12
僕たちは中華料理屋へ行く。
ただの中華料理屋ではなく、ショッピングセンター内にあるものだ。
パンダのマークの世界的なチェーン店。
中国人が個人で経営している店よりは美味しくないけど、僕たちは映画マニア。
ハリウッド映画によく出てくる紙の器に入った中華料理は憧れのひとつだった。
それを提供してくれるこのお店は、ふたりの密かな行きつけだった。
僕は早足で彼女の手を引くが、彼女が遅れていることに気がつく。
右足を引きずっていることに気がつく。
僕はまたしても後悔した。
彼女は右足が不自由だったのだ。
それを忘れていた。
二年間の空白がそういった大切なことを忘却してしまった、と言い訳することはできない。
僕は自分の思いやりのなさをなじった。
ごめん、と彼女に謝ると、歩調を緩めた。
「ごめんね、足が遅くて」
彼女のほうが申し訳なさそうに謝ってくるのが逆に僕の心を揺さぶる。
「ごめん、久しぶりに会ったような気がするから、嬉しくて早歩きになってしまった」
「昨日、大学で会ったじゃない」
「そうだった」
「まあ、いいけど、さ、中華を食べましょう。紙の器に入ったフライド・ライスが食べたい」
「僕は酢豚と鶏肉のカシューナッツ炒め」
「いいね、ふたりでシェアしよう」
彼女は微笑むと、その通り、みっつ注文し、仲良くふたりで分け合った。
僕は美味しそうに中華料理を食べる彼女を見る。
彼女の家は裕福で、テーブルがくるくる回るような中華料理を食べ慣れているだろうに、彼女はチェーン店の中華を美味しい、美味しいと連呼してくれた。
君と食べると最高だね、と言ってくれた。
僕は彼女の見た目の美しさよりも、そういった細やかな気遣いができるところが好きであった。
きっといい奥さんになる。
それは彼女が高校時代から自分で公言していることであった。
僕は考えてしまう。
中学校から大学時代まで付き合っていたのだ。
もしもこのまま時が過ぎれば彼女は僕のお嫁さんになってくれるのではないか。
そんな淡い期待が胸中に湧く。
昔の僕ならば思うだけで、決して口にすることはなかっただろうけど。
だが、今の僕はその言葉を平然と口にできた。
「……僕は葉月と結婚したい」
その言葉を聞いた彼女の手は止まる。
空中で止まったスプーンをおもむろにトレーに置くと、彼女は言った。
「そういった大切な告白はこういったところでするもの?」
「どこでならOKしてくれる?」
「そうね。海が見えるレストランとか、夜景の綺麗なホテル」
「今から一緒に付いてきてくれる」
「いや」
「……だよね」
「勘違いしないで。厭なのは今からそこに行くこと。今から行ったら明日の講義に出席できないでしょ。それに私たちは大学生だし」
「だよね。でも、僕は君とずっと一緒にいたい」
「それって告白?」
「たぶん」
僕が肯定すると、彼女はそうかあ、と嬉しそうに背伸びをした。
「どうしていきなり求婚する気になったの?」
「君がいない世界を想像してしまったから」
「なにそれ、哲学的だね」
彼女は笑う。
「荒唐無稽に聞こえるかもしれないけど、僕は君がいない世界を体験したことがあるんだ。そこは暗くて冷たい。空虚な世界だった。もう、あそこには戻りたくない」
「まるで私が死んでしまったかのような世界だね」
「そう。そうだよ。その世界では葉月は死んでしまったんだ」
「へえ、私がね。どうして?」
「それは分からない。僕が聞きたい。どうして君は死んだの?」
「私は生きてるけど」
「だよね。ごめん、忘れて」
「なかなか忘れられない告白だからそれは無理。でも、なぜ、別の世界の私は死んだか、予測することはできる」
「予測?」
「うん、予測。その世界の私が私と同じ性格だったら、って前提だけど」
彼女はそこで一呼吸置くとこう言った。
「別の世界の私はきっと幸せだったから死んだんだと思う」
「幸せだから? 意味が分からない」
「幸せすぎると死んじゃう生き物なんだよ。私は」
彼女は断言する。
「だって今日が一番幸せだと、明日は二番目以下になっちゃうでしょ? 最高の幸せと比較すると」
「たしかにそうだけど」
「私は人生最高の日に死にたいの」
その言葉を聞いた僕は、彼女の手を掴む。
「ん? どうしたの? キスは歯を磨いてからって約束だけど」
僕は尋ねる。単刀直入に。
「……葉月は死なないよね? この世界の葉月はずっと僕と一緒にいてくれるよね?」
「ああ、そういうことね。心配になったのね。なら安心して。私はまだ最高に幸せじゃないから」
そうか、良かった、と胸をなで下ろす。
「でも、キスしたら最高に幸せになるかも」
「じゃあ、しないでおく」
「え? 君は恋人とキスしないの? 一生? それで結婚する気なの?」
「…………」
思わず沈黙してしまうが、彼女は僕の真面目な表情を見てくすくす笑う。
「君ってほんとからかい甲斐があるよね。私が自殺なんてするわけないでしょ。でも、君がキスしてくれないとしちゃうかもなー。傷つく」
そんなことを言われれば、彼女にキスせざるを得ない。
僕は口臭を消すため、レモン水を口に含む。彼女もそれを真似する。
