Scene 5 そして、未来へ
「ねえおかあさん、シアワセって、なあに?」
「え?」
「あ、ぼくしってる。シアワセはねえ、う~んとね、シアワセのことだよ」
「? それじゃなんにもかわらないじゃん」
「あ、そうか……」
「難しい質問ね」
「……おかあさんも、わからない?」
「う~ん、そうねえ……。みんなが笑顔でいられるってことかな?」
「じゃあ、おゆうぎのじかん?」
「あら、うふふっ」
「???」
「じゃあじゃあ、もしだれかがないちゃったら? そのコは、ひとりだけシアワセじゃないの?」
「ううん、それは違うわ。泣き止むのを待ってくれる、心の通じ合える人がそばにいる。そのことが、幸せなのよ」
「???」
「さっきとちがうよ?」
「ううん、違わないわ。だってさ、そういう人が側にいたら、泣いてる人も、すぐに笑顔を取り戻すことができるもん」
Scene 5 そして、未来へ
◇
去年の一一月の話。
「まさか、君も?」
「いえ、わたしは違います。すごく個人的なことなのですが、思うところがありまして」
「……話してくれないかな。君はウチにとって、これからの重要な戦力の一人だ。私も部長として、簡単に引き下がるつもりはない」
サラリーマン──ビジネスパーソンの一人として、わたしは、この部長の言葉が、心から嬉しかった。それが例えお世辞なのだとしても。
もし本気で慰留してくれているならば、ごまかすのは失礼極まりない。同業他社にヘッドハンティングされて行くわけじゃなし、正直にすべてを話すのがせめてもの礼儀であろう。
「実は──」
元々はイラストレーター志望だったこと。
趣味で続けていたら、ひょんな縁から自治体などのお堅い系の版モノの仕事をボランティア的にこなすようになったこと。
そして、そのために副業許可をとっていたこと。
そんなふうに趣味よりは一歩も二歩も踏み込んだ活動をしていたものの、ゆるーく仕事をしていたら、民間から、大口のイラストレーターの仕事が舞い込んだこと。
その影響か否か、ほかにも民間からの仕事の依頼が舞い込むようになってきたこと。
それらを受けると、もう二束のわらじを履き続けるのが事実上無理である──ということ。
そして、おそらくこれが、年齢的にも機会的にも、職業イラストレーターの道に本格的に進める最後のチャンスである──ということ。
わたしはそれらのことを、順序立てて整然と部長に告げた。
「そうか……。そういう理由なら、仕方ないか」
見事なプレゼンだったよ──と、苦笑しつつ彼は言った。
「その君の作品、今見れるもの、あるかな?」
わたしはいつもイラストレーターとしての活動用の『名刺』を持っていた。普段は会社には持ってきていないが、こういうこともあろうかと準備しておいた。
何種類かあるが、そのうち最近にわたしが描いた、私的なイラストがでっかく載っているものを、部長に渡した。
「へえ……、これ頼まれたの? 高田さんだよね? 特徴よくとらえてるなあ」
それは由乃ちゃんと樋渡さんが寄り添った、ウェディングのイラストだった。
これは──と、つぶやきつつ、部長がいつも以上に真剣な表情をしていた。
「……ちょっといいかな」
「はい?」
何かマズかっただろうか?
