11
翌朝、目覚めると僕は東京のアパートにいた。
姉と二人暮らしをしている東京のアパート。
ただ、大学に通うために住んでいる場所。
僕はそこにある小さな個室で目覚めた。
なんの飾り気もない男子大学生の部屋。
安物のパイプベッドとパソコンデスクがあるだけだった。
起き上がると真っ先にスマホを起動させ、日付を確認する。
五月二〇日だった。
西暦も見る。二〇XX年だった。
僕が渋谷で爆発事故に巻き込まれた翌日だった。
つまり、僕は夢を見ていたのだろうか?
未来を名乗る違う世界軸の女の子にそそのかされ、渋谷で爆発事故に巻き込まれ、二年前に戻って彼女との別れを回避した。
彼女と実家で映画を見て、頬にキスをされて、学園祭の後夜祭で彼女を抱きしめた。
それらはすべて夢だったのだろうか?
それにしてはすべてにリアル感がありすぎたが。
渋谷の事故は文字通り死ぬほど痛かったし、彼女の唇の感触はなまめかしかった。
彼女を抱擁したときの感触は今も忘れることができない。
もしもあれが夢なのだとすれば、冷めないでほしかった。
永遠に眠り続ければずっと彼女と一緒にいられたのに。
夢の中ならば彼女は死ぬことがなかったのに。
徒労感に包まれた僕は二の腕を頭の上に乗せ、ベッドで横になる。
安物のベッドはきしみ声を上げたが、きしんでいるのは僕の心のほうかもしれない。
もはや溜め息さえでないほど僕の心は疲れ切っていた。
そんなふうにベッドで横になっていると、時計が夕方を指していることに気がつく。
どうやらいつの間にか眠ってしまったらしい。
大学の講義もサボってしまったようだ。
子供の頃から授業をサボるという概念のない僕は、多少心が痛んだが、それでも明日も授業をサボろうと思った。
それくらい気落ちしていたのだけど、それをとがめる人物がいた。
彼女は僕のスマートフォンにメッセージをよこす。
『今日、大学サボったでしょ? せっかく二コマも同じ講義だったのに』
気やすい文体。主語は省略されているが、それはメッセージアプリだから。
メッセージアプリは誰が誰に送ったか明白であり、普通、自分の名を名乗らない。
僕はその送り主の相手に目を見張った。
送り主が信じられない人物だったからだ。
北原葉月。
二年前に死んだはずの恋人が僕にメッセージを送っていた。
軽く困惑した僕は、返信することができない。
彼女はたしかに二年前、死んだ。それは間違いないはず。
僕は過去に戻って別れを回避し、彼女を自殺させないようにしようと努めたが、それは夢の中でのこと。
夢の中でどんなに頑張っても現実世界はなにも変わらないはずだ。
それがこの世界の法則であったはずだが、それが変わったのだろうか。
いや、変わるわけがない。
もしも変わっているのだとしたらあれは夢ではなく、現実だったということになるが……。
慌てて連絡帳から『未来』という名前を探すが、そこにはすでにメッセージが書かれていた。
未来はただ一言、「おめでとう、未来は変わったよ」とメッセージを残してくれていた。
その言葉で俄然、現実感を取り戻した僕は、思わずガッツポーズをしてしまう。
僕が過去に戻ったことは無駄ではなかったのだ。
過去に戻るときはとても痛い思いをしたが、現在に戻るときは痛みどころか切っ掛けさえ分からないところは不思議でしかたないがそういうものなのだろう。
未来に戻るにも死ぬような痛みを覚えなければいけないよりはましである。
そう思ったので、タイムスリップについては深く考えずに、葉月のメッセージに返信することにした。
『僕たちはまだ恋人?』
未来は変わったが、それが良い方向に変わったかは分からない。
彼女が自殺しなかっただけで恋人関係は解消されている可能性もある。
彼女が生きているならばそれはそれでいいが、やはりできることならば彼女が恋人でいてほしかった。
数分後に返信がくる。
『もしかして浮気している? さっきのメッセージも既読マークが付くのは早かったけど、返信が遅かった。他の女の子と話していたんじゃ』
