4話
「のぞむ!」
名前を呼ばれた方を見ると、窓の向こうに八巻君がいた。見たことがないくらい真剣な顔をしていて、一瞬誰かわからなかった。
だから、ひどい泣き顔のまま見つめてしまった。
「泣いてっ!? 怪我した!? 痛い!?」
あ、八巻君だ。……うわ!八巻君だ!
「え!小田ちゃん怪我したの!?」
「マジか!救急車か!?保健室に運ぶか!?」
「小田ちゃーん!傷は浅いぞ気をしっかり持って!」
「そんなにヤバイの!?」
「小田ちゃん!A型なら俺の輸血してくれ!」
「B型なら俺がいるぞー!」
「ちょっと!あんたたち避けなさい!望ちゃん生きてる!?」
わわわ!美香先輩まで!
続々とやって来たサッカー部一年生部員の騒ぎに、先生が無事な窓を開けて叫んだ。
「小田に怪我はない!勝手に重傷者にするな!お前ら騒ぎすぎ!そして私の心配もしろーっ!」
そこでみんなはようやく落ち着いたらしい。
私も少し落ち着いたので先生の隣に立つ。このぐずぐずの顔をさらすのは恥ずかしいけれど急いでハンカチで拭く。泣いた理由を心配してくれたみんなに言わないと。
「ごめんみんな、今日のおやつ、駄目になっちゃった」
「そんなの望が無事ならいい」
八巻君の手が頰にそっと触れてきた。
「良かった……悲鳴が聞こえたから」
ななななに!?この手はなに!?
今まで見たことがない、八巻君の優しい表情に心臓がドキンと跳ね上がる。
「う、うん……作ってた肉まんが水浸しになっちゃって……」
八巻君を見られない。顔が熱い。
八巻君の手を離すこともできず、窓のサッシを見つめたまま、どうにか悲鳴の理由を説明。
「「「「「 え?肉まんて作れるの?? 」」」」」
「それ私もさっき言ったわ」
「……ふっ、ふふっ」
みんなの声が揃って思わず笑ってしまい、うっかり八巻君と目が合う。
でも、いつものように笑いあえた。
そして、八巻君の手が離れ、サッシを掴んだ。ん?
「先生、俺、片付け手伝う」
「待て待て窓から入ろうとするな。とりあえず教頭先生たちに現場を確認してもらうから、片付けはその後。ガラスも散らばってるし、人手があり過ぎても危ないから、とりあえず君らは部活に戻りなさいよ」
「……わっかりましたー、んじゃ野球部シメに行くぞー」
「「「「「 おー 」」」」」
「やめろ、どこのヤンキーだ絶対やめろ。ほら、お前らがここにたまってるから野球部が謝りに来られないだろ、散れ散れ部活に戻れ〜」
周りを見るとフェンスの辺りに野球部員が集まってこちらを見ていたし、テニス部も様子をうかがっているようだ。サッカー部も一年生が全員こちらに来てしまったので練習が止まっていた。
先生が追い払うように八巻君たちに手を振ると、みんな素直に戻って行く。
「心配してくれてありがとう」
「帰り送るから」
八巻君はまだそこにいた。
「え、で、も、おやつ、ないよ?」
「いい。送るから待ってて。一緒に帰りたい」
「……はい」
「じゃあ後で」
八巻君の言動を深く考えちゃいけない、私の勘違いで、心配してくれただけとわかっていても、とにかく嬉しすぎて。
顔があつい。
「いやあ、青春だ〜」
走って行く八巻君の後ろ姿から視線を戻すと先生がニヤニヤしてて、それにまた悲鳴をあげそうになり慌てて口を押さえた。
✳
その後、すぐに野球部が謝りに来て、その間に教頭先生たちも来て、状況確認。片付けは先生たちがしてくれることになり、私は保健室で待機。怪我はどこにもないけれど休息が必要らしい。養護の先生があったかい緑茶を出してくれた。
三十分程度で料理部顧問が保健室にやってきて、窓の修理は明日、蒸し器二つは処分、冷蔵庫と壁に少しボールの跡が残ったが問題無し、と教えてくれた。
