Scene 4 手袋を脱いだ冬
──彼女が寝静まったあと、わたしたちは聞いた。
「おとなのひとでも、なくことってあるの?」
「そりゃああるわよ」
「おかあさんも?」
「う~ん、最近はないなあ。でも、若い頃はあったわよ。ハタチぐらいのときは、けっこう泣いたな」
「ごはんたべるとなきやむの?」
「あら、面白いこというわね」
「だってさっき……」
「ああ、そっか。なるほどね。う~んそうねえ……。ねえ、大人の人って泣かないと思ってた?」
「だって、みたことないもんぼく」
「わたしも」
「……そうねえ、大人の人はあんまり泣かないもんね。それに、泣くときも、だいたい一人で泣くものだと思うし」
「どうして?」
「だってさ、大人の人が泣くっていうのは、よっぽどのことがあった、ってことでしょう? 大人はなかなか、泣きたくても泣けないのよ」
「じゃあどうやったらなきやむの?」
「そうねえ……。大人の場合、一番信頼できる人に、優しくしてもらうってことかなあ。それで、自分が泣いている原因について、自分の方からぜんぶしゃべっちゃうの」
「……ぼく、よくわかんない」
「わたしも……」
「うふふっ、二人には、まだ、難しかったかな?」
「おかあさんなら、だれにしゃべっちゃうの?」
「わたし? わたしはやっぱり、お父さんかなあ」
「ねえねえ、ぼくは?」
「あらあら、うふふっ」
「わたしはぁ?」
「…………二人にも、いつか、そんな人が現れるといいわね」
Scene 4 手袋を脱いだ冬
◇
いつもと変わらない日常が、痛いと思うときもある。
本来は最もリラックスできるはずのものなのに……。
そんなとき「何かを変えたい」と思うことが、自然なんだと思う。
でもそのためには、程度の差はあれ必ず「勇気」がいるのだ。
日常の生活を覆すような「勇気」が──。
◆
「ねえ、何がいいと思います?」
「…………だからあ、わたしに言われてもわからないって言ってるじゃん」
由乃ちゃんがわたしに尋ねているのは、約三週間後に迫ったクリスマスイヴに向けて、カレ──樋渡壮さん──へのプレゼントは何にしたらいいか──ということだった。去年はブランドモノのネクタイをプレゼントしたのだそうだが、樋渡さんは出版社に勤めているため必ずしもネクタイを着用しなければならないわけではないらしく、由乃ちゃんとしてはあまり満足の行く結果にはならなかったらしい。
「でも、お兄さんとかに聞いてくれるぐらい、してくれてもいいじゃないですか。年もほとんど変わらないんだし」
「あいつはゼンゼン参考にならない。チラシに載ってるレディースの靴とかコートとかの売出しを見て『あ~っ! どうしてこういうのがメンズじゃないんだあああっ』って文句を言うようなヤツだから。あいつに男性的なファッションとかセンスを期待するのは無理がありすぎるよ」
「でもぉ~……」
一二cmも身長が高いため、そしてわたしがヒールのほとんどないパンプスを履いているのと対照的に、彼女はハイヒールを履いているため、わたしが彼女の顔を見るためには、見上げならなければならない。そうして見上げたわたしの目に映る彼女の頬を膨らませた愛らしい顔に、わたしは嬉しさを感じていた。
彼女には幸せになって欲しい。
わたしの分まで──。
なぜ改まってそんなふうに思ったのか。
答えは目の前にあった。
「アニキに聞いてもどうにもならないと思うけど、あいつなら答えてくれるんじゃない?」
わたしはそう言うと、ほんの五、六メートル先の人込みの中にいる、長身の男性に声をかけに行った。
そう、ついに、ついに来るべきときが、来たのだった。
▼
一二月ともなると、暗くなるのが驚くほど早い。
今日は定時に上がれる日なのでまだ五時過ぎという時間なのだが、もう辺りはすっかり暗くなっていた。
そんな中、カレへのプレゼントをめぐるいずみさんとのトークは、ある瞬間に途切れることとなった。
彼女がハイタッチの彼、鍵山正隆の姿を見つけたから。
いずみさんは最近メガネをかけることが多くなっていた。