「……もし私が、営業や広報の方の関係の部署に異動することがあったら、仕事、頼まれてくれるかな?」
「え? …………。は、はい、…………っ、喜んで──」
わたしはこのとき、またも目に涙を溜めてしまっていた。
◆
「はあ~…………。やっぱいいなあ、この絵」
「ほんと、イイ雰囲気だよなあ」
入籍後、私たちの新居に一枚の絵が届けられた。
作者はもちろんいずみさん。
そして、そこに描かれているのは私たち。
ウェディングドレスとタキシードの絵とはまた違う、普段着で、幸せそうに、肩を寄せ合い、微笑んでいる私たち──。
「しっかし、イイ表情だよなあ、まったく。この絵がここにかけられている限り、僕たちはず~っと幸せでいられるって、そんな気がするよ」
「うん──」
確かに、この絵には、そんな力があるように思えた。
ありがとう、いずみさん──。
すごく忙しい時期だったはずなのに。
ホントに、ありがとうございます。
樋渡由乃は、きっと……、ずっと……、幸せに暮らして行きます。
だから──。
◆
「おーおー、なんかすごい誉め言葉の羅列だな」
「へへへ~、うらやましーだろう」
ある雑誌に載った記事で、わたしのイラスト──だけじゃなく、パッケ絵というかキービジュアルも含めて──をベタ褒めしてくれていたので、それをこれ見よがしに同居人である彼に見せて自慢した。
ここは3LDKの分譲マンション。
お互いに書庫となる部屋が欲しい、というのと、わたしが会社を辞めたことによって収入が安定して得られなくなるという不安解消のためという理由から、共同生活をすることに決めた。
彼とは、わたしが大学を出て以来、五年ぶりの同居生活である。
「へええ、『……先生の作品は、どんなときでも幸せな気分になれるような、そんな幸せの魔法をかけてくれる、魔法のアイテムのような気がします。』か。これはちょっと、いくらなんでも誉め過ぎだな」
「こらこらぁ、実の妹の作品をこれだけ誉めてくれてるんだからさ、もうちょっとスナオに喜んだら?」
「『誉め過ぎ』なんだよ。かえって信憑性がない。それに、あんまりこういうふうに言われると、作風が狭くなっちまうかもしれないだろう? それはいいことじゃねえよな?」
育てる気があるなら、そういうことにもう少し気を遣ってほしいけどなあ──などと、さりげに嬉しいことを言ってくれる。
……でもまあ、この業界、育てる気なんてないんだろう。
勝手に育つか、淘汰されるかなのだ。きっと。
「……じゃあさあ、ヨシィだったら、どういうふうに誉めてくれるの?」
「おいおい、俺は誉めなきゃいかんのか?」
「うん」
「それじゃ評価も何もないじゃねーか」
「いいじゃんたまには誉めてくれても~」
わたしが少しすねた口調で言うと、彼は少し考えた(らしい)あと、こう言った。
「よしっ、今日の晩飯、おごったる。それが俺からの誉め言葉」
「……じゃあステーキね」
「俺の懐も少しは考えろよな」
「おいおい、何年付き合ってると思ってるの。わたしの口に高級料理が合うと思う? ファミレスのでいいよ、ファミレスので」
「ファミレスのがいい、のまちがいじゃない?」
「あら、そんなこと言ってると、高級レストランにするぞ」
「イ・ヤ・ダ」
「もぉ~~、このクサレアニキがぁ~」
◇
──何を言っても崩れることのない関係。
それがたぶん、愛というものの、ひとつの側面なのだと思います。
関係を壊したくないために臆病になり、言いたいことも言えず、そして崩れて行ったのだとすれば、それはきっと、ほんの少し「勇気」が足りないために起こった悲劇なのです。
今、わたしはそう思います。
わたしのイラストが幸せな気分を人に与えることができるのだとしたら、それはきっと、わたしが今まで何年もの間内に秘めていた、秘めてしまっていたそんな「勇気」を、少しずつ、イラストに込めているからなのだと思います。
わたしが使えなかった「勇気」──。
幸せは、新たな「勇気」をきっと生み出してくれる。
わたしの描いたイラストたち──人物たち──を見て、誰かが幸せな感情を抱き、そして「勇気」を持って幸せを勝ち取ってくれるなら、そこから生じた「勇気」は、きっとわたしのところへ、いつか戻ってきてくれる。
そしてきっと、未来への階段を上るための力となる──。
わたしは今、やっとその未来への階段に続いている扉を開け、そして一歩を踏み出し、なおも歩き続けようとしている。
扉を開けるまで八年半かかったけれど、それは必ずしも、遅いとは思わない。
大切なことが何かを、知ることができたから。
私にはそれが、きっと必要だったから。
「わたしが『勇気』を発揮できなかったのは、もしかしたらこいつのせいかな?」
「…………は?」
わたしがぼそっと独り言をつぶやくと、彼は「?」を頭の上でくるくると回していた。