ぎくりとすると同時に嬉しくなる。
浮気を疑っているということは僕たちはまだ恋人同士ということ。
それに焼き餅を焼いてくれるということは僕に好意を持ってくれているということ。
あの短い文章からはそれが分かる。
しかしそれにしても女の子は鋭い。既読までの時間とたったの一言で僕が他の女性と話していることに気がつくなんて。
正確には違う世界軸の女の子のメッセージを見ていた、なのだけど、彼女に事情を話せないのには変わりない。
浮気など絶対にしない自信はあるが、他の女の子とメッセージの交換をしているのは事実で、少しだけ罪悪感を覚えてしまう。
僕は贖罪のため、彼女を食事に誘うことにした。
机の上に置かれている財布を見る。
まだ月末ではないのでそれなりに厚みはあった。
バイトもしているし、彼女を食事に連れて行くくらいのお金はあった。
僕は彼女にメッセージを返信する。
『君の彼氏が二股をするほどの御面相だと思う?』
『たしかに絶世の美男子じゃないけど、そこそこ格好いいよ』
『それはありがとう。じゃあ、そこそこの僕と食事に行ってくれる? 奢るよ』
『嬉しいな。是非、連れて行って。……でも、その前に謝ってほしいことがあるのだけど』
なんだろう、どきりとしてしまう。
彼女は数秒間を置くと、こんなメッセージを送ってきた。
『私の大好きな彼氏をこんな御面相とか言わないで。自分の好きな人の悪口を言われると腹が立つ』
そんなことを真顔で、顔文字もなしで言われてしまうと、気恥ずかしいというか、返す言葉はないが、ここは素直に謝ると、待ち合わせ場所を指定し、最後にこんなメッセージを送った。
『お詫びに好きなものを好きなだけ食べていいよ』
と――。
そのメッセージの返信はなかったが、彼女は時間通りに待ち合わせ場所にやってきてくれた。
とても穏やかで怒っているそぶりはまったくなかった。
彼女と待ち合わせをする。
大きなJRの駅。時計台の前。
その駅は改札口の出口がひとつしかなく、迷うことがない、という理由でよく利用していた。
渋谷や新宿のように出逢うことさえできずに時間を浪費する心配がない。
それに最近の再開発で駅から直接、大型複合モールへ行ける。
大きな本屋から、有名ブランド、世界的な衣料品チェーン、シネコンも入っている。
また休日にはなにかしらイベントが行われており、飽きることがなかった。
まめでもなければ気も利かない僕は、三回に一回はそこをデート場所に指定していた。
彼女も特にこだわりがあるタイプではなく、毎回、文句を言うことなく付き合ってくれた。
僕たちはいつも待ち合わせしているイベント会場の前で落ち合う。
僕は開口一番に謝る。
まずは自分から呼び出して三分も遅刻したこと。
次に今日、講義をサボったことを謝る。
彼女は「許しましょう。私は慈悲深いの」と戯けながら許してくれた。
「待ち合わせに遅刻したのはどうせ電車の遅延でしょ。今、遅延情報を見ていた。鉄道会社を言い訳にしないのは男らしいよね」
ただ、と彼女は続ける。
「大学の講義をサボったのはご両親に謝るべき。学費を払っているのはご両親でしょう」
「もっともだ。今度、実家に帰るときはお土産を持参するよ」
「そうして。さて、会ってそうそう説教を延々と続けるのもなんだし、散策しない?」
「いいね。少し話したいこともあるし」
「珍しいね。もしかして講義をサボったことに関連あるの?」
「あるといえばあるかな。――最初に言って置くけど、変なことを口走るかもしれないけど、気にしないで」
「最初にそんなこと言われてしまうと身構えてしまうけど、今日の君はなんか変。だから多少のことは受容できると思う」
でもその代わりショッピングモールにある一番高いソフトクリームを奢って、と彼女は言う。
一個五〇〇円もするが、それで彼女の機嫌が良くなるのならば安いものだ。
そう思った僕は彼女を連れ、ソフトクリーム屋へ向かう。