──こっちの方がそれっぽくていいでしょ、と彼女は言う。それっぽいとは何を指すのかが明確でないが、小柄で、しかもかわいらしく童顔な彼女が、あえてそうしているのには、それなりに理由がありそうだった。
ただ、元々コンタクトを常用していた彼女は、メガネに関しては何年も作り直していなかったらしく、今のメガネではせいぜい両目で〇・七ぎりぎりぐらいしかないらしい。そんな彼女が、結構近くにいたとはいえ、両目とも一・二の、しかも長身である私でさえよく見ないと気づかないぐらいだった彼を、人込みの中から見つけ出し、声をかけたのだった。
「鍵山クン」
彼女がそう呼びかけると、彼は「なんだ?」というような、少し戸惑ったような表情で振り返った。
彼女が彼に声をかけるのを見たのは一度や二度ではないのだが、「鍵山クン」と彼のことを呼んだのは、初めて聞いたような気がした。
「なんだ、いずみじゃないか」
彼はそう言うと、いつものように、右手を開いたまま右肩の前辺りにかざした。しかし、いずみさんはいつものようにハイタッチはせず、その代わりこう言った。
「今日はちょっとお願いしたいことがあるのよ」
彼女はそう言うと、私に近づくよう手招きした。
私が彼の前まで行くと、私たち三人は歩道の隅の、ほかの通行人の人たちの邪魔にならないところまで移動して、話をする準備を整えた。
「あっ、キミは確か──」
「高田です」
秋に彼と、偶然ばったり出会ったことについていずみさんには話していなかったので、彼の口から私の名前が出る前に、自分から再度名乗った。そして時を置かずに、いずみさんの厚意に甘えることを伝えることにした。
私がカレへのクリスマスプレゼントについて悩んでいるのだと言うと、突然だったにもかかわらず、彼は親身になって応えてくれた。その態度からは、意外に話好きで話し上手で、なるほどいずみさんが、例え過去の事であっても、それがどんな性格のものであっても、「好きだ」というプラスの感情を抱いたことが、十分に理解できたような気がした。
彼からのアドバイスを聞き終え、私は彼に頭を下げた。それをしおに、彼の会話の相手が、いずみさんに移った。
「そう言えばいずみ、お前からの返事がまだ来てなかったような気がするんだけど」
彼はさらりとそう言った。
その言葉を聞いたとき、私はどきりとした。
なぜだか、その言葉がいずみさんにとって残酷なもののように、私の肌には感じられたから──。
「そうだったね……」
彼女はそういうと、顔を伏せてしまった。
ヒールも合わせた見かけ上の身長では一人でダントツに低い彼女がうつむいてしまうと、私たちにはもう、その表情を窺うことはできなくなってしまう。
「ま、ヨシィは高校時代から言いつづけてる宣言どおり『欠席する』って、言ってきてるんだけどな」
ヨシィというのは、確かいずみさんのお兄さんのことだ。
「わたしも……」
うつむいたままそう言ったあと、いずみさんはキッと顔を上げて、そして言った。
「わたしも、行かない。だから、今言っとく。
……おめでとう。そして、お幸せに──」
口調こそいつもよりおとなしいものだったが、彼女の表情はいつもの笑顔に見えた。
「お幸せに」と口にした後、少し心持ち左に頭を傾けたその仕草が、とても儚げで、そしてとても女性らしく見えた。
彼女は再び一呼吸分の短い時間うつむいたあと、右手の手袋を脱いだ。そしてその右手のひらを開いたまま、右手を斜め上にかざした。それにつられ、彼の方もまた、右手を肩の前に広げた。
「鍵山クン……」
彼女の目は、確実に彼の顔を捕らえていた。
私には、この光景はつらかった。
直感的にだけれどそう見えた。そう思った。
でもつらいけど、最後まで見届けなければならないのよ──と、私の心は私の理性に命じていた。
「これが、これが最後のハイタッチだっ!」
パシッ──。
乾いた音が、都会の喧騒の中ではっきりと響き渡った。
その残響音が私の心から消えるまでの時間が、長くも短くも感じられた。
「最後って……いずみ──」
彼がそう言うより早く、彼女は足早に歩き出していた。