「ふふん、こんな公衆の面前でするのは初めてだね。なんかお前は俺の女って感じがしていいね」
そういうものなのか。僕はただただ恥ずかしかったが、それでも彼女を失望させたくなかったので、彼女の顔に自分の顔を近づけた。
キスは目をつむってするものらしいが、僕は目を開け、彼女の唇に自分の唇を押し当てた。
映画俳優のようなロマンチックな接吻はできなかったが、彼女はそれでも事後、
「なかなか素敵だったよ」
と言ってくれた。
僕はそのあと、今日はずっと一緒にいたい、と彼女に伝えた。
そういうのが目的ではない。
ただ、今、彼女と別れると二度と再会できないような気がしてしまったのだ。
そのことを伝えると、彼女は大げさな、と笑った。
「私も一緒にいたいけど、今日はごめんなさい。ちょっと用事があるの」
彼女は僕を傷つけないようにそう言うと、自宅に帰る旨を伝えてきた。
東京にある母親のマンションに帰るらしい。
「今日はママが帰ってくるの。撮影から」
間接的に彼女は外泊できない理由を告げる。
僕は納得し、彼女を駅まで送ったが、別れ際に彼女はこんな質問をしてきた。
「ちなみに君のファーストキスはいつだった?」
彼女とキスをした記憶がない僕。だがこの世界ではしているらしいから、それに合わせる。
「葉月が最初」
「そうか、じゃあ、後夜祭の次の日だね」
彼女はにこにこと微笑み、あのときは互いに若かったねえ、と戯けた。
「そうだね。若かった」
「ちなみに私のファーストキスはいつだったか知ってる?」
「知らない」
「真面目に考えて」
少し怒り気味になる。
僕は真面目に考察した回答を口にする。
「僕?」
「おー、自信家だね。でも、半分正解、半分不正解かな」
「どういう意味?」
「うんとね、自主的にキスをしたのは君が最初で正解。でも、その前に葉月さんの唇は他の男子に奪われているのでした」
よよよ、と彼女は泣く真似をする。
どういうことだろう。
気になる上に胸がかきむしられる。
「あ、そんなに怒らないで。向こうも若気の至りだったんでしょ。中学三年のとき、バスケ部のキャプテンがクラスにいたの覚えている?」
「覚えている。あの背の大きい」
「背の小さいバスケ部のキャプテンっているのかな。まあ、探せばいるんでしょうけど」
彼女はそんな感想を漏らすと、続ける。
「あの子、どうやら私が好きだったみたい、二年のときに告白されたの。もちろん、断ったんだけど、そのとき強引にキスされた」
その言葉を聞いた僕は、顔も思い出せないようなバスケ部の男に嫉妬した。
今、目の前に現れれば、体格差も考慮せずに殴りかかる自信があった。
「おっと、でもなんとか回避したんだよ。私は拒否して相手の頬に平手打ちを食らわせた。でも、いきなりだったから、口元、唇の三分の一くらいはぶつかってしまったかも」
「だから半分正解ってことか」
「嫉妬した?」
「した」
と正直に答えると、彼女はそうかーと楽しそうに微笑んだ。
「君でも嫉妬するんだね。意外だ。まあ、今のは冗談だけど」
「冗談?」
「そう、冗談。バスケ部のキャプテンに唇を奪われそうになった、といったら君がどんな顔をするか興味があったの」
「どんな顔をしていた?」
「殺人未遂容疑者って感じ」
どうやら僕にも一丁前に嫉妬という感情はあるらしい。
「というわけで、冗談だから気にしないで」
彼女はそう締めくくると、僕の気をなだめるためだろうか、僕の懐に入り、再びキスをしてきた。
驚く僕。彼女にされるがままに唇を奪われる。
数秒ほど、駅の改札付近で不謹慎な行為にふけると、彼女はそれを止め、改札の中に入った。
僕はただ、彼女の後ろ姿を見つめる。
彼女がホームに降りるまでずっと彼女を見ていた。
朝、僕は目覚めると彼女が生きている世界軸にいた。
彼女とショッピングモールでデートをし、彼女にキスをし、キスをされた。
最後に焼き餅を焼かせようとしたり、幸せになると死んでしまう、などと僕を混乱させる発言をする彼女。
北原葉月という少女はどの世界軸でも僕を困惑させ、楽しむ癖を持っていた。
僕は彼女のそんな性格が好きであった。
どのようなときも僕を楽しませようと工夫し、驚かせようと画策する彼女が好きで溜まらなかった。
僕は彼女の悪戯をいつも受け入れ、愛おしいとさえ思っていたが、それは今日までであった。
彼女の悪戯ならばどのようなものでも受け入れられたが、ひとつだけ耐えられないことがあった。
それは彼女の命に関する悪戯だ。
翌日、彼女は自ら命を絶った。
風呂場で手首を切り、死んだのだ。
彼女は自分の命を悪戯に扱ったのだ。
まるで蝶々の羽根でも毟るかのように簡単に自分の手首を切り裂き、血液を流出させた。
彼女はこの世界軸でも死んだのだ。
「どうしてだ?」
思わずこの世界にいない彼女に尋ねてしまうが、僕は彼女の言葉を思い出す。
「幸せすぎると死んじゃう生き物なんだよ。私は」
僕の前ではいつも嘘ばかりついて戯ける彼女。
だが、その言葉だけは彼女の本音のような気がした。
彼女は幸せになると生きていけない儚い生き物のような気がした。