夜 賢者宅 室内2
「ワシが、その賢者じゃ」
今しがた部屋に入ってきたご老人は、そう言っていた。
黒いローブに豊かな白髭、確かに雰囲気はファンタジックな物語に登場する賢者か魔法使いのような感じがする。
「あ、えーと、私のケガを治して頂いたと聞きましたが…」
「そうじゃな。あれほどの傷を治すのは流石に骨が折れたわい」
「すみません、ありがとうございます…!」
「なに、お嬢さんの生命力が相当に高かったから出来たことじゃよ。ワシはただ治癒の魔術を掛けただけじゃ」
そう言って、ご老人は微笑んで見せる。やはり魔術……一体それは何なのだ。
確かに、いきなりの森の中だったり、容姿が変化したり、あり得ない巨大狼だったりと現実離れした事が続いているが、ここにきて魔術。
「はぁ……」
いや、本当に現実だったのか?
実はここが、アブナイ葉っぱを焚きまくって集団トリップしてるヒッピーの集落で、それに巻き込まれて幻覚を見たとか。
いや、それだと初めからこの容姿に見えていたことに説明がつかないし、特に多幸感もない。バッドトリップしてない限りは。
とりあえず結論は保留にして、まずは情報を集めなければ。
そう考えて立ち上がろうとベッドから足を下ろすと、唐突に視界が揺れた。
「っ……!」
「無理しなさんな。お嬢さんは、傷に加えて魔力切れも起こしておった。魔力が戻るまでは安静にしておれ」
「……はい」
魔力伝々はともかく、大ケガ直後なのだから体調の不備は仕方ない。大人しくベッドに戻る。
それを横目に、ご老人はおもむろにすり鉢に手を翳すと、なにやらぶつぶつと唱え始めた。
直後、すり鉢が光った。
「!?」
その緑色系の淡い光は、暫くしてゆっくりと収まっていく。
「サーリャ、棚からエーテル薬を持ってきてくれんか」
「ん、りょーかい」
サーリャと呼ばれたイヌミミ少女が、抑揚の無い声で返事を返すと、部屋から出ていく。
一方ご老人は、光の収まったすり鉢の中身を小さな紙……多分薬包紙に乗せ、折り畳み包んでいく。
それを輪になっている細い紐に括り、丁度ネックレスのような形にする。
「さて、そいつを交換するかのぅ」
作業を終えてこっちに向いたご老人。
良く見れば、私の胸元にもそれと同じような包みが提げられていた。
「これは……」
「生命力を賦活する御守のようなものじゃよ。ある程度は楽になろう」
半信半疑のまま、差し出されたそれを受けとる。
それと同時に、体に纏わり着いていた怠さが、スーっと引いていく感覚を覚えた。
「あ……すごい」
即効性なんてものじゃない。
不思議な力に包まれているような感触、ほんのり暖かい気もする。実はこれも危ない葉っぱだったりするのだろうか。
「持ってきた。これでいい?」
「あぁ、これで大丈夫じゃ」
部屋の入り口から、イヌミミ少女が戻ってきた。手には薬品瓶のようなものを持っており、ご老人に手渡す。
ご老人はその瓶の蓋を開け、置いてあった木のカップにある程度垂らすと、また何やらぶつぶつと唱えた。
すると、空中から水が出てきた。
「えっ……なにそれ」
どこからともなく凝集した水玉は、ある程度の体積になるとカップの中へと正確に落下した。
いやいや……光るだけなら生物発光やら仕込みLEDとかなんとかでまだしも、これはもう説明がつけられない。
「それ、飲むのじゃ。それを飲んで寝れば、朝までには魔力が戻るじゃろう」
「いやでもエーテルって……」
R-O-R'な有機化合物では?
ジメチルエーテルとかエチルメチルエーテルとか。思い切り毒性あるんだけども。
「安心せい、毒など入れてはおらんよ」
困ってカップをじっと覗き込んでいる私を見かねたのか、ご老人が他のカップにそのエーテルを少量注ぎ、自ら摂取した。
エーテルっていう名前の、また何か別の薬なのだろうか。液体状の危ないクスリだとか。
とはいえ、それならばそれで寝てる間に無理矢理摂取させればいい話だろうとは思うし、見た限りだが、クスリで仲間を増やそうとする頭のトんだカルト的な雰囲気も無い。
正直、逃げる元気も無い以上取れる選択肢は限られているのだから、ここはもう好意と割り切って受け入れておこう。
「じゃあ……頂きます」
そっとカップに口をつけて、一口飲む。
微妙な苦み。言うなれば薄めたお茶。あのエーテルはお茶みたいなものなのかな?