「怪我がなかったのが何よりだったよ~。野球グラウンドのフェンスもさ、高くて圧迫感があるから経年を理由に低くしようって言ってたんだけど、補強の方向になりそうだよ。それか調理室の窓に専用のフェンスを取り付けるか。予算にもよるけど、まずは業者に調理台の安全確認をしてもらうから。コンロに直接は当たらなかったし、ガスの匂いもしないけど一応ね。だから一週間くらいは調理室は立ち入り禁止になるよ」
「そうですか……」
「は〜あ、授業でも調理の予定がなかったからいいけど、一週間も小田のおやつがないなんてさみしいわ〜」
まさか先生に言われるとは。
まじまじと先生を見つめてしまい、笑われた。
「実は教頭先生も残念がってる」
「えええ!?」
教頭先生も食べていたとは知らなかった……
それから養護の先生も一緒にお茶を飲みながら過ごした。
✳
「しっつれいしまーす!」
保健室のドアがノックと同時にガラッと開けられ、帰り支度の済んだ八巻君が現れた。
「ノックの意味……」
「え? したよね?」
「ふふっ」
呆れる先生にキョトンとする八巻君。緊張する暇のなさに笑ってしまった。
「お待たせ小田ちゃん、帰ろ」
「うん」
―――小田ちゃん
一人ドキドキしているのが馬鹿馬鹿しくなるほどいつも通りの八巻君で、挙動不審にならずにすんだ。
先生たちに挨拶して、先に廊下を歩く八巻君に付いて行く。
そういえば、こうして後ろ姿を見ることってなかったかも。
校内ではなかなか会わないし、帰りだって私の隣は美香先輩で、八巻君たちは私たちの後ろを歩く。
「緊張した」
下駄箱で靴を履き替えた八巻君がぽつりと言った。
「え?なにに?先生たち?」
「いや、のぞむが俺の後ろを歩いているなあって」
見上げた私の顔は真っ赤になったに違いない。
頬が熱いし、八巻君が目を見開いたから。
他に誰もいなくて良かった。
サッカー部の終わる時間には、他の部活の生徒はほとんど帰っているし、校内の部活はもう少し早い。
誰にも見られていないことにホッとしながら、逆にどこからも助けが来ないことに青くなる。
「えーと、なんか、ごめん?」
顔を赤くしたり青くしたりしてる私に、八巻君がこてんと首をかしげた。
「名前呼び、嫌?」
テンパった私には、八巻君が何を思って聞いてきたのか見当もつかない。
というか、きっと言葉のままだ。
そういう人よ、八巻君て。
「い、嫌じゃない、よ。で、でも、よく読み方知ってたね」
『望』と書いて『のぞむ』。
女子なら『のぞみ』の方が圧倒的に多い読みなので、クラスが違う人には正しく呼ばれたことがない。それに、友だちは美香先輩のように『のんちゃん』と呼んでくれるので、家族以外に『のぞむ』と言われると戸惑ってしまう。
小学校高学年からは男子には名字しか呼ばれなかったし。
だから、八巻君には下の名前を教えていなかった。
なのに。
「うん、入学式の時にね。名前は男なのに女の子が返事したから覚えてた。顔は見えなかったけど」
入学式。新しい日常の始まりよりも、先輩の姿をまた見られるととてもドキドキしていた。その想いは桜の季節の終りとともに散ってしまったけど。
そんな過去をちくりと思い出している間も、八巻君と見つめ合っていた。
「『望む』って、強い意志を感じるなぁって印象に残った。良い名前だね」
へへっと小さく照れる八巻君。
「あ、ありがとう……」
強く望んでも叶わなかった事もある。嬉しいのに素直に喜べないでいる私は名前負け人間だ。二人きりの今に満足して、気持ちを伝えようとしないでいる。
先輩のように、憧れだけで日常には接点がない人なら、失恋も受け入れられた。
でも八巻君は、ほぼ毎日一緒にいて、いつの間にか好きになった人だ。フラれてその時間がなくなるのは、想像するだけでもかなり―――辛い。
「ね……あの時のケーキ、なんで、作ってくれないの?」
「え」
話の展開についていけず、脳が働かない。
待って八巻君。
「まだ……」
混乱で何も言えずにいると、ちらと目線を外した八巻が少し俯く。
「あのケーキを渡そうとしたヤツを忘れられない?」