過去に戻ったとき。僕は衆目の中、彼女を抱きしめるという大胆な行為をしたが、そのときの勇気はどこに行ったのだろうか。
今は手を握ることもできないヘタレに戻っていた。
ベンチに座り、美味しそうにソフトクリームを食べる葉月。バニラだ。
彼女はなにも添加していないシンプルなフレーバーのアイスが一番好きで、よくバニラを注文していた。
これが一番牛乳の味が分かるので好きなのだそうだ。
僕は特にこだわりがないので、限定商品の「あまおう」が入ったイチゴ味を頼んだ。
黙々とソフトクリームを食べると、僕は彼女に話を聞き出す。
「あ、あのさ、僕たちはまだ付き合っているんだよね?」
その言葉を聞くと、幸せそうにソフトクリームを舐めていた彼女の顔が曇る。
「さっきも話したけど、もしかして他に好きな女の子でもできた?」
「まさか。それは絶対にない」
「じゃあ、なんでそんな質問を」
「い、いや、なんというか、その今日、朝起きたら、なんでこんな綺麗な子が僕の彼女なのかな、って改めて考えたら、すべてが夢のような気がして」
「なにそれ、中学のときから付き合っているのに」
「だよね」
「もしかしたら私たちは儚い存在で、蝶々が見ている一晩の夢なのかもしれないけど」
「中国の故事? 一炊の夢?」
「それプラス胡蝶の夢」
「哲学的だ」
「どういたしまして。話を戻すけど、私は君の彼女のつもりだけど」
「良かった。ところで高校の学園祭を憶えてる?」
「本当に藪から棒ね。憶えてるわよ。一緒に『映研』の映画を見て、後夜祭でハグされた」
その言葉を聞き、僕は目を輝かせる。
やはり僕は歴史の修正に成功したようだ。
彼女が自殺した歴史では、僕たちは映研ではなく『演劇部』に行った。ハグもしなかった。それどころか別れた。
この『世界軸』での僕たちは、その後もずっと恋人関係を続けていたようだ。
やはり彼女は僕のことが嫌いになって別れたのではない。
それを確認した僕は天にも舞い上がりそうな気持ちになった。
彼女を抱きしめたい気持ちに駆られたが、さすがに往来でそのような真似はできないので、僕は彼女に手を繋いでいいか尋ねた。
「本当に今日の君は変だね。手なんていつも繋いでいるのに」
後夜祭以降の僕は多少積極的になり、自分から彼女と手を繋ぐようになっていたようだ。
なかなかに隅に置けないが、この世界軸の僕は彼女にキスをしたのだろうか。
気になる。
ここで彼女の唇に唇を重ねればその答えは分かる。
彼女が拒否しなければ日常的にしていることになるが。
試そうか迷ったが、僕は日和った。
行動ではなく、言葉で尋ねた。
「あ、あの、葉月。あ、あとでキスをしてもいいかな?」
きょとんとした目でこちらを見てくる葉月。
彼女は怪訝な表情をしていた。
「あ、やっぱりなんでもない。嘘嘘、気にしないで」
「気にしないでと言われても。てゆうか、キスは駄目」
やっぱりそうなのか。僕たちの仲はそこまで深まっていないのか。
残念なような、ほっとしたような、色々な感情が押し寄せるが、感傷的になっている僕に彼女は悪戯気味に声を掛ける。
「だってこれから中華料理を食べるのでしょう? 食事の直後は厭だけど、そのあとだったらいいよ。ニンニクがたっぷり効いた料理のあとにキスはねえ。さすがの私も厭」
彼女はクスクスと笑うと、僕の手を引き、中華料理屋へ急いだ。
「私、お腹ペコペコなの。それに久しぶりに君とキスしたい。ぱっぱと食べて、その後、歯を磨いて、いい匂いのするガムを食べる」
と嬉しそうに言った。
その台詞、その表情。
僕は改めて後夜祭以後の自分を褒めた。
こんな可愛い彼女にこんな台詞を言って貰えるくらい頑張ったのだ。
自分で自分を褒めるのはなんだか変な気持ちだが、朴念仁である僕の癖に頑張ったことは評価してあげたかった。
僕はその頑張りを無駄にせず、その努力を継承するつもりだった。
今後二度と彼女に別れ話を切り出されないよう、彼女を幸せにするつもりだった。