後編 ★
強く握られる右手。しかし痛くはない。
山川は何を聞いて何をされたか一瞬分からなかった。
ハイタッチは何度もした。勝った時、遊んでいる時、ふざけている時、鼓舞する時。
原田も山川も誰とでもそうしていた。今初めて手に触れたわけではない。
部長同士の何か。
ただの縁。
試合中と個人練習の時にしか見せない原田の真剣な目に。マメの痕が固い大きな手に。山川は囚われた。
お前にしかしない。
その意味を理解する前に、山川の意識の外で涙が溢れた。ぼやける視界の向こうで原田の目が丸くなる。
「そ、卒業しても、皆、で、近くにいると思ってた……そんなわけないって……思っても、まだ、ずっと、先の事だって……」
涙が我慢を溶かした。そうなると、もうとめどない。
そうならないように、山川は乱れた心を落ち着けるためにここに来たのに。
「仲が良いと思ってた。誰より仲が良いと思ってた!その原田が!私から一番に離れるなんて思ってなかった!」
原田の右手を握る。山川がどんなに力を入れてもびくともしない大きな手。身長もさらに離された。
それでも変わらずそばにいた原田を好きだと意識したのはいつだったか。
昨日急に勤務地が県外だと聞かされて山川は泣いた。
「もう毎日会えなくなるだけでも寂しいのに……告白して駄目だったらとか、友達じゃなくなるより良いとか思ってたのに……離れたら、もっと会えない……どうしたらいいかわからないよ!」
毎日会えなくなる事に、卒業してから少しずつ慣れていこうと考えていた。
仲のいい友達でいいはずの原田をそんなにも求めていたのかと、山川は原田と会えなくなることが恐くなった。仕事だと分かっている。原田に辞めてくれなんて言えるわけも、その資格もない。
ふと、静かな原田に山川は我に返った。
何か言い訳を。何か、言わないと。
「ごめん……なんか、変な事言った……忘れて」
山川自身が混乱したままだったのだ、原田が全てを理解する訳もない。急に訳の分からない事をしかも泣きながら喚かれた原田に申し訳ない気持ちになった。
こんな告白をするつもりじゃなかった。
あいている左手で顔を拭う。何度もこすって涙が顔中に広がった後にハンカチの存在を思い出す。山川はさらに情けなくなった。もう顔を上げたくない。
「えーと……」
原田の戸惑う声を聞き、山川はさらにうつむいた。繋がれた右手をどうしよう。
「そんなに好かれてると思ってなかった。やべぇ可愛い抱きしめていいか?」
また何を言われたのか理解する前に右手が引かれ、山川は原田に包まれる。
頬に触れた原田のブレザーがひんやりとした。
「ええと……なんか、ごめん?」
抱きしめておいてごめんて何だ。
「俺、山川には情けないところばっかり見せてきたからさ、少しは格好よくなってから告ろうと思ってたんだ」
内緒話とは違う声量。口と耳の距離だけならもっと近い時があった二人。
「憧れの仕事に就いて体も精神も鍛えて、そしたら、山川に付き合ってもらえるかと思ったんだ」
山川はぶらりと下げていた手を上げ、原田のブレザーを掴む。顔はブレザーにうずめたまま。
「今だって……格好いいよ……私には、誰より格好いい」
無様な姿を見せたからか、山川の口からは素直な言葉が出た。
背中と肩にある原田の手が熱い。頭にかかる息が熱い。何より山川自身が熱い。
「まだ、一番の友達でいいと思ってた……誰のことより見てるつもりだったけど……どこを見てたんだろうなぁ」
原田の言葉に山川もブレザーに擦り付けるようにうなずいた。自分の気持ちにいっぱいで相手の思いに気づかなかった。通じた、通じ合えた事がこんなにも嬉しいと噛みしめる。
すると原田は「ああクソ失敗した~」と呟いた。
「バッキバキに腹筋が割れたらなんて思うんじゃなかった~」
続いた言葉に山川の脳内は真っ白になった。思わず両手をそれぞれに握りしめて原田の脇腹を突く。
「ぐえっ」
原田の拘束から逃れた山川はポケットからハンカチを出して急いで顔を拭く。原田は痛え!とうろうろしながら呻いている。
「両脇とか容赦ねえな!」
「バッキバキの腹筋なんて言うからよ。キモ」
でもその言い様は原田の仕様で、残念なことに山川はそこも好きなのだ。眉間にシワを寄せて脇腹を撫でる原田はそれをどこまで分かっているのだろう。「バカ野郎、筋肉カッコイイだろうが」というのは放っておく。
「でも、彼女になってあげる」
ポケットにハンカチをしまいながら茶化しつつも言質が欲しい。今度は山川が右手を差し出した。
「……そりゃあどうも。ウレシイワーイ」
ふて腐れたふりの原田がその手を握る。口元が締まらないのはお互い様だ。
「遠距離だけど、LINEでいいからそばにいてね」
いつもよりしおらしい山川の様子に原田は悶えた。
「くそっ!今からスマホに嫉妬かよっ! 失敗したっ!絶対最速で地元に一番近い駐屯地勤務になってやる!」
大袈裟に嘆く原田に山川は笑った。
―――お前の名字、山なのか川なのかどっちかにしろよ~
―――マイナスイオン溢れる名字でしょうが。原田こそ原っぱなのか田んぼなのかちゃんと開墾しなさいよねー
―――バッカ!讃えろ大地を!そして俺を!
くだらない言い合いをたくさんした。
ずっと変わらないと思っていた。
身長差のように少しずつ変わってきたものを、芽生え育った気持ちを、伝えたいと叶えたかったのだとやっと認めた。
もう時間だと、名残惜しくも離れ、右手と左手と繋ぎ直して並んで歩く。
ぎこちない。
それがお互いに分かって照れくさい。
しばらく無言で歩く。
握り合う手に力を入れると、お互いの口元がほころぶ。
「あ。そうだ。山川が大学を卒業する頃には絶対に戻って来るからさ、」
思いついたとばかりに原田が朗らかに提案した事は、またも山川の脳内を真っ白にし、そして顔を真っ赤にさせた。
「その時に結婚しような」