彼という何でも話せる「異性の同級生」がいたことが、きっと「悲劇」につながったに違いない。
その「悲劇」のおかげで今のわたしがあるのだけれど。
「勇気」を出さずに、何でも話せる相手──。
わたしたち二人は、学校など対外的には対立しているように見せかけるような時期もあったのだが、ウチではいつもべったりだったから。妹が早々に結婚してしまったのも、わたしたちが仲が良すぎたためなのかもって、思えないこともない。
「勇気」を出さずに、何でも話せる相手か──。
考えすぎよね。
でももし、わたしの考えが当たっているのなら、彼が幸せをつかみ損ねているのも同じ理由、ということになる。
「……なんだいずみ。さっきから、不気味なヤツだな」
「ちょっとね、一瞬哲学的にモノゴトを考えてみたくなってさ」
「哲学的。そう、愛について一言。愛は、誰よりも相手のことを一番に考えられるってコトだ、てな感じでどう?」
「へえ……、意味深なこと言うじゃん」
「お、話にノッてくるの? それなら更に言うと──自分をどれだけ捨てられるかって感じかな? 自分自身と自分のプライドを捨ててでも、相手の幸せのために動けるかっていう」
愛とは、与えるものだというけだし名言もあるし──と彼は言った。
「じゃあさ、わたしのためにそう動いてくれる?」
「……おいおい、お前なぁ」
「聞きたい聞きた~い」
「……まあ、二人とも幸せになる道を探すよ、そんときは。お前を見捨てられるとは思えんし」
でも、俺よりはお前の方がモテるよな? という言葉を、たぶん彼は飲み込んだ。
平和で穏やかな『家庭』に、充実した仕事。
わたしは今、たぶん幸せなのだ。
今度何かいいことがあったら、次はわたしがおごってやろう。
この愛すべき人に。
小説「ハイタッチ」、ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございました。
少しでも余暇の有意義な過ごし方に貢献できたならば幸いです。
「無駄な時間を過ごした!」という方、ホントすみません……(><)。
内情をバラしてしまいますと、本作は、元々は1998年に、長編小説の執筆後の勢いで、その長編作品中では書けなかったテーマについて、どうしても書きたくなって、一週間ほどの短期間で書いた作品です。短編(字数的に「中編」と言った方が良いのかもしれませんが)作品としてはこれが初めてでして、当時の自分が、ある恋愛感情にケリを付けたいという気持ちを込めた、思い出深い作品でもあります。
当時は私も若く、まだ学生だったのに社会人を主人公にし(笑)、恋愛だけでなく結婚も描くという、今思うと随分と背伸びをした作品だったな、と思います。
今回は、約20年後の私が、今ではエッジの効きすぎている表現や「今」には合わなすぎる設定を中心に、現在でも──というか、現代であればどの時代でもある程度通用するように、時代設定を曖昧にする方向で修正をした上で掲載をさせていただきました。
(例えば、元の原稿では「ハイミス」なんて言葉が入っていたり(苦笑)。比較的最近の造語である「アラサー」とかが使えなかったり)
ところで、私は、「恋愛」や「愛」というものは、時代や文化によって多少の差はあれども、基本的には普遍的なものだと思っています。
ネットやメール、スマホやラ○ンといったツールがあってもなくても、本質には影響しないと思っていまして(もちろん過程などには影響しますが)、前作「ふたつ、ください」(※実際は、「ふたつ、ください」の方がだいぶあとに執筆した作品です)とともに、あえて、そういうツールをなるべく使わない方向で意識して、修正の際も加えない方向で対応させていただいた次第です。
実は、一番修正で苦労したのは、いずみが「イラストレーター」をやっていた部分でした。今は、インターネット上にイラスト投稿を大きく扱う大きなサイトがいくつもあり、上手な人にはそこからオファーが入る、という時代になっています。
が、本作の執筆当時はそんなものはありませんでしたからね……何とか今でも当時でも通用しそうなエピソードを、と思ったのですが、上手く行っているかどうか、ちょっと自信が……(苦笑)。
ちなみに、貧乏学生だった執筆当時の私は、まだ高価だったパソコンは持っておらず、レポートの作成などのために所有していたワープロと感熱紙で書いていたことを思い出します。シャ○プの「ペン○院」、懐かしいです(笑)。
そんな前世紀の香りが残る作品ですが、「古くさいなぁ」と感じたのなら、それはそれで正しい感覚だと思いますし、特に何も違和感がなかったのなら、それはそれで狙いどおりというか、ありがたいことだと思っております。
このあとがきも含めて、お付き合いいただきました方々に、改めて深く御礼申し上げ、本作の締めとさせていたければと存じます。
ありがとうございました。
笹木道耶