背中を向けながら、頭の右上で手を振っている。
私も彼にお辞儀しつつ、それに続く。
しばらく歩いたところで彼女は一度立ち止まり、そして振り返って、いまだ歩道上で一人たたずんでいた彼に向かって──。
▼
「じゃあねぇ~、ばいば~い。
……さよなら~」
さよなら──。
『じゃあね~、ばいば~い……』
あの八年前の六月、わたしは彼にそう言った。
明るく、いつもの調子で。
いえ、いつもよりも明るく、そしてきっと、笑顔で──。
あのときにした、しょうもないわたしからの一方的な約束を、彼は八年半もの間、守ってくれた。
彼があのハイタッチの度にどういう気持ちでいたのか、わたしにはわからない。だってわたしには、自分の気持ちでさえ、全然わからなかったのだから。
今日までは──。
きっと、うすうすはわかっていた。ただわたし自身が、わたしの理性が、それを認めるのを拒んでいただけだ。
彼が幸せになるのなら。
彼の幸せにとってわたしの存在が不要なら。
まったく役に立たないのなら。
足手まといになるのなら──。
わたしは自然体で生きてきたつもりだった。
心からそう思っていたつもりだった。
彼が幸せになりさえすればいいと、そう思っていたつもりだった。
でも違った──。
本当に心からそう思っていたのなら、結婚式に出席して、お祝いしてやればいい。
なのにわたしは、ずっと、出席とも欠席とも返事を出さずにいた──。
さよなら──。
八年半前には、言えなかった言葉。
どうしても口から出なかった、出せなかった、言葉──。
さよなら──。
この、自分の発した言葉に追い立てられように、わたしは歩き出していた。
頭の中には、「さよなら」ばかりがこだましていた。
さよなら、マサ──。
そして、お幸せに。鍵山クン。
▼
小柄で小回りが利き、なおかつヒールの低い靴で颯爽と人込みの中を突き進んでいくいずみさんに私が追いつくのは、正直言って至難のワザだった。ようやく追いついたときには、もう駅のホームに二人して立っていた。
「ちょっと、いずみさん!」
「え?」
あ、…………。
いずみさんの目には涙が浮かんでいた。しかし、その涙は流れることはなく、溜まったままになっていた。
「ごめんね、由乃ちゃん。ちょっと今日は、一人にしといて……」
彼女は精一杯の笑顔をつくり、溜まった涙をスーツの袖で雑に拭った。
そして、ちょうどやってきた電車に飛び乗ると、私をホームに残し、電車に揺られて、私の目の前から姿を消した。
そのすぐ後、私が帰宅するために乗らなければならない逆方向の電車が到着した。
でも、私はその電車には乗れなかった。
私は次の電車を待つため、依然ホームに立っていた。
そう、いずみさんを運んでいった電車の、次の電車を待つために──。
◇
刺激のない日常なんてつまんない──。
よく聞かれるこんな言葉は、わたしには考えられないことだった。
淡々と、いつも変わらぬ日常の存在が、わたしの心のよりどころだったから。
「何もないこと」が、わたしにとっては何よりも嬉しいことだったから──。
◆
彼女は帰宅しているようだった。
彼女の部屋から電気の光が漏れている。
もし一人で泣いているのだとしたら、電気なんて点けないだろう。
だから私は、この分なら大丈夫なのかな、と理性では思った。
しかし私の心は、「行け」と命令していた。
インターホンを押した。
返事がない。
私は直感的に、良からぬ事を考えていた。ドアをたたいてみても返事はない。
まさか、まさか──。
ノブに手をかけてみると、意外にも簡単にそれは回った。チェーンもかかってない。彼女には珍しい──というよりも、めったにないことだった。
そして乱暴にドアを開けると室内には──……室内には、氷の入ったグラスを前に、一人でウイスキーを飲んでいる彼女の姿があった。
彼女は乱暴に踊りこんできた私に対して笑顔を向け、そしてこう言った。
「あなたなら、来てくれると思ってた──」
▼
「えらそうなこと言っといて、バカだよね、わたし……。結局、わたしが一番、子どもだった」