とはいえ、感覚としてはほぼ水なのだが、水らしい雑味がほぼ無い。ミネラル分をほぼ含まない軟水、いや精製水……超純水レベルかもしれない。
仮に魔法で水を、それこそ水だけを出したらこうなるのかもしれない。
……?そもそもなぜ、自分は超純水の味を知っているのか。
「さて、ワシの名はアルデバラン。今はそう呼ばれておる。もっとも、ただ賢者と呼ばれる事が多いがのぅ。それで、お嬢さんの名前を教えてもらってもいいかね?」
枕元で椅子に座ったご老人……自称賢者アルデバランは、そう切り出す。
「……すいません、分からないです」
そもそも、名前はおろか全てが思い出せないでいる。
「なんと……では、どこに住んでいたか、もしくは、何をしていたのか、はどうじゃ」
「ごめんなさい……。自分が何なのか、何一つ覚えていないんです」
「記憶喪失?」
横に立っていたイヌミミ少女サーリャが、そう呟く。
「あ、でも多分東京か神奈川辺りだと思います。唯一残ってた記憶がそこだったので……」
一番始めに思い出していた中央林間。そもそもそこが関わり深いのかは全く分からないものの、路線を利用していたとすればそこに住んでいた可能性も高い。
しかし、その賢者の反応は予想とは違うものだった。
「トーキョー、カナガワ……はて、聞いたことがない名じゃ。通称かのぅ…」
「えっ……」
東京都および神奈川県を知らない。もしかしてここは日本ではないのか。
いやでも日本語話してるし、もし勉強したというのならその過程で東京くらいは知っている筈だ。
「あの……ちなみにここは何処なんですか?」
「ブラウバルトの中層あたりじゃ。ラインラント諸邦のひとつ、ノルデンフェルト領のな」
青い森……。
ドイツ語、つまりここはドイツもしくはオーストリアだとか?
しかし、ラインラント諸邦もノルデンフェルト領も聞いたことがない。
ラインラントをそのまま受けとるならば、ドイツ西部ライン川流域のどこかということだけれども……。
ライン川近くのノルデンフェルトとは聞いたことがない。というか、ライン諸邦って……かの19世紀初頭のライン同盟なのか?
地元民だけに通じる名称だろうか。だとすればお手上げだ。
「えーと……ドイツ?」
「ドイツ……とな?」
「あぁいや、あー……ジャーマニー、ゲルマン……ドイツ連邦共和国」
「ふむ……」
なにやら考え込む賢者アルデバラン。
ヨーロッパ人ならドイツを知らない筈がない。いや、確実にそうとは言い切れないものの、仮にも賢者と名乗る者がGDP上位の大国を知らないとは思えない。
もしかして、ここ、異世界なんじゃないだろうか。
薄々その可能性は考慮していたものの、あまりにも突拍子が無かったため隅に置いていた思考を引きずり出す。
「……まぁ、兎も角じゃ。今はゆっくり休んで、体力を戻すことが先決じゃ。難しいことは回復してから考えるといい」
「あ…はい」
そう言い残した賢者が退室し、室内には私とイヌミミ少女が残される。
イヌミミ少女はナイトテーブルの引き出しを開け、いろいろ物色している。
「……えーと、サーリャさん?」
「ん。サーリヤ・ヤコヴレヴナ・アルスカヤ。サーリャでいいよ」
引き出しから何か私物らしきものを取り出したイヌミミ少女サーリャさんは、そう素っ気ない声色で返す。
名前の響き的には思い切りスラヴ系。ドイツ的雰囲気が多かった中では異質に思える。
というか、ナイトテーブルに私物が入っているということは……
「もしかして、このベッドって……」
「ん、私の」
「あ、すいません。使わせてもらって」
「問題無いよ、気にしないで」
「……ありがとうございます」
そういえばサーリャさんは確か、二人組の一人だった筈。
あの時狼に立ち向かっていた人は無事だろうか?
「あの、もう一人の方は……」
「マリーの事?」
マリー……あぁ麗しのフランス風。
国際色豊かな人達だ。
「マリーなら、オジサンに会った後街に戻ったよ」
どうやら、近くに街があるらしい。
どのくらいかは分からないが、街に出られれば何か分かるかもしれない。
「えーと、ところで……なぜ日本語を?」
とりあえず、気になっていることをぶつけてみた。
なぜこんなヨーロッパのど真ん中的なところで日本語が話されているのか。それが掴めればなにか分かるかもしれない。
しかし、現実は常に斜め上を行くものだったらしい。
「ニホン語?……なにそれ」
「え……今話してるのって……」
日本を知らないで日本語を習ったというのか。一体どういう状況だとそうなるのだ。
そんな困惑を余所に、サーリャさんは当然の如く口を開いた。
「普通の共通語だよね。ん、帝国成語……だっけ?話してるよね、そっちも」
「えっ……」
ルビ振るの楽しい。