうと約束した。
東大寺で自由時間があるから、鹿を一緒に撫でよう、という話になった。
子供っぽいが、僕たちはまだ子供なので当たり前と言えば当たり前かもしれない。
ただ、僕は彼女が言った台詞を見逃さなかった。
「昔、鹿を撫でたことがあるの。まだパパとママが離婚してなかったころ」
彼女が昔話をするのは希だ、このときを見逃せば、しばらく次のチャンスは訪れないかもしれない。
そう思った僕は彼女に尋ねる。
「――そのときは楽しかった?」
「まあまあ。鹿は鹿せんべいが好きなんだよ。なくなるとすぐ他の人のところに行っちゃうの。現金だよね」
「お父さんはよくしてくれた?」
「……どういう意味?」
「そのままの意味」
「そのころのパパはまだママと仲が良かったから」
彼女は間接的にそう言うだけだった。
「君はお父さんにぶたれたことはある?」
「なんか急に話の路線が変わった」
「……ごめん、でも重要なことなんだ。答えて」
「ないよ」
「本当?」
「本当。パパはいくじなしだから、娘を殴るようなことはしない」
「そうか、それは良かった」
「よくないよ」
葉月は珍しく声を荒げる。
「パパはへたれだからママに愛想を尽かされたの。ママは才能の塊なのに、いい仕事は取ってこれないし、女優は神経を使うのに、家に帰ったら小言を言うし」
「だから離婚したの?」
「そうだよ。パパは甲斐性なしのろくでなしってママが言ってた」
「自分の父親をそんなふうに言うもんじゃないよ」
「でも、私とママを捨てて、若い女と再婚したんだよ? 万死に値すると思う」
「そうか。他で家庭を作っているのか」
それは辛いね、という言葉を飲み込む。
健全な家庭で育った僕が言えば嫌みにしか聞こえないと思ったのだ。
これ以上、なにも余計なことは言わないほうがいいと思った。
今日は彼女と父親の間に確執があることが分かっただけで十分だった。
僕は話を明るい方向に戻すため、話題を変える。
「そういえば葉月。君は最近、家事を覚えようとしていると言ってたけど、あれは本当?」
「君は私の言葉を疑うの?」
「まさか。でも、覚えようとするのと、身につけるのは別問題だから」
「君は私がお米を洗剤で洗うと思っているでしょう」
「思っている」
「不本意」
「それじゃあ、証拠を見せて」
「どういう意味?」
「実は熱が下がったら、お腹が減ってきたんだ。おかゆが食べたい」
「おかゆね。それを作れば一人前と認めてくれる?」
「結構難しいよ」
「おかゆなんてお米を煮ればいいだけじゃない」
「それだけじゃね。美味しいおかゆを作るには白米の状態から煮たほうがいい」
「堅い状態から煮るの?」
「そう。お米一合に対して五倍の水だと五倍がゆ、一〇倍だと十倍がゆになる」
「どっちが食べたいの?」
「五倍でいいけど、今から煮ると時間が掛かるから、雑炊でいいよ」
「雑炊ってなに?」
「おかゆの親戚かな」
「それも白米から煮るの?」
「いや、炊いたご飯を鍋に入れるだけでいい」
「それなら楽勝」
「ちなみに雑炊は炊いたお米を水で洗うんだ」
そのアドバイスを聞いた彼女はじと目で僕を見る。
「私を騙そうとしてる。私はそこまで常識知らずじゃない」
「もちろん、洗剤は使わないよ。ただ、水で洗ってぬめりを取るだけ。嘘だと思うならスマホでぐぐって」
彼女は言われた通りにするが、すぐに目を見開く。
「ほんとだ……」
と声を失っていた。
「雑炊は味をアレンジできるから、葉月の料理スキルを見られる」
楽しみにしているよ、というと、彼女は「見ていなさい」とそのまま一階にあるキッチンへ向かった。
その後、三〇分ほどすると雑炊が出来上がるが、彼女が作ってくれたのは中華雑炊だった。
中華の元をベースに味付けしたスープで雑炊を作り、そこにネギと三ツ葉を散らし、溶き卵を入れる。
見た目もなかなかよくボリュームもあり、美味しそうだった。
今朝から何も食べていない僕にはご馳走に見える。
彼女が召し上がれというと、僕はレンゲですくい、口に運ぶ。
それを彼女は観察しているが、「ふーふーしてあげようか?」と、からかってこないところを見ると、気が気でないようだ。
味の評価が気になると見える。
ならばお世辞でも旨いと褒めるべきだが、お世辞は使わなかった。
お世辞など使わなくても葉月の作った中華雑炊は美味しかったからである。
それを伝えると彼女は花が咲き誇ったかのような笑顔を浮かべた。
「ありがとう! 嬉しい。うんとね、隠し味にごま油を数滴垂らすのがこつなの」
と彼女はレシピの詳細を教えてくれた。
そんな複雑なレシピをその場で再現できるなんて、料理が得意なんだね、というと彼女は当然でしょう、と胸を張った。
その後、彼女が最近、どれだけ料理にはまっているか、得々と教えてもらったが、日が落ち始めると彼女は帰った。
まだ僕の家族と会う勇気はないらしい。
僕は彼女を見送ろうと玄関まで行こうとしたが、それは止められると、最後に彼女にこう言われた。
「ネットで中華雑炊って検索しないでね」
なんのことだろうか。その場では生返事をして矛を収めたが、彼女が帰ると僕はいいつけをやぶる。
中華雑炊と検索すると、有名なレシピサイト一覧が表示される。
その一番上のものは先ほど葉月が作ったものと瓜二つだった。
どうやらこれを見ながら雑炊を作ったらしい。
まだ脳内のレシピと経験だけで料理は作れないようだ。それを恥じているようだが、そんなことは当たり前で、料理など何年も掛けて習得していくものだろうに。
そう諭したかったが、そのことを伝えるとむくれそうなので、代わりに、
「さっき隠れて写真を撮ったのだけど、SNSにアップロードしていい?」
というメッセージを送った。
彼女は即座に、
「だめ」
という返信をくれた。
まだ不格好で恥ずかしいらしい。彼女の性格だとたとえ十年修行をしても許してくれなそうであったが、願わくは十年後も彼女の作った料理を食べたいものである。
僕はそのための努力を惜しむつもりはなかった。