2話
お嬢さんは大店の末の娘さんで、生まれつき体が弱い人だったそうだ。
一日のほとんどを布団の中で過ごし、食事よりも薬の量が多い生活を送っていた。
ある日を境に屋敷が賑やかになり、いつも物静かな世話係も何かを思い出しては笑いをこらえるようになった。
佐助という新しい丁稚が入ってから。
とにかく歳のわりに元気がありあまっているような子で、怒られてもめげない姿が見ていると可笑しくなるらしい。
いつも奥まった静かな部屋にいるお嬢さんには別世界の話だった。
天気が良く、体調も穏やかで、障子を開けて布団の中から小さな庭を眺めていると、ひょっこりと男の子が障子の影から顔を出した。
「あ!起きてらした!初めましてお嬢さん。佐助と言います。今日のお加減がよろしいと小耳に挟んだので忍び込んじゃいました」
部屋には入らず、障子の手前で正座をしながら、へへっと全く悪びれた所のない笑顔は本当に子供で。
同い年と聞いてお嬢さんは素直に驚いてしまった。
すぐに佐助は見つかり連れ去られ、こってりと叱られたようだったが、それでもそれからもほぼ毎日会いに来た。お嬢さんの具合の悪い時は障子の向こうから声だけ。晴れた日にはお使いの途中で見つけたと野花を一輪持って。
新しい仕事を覚えた。朝ご飯に好物が出た。失敗して拳骨をもらった。うっかり野良猫の尻尾を踏んで引っ掻かれた。自分の着物を繕うの失敗して前身ごろと後ろ身ごろがくっついた。字が汚すぎて番頭さんの目が死んだ魚のようになった。でも計算が早くて褒められた。
ごく短い時間の他愛のない話。
変わらない部屋の中で聞くそれらは、お嬢さんの生きる力になった。笑うだけでも体力がつく。だから佐助はお嬢さんの部屋に通うのを黙認された。
お嬢さんの髪は黒々として綺麗。姿勢が綺麗。話す言葉が綺麗。字も綺麗。箸の持ち方も綺麗。
自覚なく褒めちぎる佐助に困ったりもした。
屋敷の中を歩くだけでも心配されていたお嬢さんが庭を散歩するようになる頃には、二人の邪魔をするのはお嬢さんの兄の若旦那だけになっていた。
二人の恋路にもなっていない間に入り奮闘する若旦那は嫁にまで呆れられる始末で、その様子すら、屋敷中で生温かく見守られていた。
「佐助!こんなところにいたのか!次の仕事にかかりなさい!」
「わあ! 承知しました若旦那! じゃあお嬢さん、部屋まで送るよ」
「ううん、ここで平気。お兄さまが呼びにいらしたほどだもの、急ぎでしょう? 早く行って」
「そうだ早く行け」
「はい若旦那!お嬢さんを部屋までよろしくお願いします! じゃあ行ってくるよお嬢さん、また明日」
「ふふっ、いってらっしゃい佐助。また明日」
「……また若旦那の負けねぇ」
「全然相手にされてねぇもんなぁ……」
「妹可愛いもここまでくるとせつないわぁ」
「あんなに可愛い二人なんだから認めてあげればいいのに」
「あら若女将もそう思います?」
「大女将も楽しんでるわよ。は~、初々しくていいわよね~」
「俺らはこそばゆいですわ」
「若旦那と若女将も私らには初々しいですよ」
「あら!そう?」
というやり取りを世話係に教えられ、お嬢さんは色々と恥ずかしい思いをした。それでも佐助と会う事はやめなかった。
その年の夏。得意先に誘われて家の皆が花火大会に出掛けるのを見送った。いくら例年より元気になったといっても標準体力には及ばないお嬢さんは、いつもの薬を飲みながら世話人と留守番をしていた。
と、ドタドタドタドタドタドタ!と廊下を走る音が近づいて来ると、ザッ!と障子が開けられた。
「佐助? どうしたの?」
現れたのはゼエゼエと息を整えている佐助。皆と花火大会に行ったはずなのに、何か忘れたのだろうかと世話人と顔を見合わせた。
「……は、花火、見に、行こ……大、旦那、さまが、いいって……!」
ただし若旦那に見つからないように。そう聞いたとたんに世話人が動いた。白地にカキツバタの浴衣を出すと佐助を部屋から閉め出した。
「あまり長い時間は駄目だって。で、俺の家の裏山に花火が綺麗に見える所があるんだ。そこなら近いし、人込みに行くよりいいと思う。もちろん世話人の姉さんも一緒に」
そうして準備を終えた三人は留守居にわけを話して屋敷を出た。
お嬢さんは佐助に背負われていたが、隣を歩く世話人が息を切らせるほど、佐助の歩みは早かった。
夜に屋敷を出た事に感動していたお嬢さんは、真っ暗で真っ黒な裏山の入り口に着いた時に腰が引けてしまった。それは世話人も同じだったようで、少し下ったところの民家の明かりが届く所で待つと言った。
佐助はそれに了承すると、提灯と虫除けの線香を受け取り、お嬢さんを背負ったまま、迷わず山に入った。
佐助の足音、それ以外の音。提灯の明かりのその向こうには何があるのか分からない。何かが潜んでいるようで。今にも飛び出して来そうで。
「こわい……」
せっかく誘ってくれたのに、口をついてしまった。
「真っ暗だからなぁ。でも夜だししょうがないよな!」
カラカラと笑う佐助に呆気にとられる。その歩みは全く変化なく、慣れた道なのだと、そして、怖がるものではないのだと安心できた。
出会った時は同じくらいの背丈だったのに、今は頭一つ分も大きくなった佐助。その背に乗る事があるなんて。父にも兄にも、抱き上げられた事はあっても、背負われた事はなかったのに。
そして、鳥居のようなものをくぐった瞬間、光と大きな音に驚いた。
「お!今からだ! 間に合った!」
そしてゆっくりとお嬢さんを下ろすと、社に向かって手を叩き、手拭いを敷いた所に座るように促した。
か細い笛の音のような後に咲く色とりどりの光。
星は霞み、町並みが照らされる。そして聞こえる歓声。
「花火に近いのもいいけど、ここで見るのもいいっしょ!」
花火の邪魔にならないようにか、提灯は向こうの方にあり、佐助の顔はよく見えない。
でも。
「うん! 連れてきてくれてありがとう!」
喜びよ、伝われ。
喜ばせてくれる人に、伝われ。
「良かった。あと百回はここに連れて来るから一緒に見ような」
丁度上がった花火に照らされ、にっかりと笑っている真っ直ぐな目を真っ直ぐに見返せた。
「……うん……!」
涙が滲む。
佐助、佐助…………私の未来を言葉にしてくれる人。
今日を生きるだけしか考えていない私に、明日をくれる人。
ぼやけた視界の中でも、花火はとても綺麗なのだと知った。