自然体でいる──それどころか、自然体でいると思い込んでいる自分を演じ続けて、それで一人で安心しようとしていた、というただそれだけのことだったのだ。
ただ一言、「さよなら」を言うまでに八年半もかかるなんて、もはや笑うを通り越してしまっている。それも、最後のチャンス──崖っぷちまで追い込まれて、やっとこさ初めて言うことができたなんて。
「バカだな、わたし。ほんと、バカ──」
ウイスキーの入ったグラスを、一気にあおった。
そんなわたしの左の頬を、冷え切った女性の、本来は柔らかくしなやかであろう右手が打った。グラスがわたしの口から離れ、わたしはその衝撃に激しく咳き込んでしまった。
「あっ、ご、ごめんなさい──」
わたしは彼女の顔を睨みつけたつもりだった。しかし、眉と目がどんどん下がり、涙が次々とあふれてくるのを、もはや止めることができなくなっていた。
もう、わたしは──。
「……泣けばいいじゃないですか! 我慢することなんてないですよ、泣けばいいんです。泣けばいいんですよ! だって……、だって八年も、八年半も、ずっと、ずっと想い続けていたんでしょう!? だったら泣けばいいんです。思いっきり。
私の涙を見といて、いずみさんが泣かないなんてずるいです、ずるいですよ。
お酒に逃げようなんて、私絶対許さない。
私の前では泣けませんか? ねえいずみさん。私の前では泣けませんか?」
う、うえっ、うっ、ぐすっ、うっ、うっ、えっ……。
▼
「わ~~~~~っ…………。
ぐす、うえっ、うっ……、あ~~~~っ…………………」
「……………………」
私は、小さな小さな彼女の体を、包み込むように抱きしめていた。
一年ちょっと前私が失恋したとき、彼女は初め、突き放すような態度をとってくれた。
でも私はそうはしない。
だって、私はまだ子どもだったけれど、いずみさん、あなたは──。
あなたは大人──なんだから。
▼
意識を取り戻したとき──という言い方は大げさかな。
目覚めたとき、わたしの体は、ベッドの上で小さく丸まって横たわっていた。
時計を見やると、「AM04:11」のブルーの文字が、暗闇で自己主張している。
「由乃ちゃん?」
彼女の姿を探そうとしたが、たかだかワンルームである。
隠れられる場所などどこにもない。
どうやら彼女は帰ってしまったようだった。
ただ、机の上に、三つにきちんと折りたたまれたA4のコピー用紙が、ひっそりと置かれていた。
『いずみさんへ byたかだ ゆの』
そう記してあるそのコピー用紙は、たくさんの文字で埋められていた。
わたしはそれを見て、クスッと小さく笑い、そしてまた、涙を浮かべてしまった。
(なんかわたし、最近おごられてばっかし……)
《杉村いずみの(失礼!)「12月15日」のすけじゅーる♪》
その一 朝起きたら、とりあえずカガミを見ること。おそらくそこに
ははれぼったい目をした、元々はかわいいのにそれが台無しに
なっている女のコのカオがうつっていると思うので、真っ先に
顔を洗うこと。
その二 朝ご飯をちゃんと作って、ちゃ~んと食べること。材料は十
分あると思うので、決して外には買いに行かないこと。
その三 カオのはれは、たぶんなかなか引かないと思うので、今日は
欠勤すること。私が課長さんに届けちゃいますので、私の顔に
泥を塗るようなことはしないでください。
その四 一息ついたら、自分が描いたイラストたちを、マジマジと見
つめてください。そして、いつものいずみさんのカオを思い出
してみてください。
その五 お昼になったら、昼食もちゃんととってください。ゼッタイ
にお酒は飲まないこと。
その六 午後は自由時間です。でも外出はいけません。マンガでも久
しぶりに読み倒してみたらいかがですか?
その七 夕方、6時になるか7時になるかわからないけど、必ず私が
おジャマしますから、それまで夕食はとらないでいてください。
これはお願いです。だって私、2人分の食料を持って、おジャ
マしますから。(私のおごりで~す♪)
P・S おへやのカギは、私が持っています。そのへん、よろしくね♪
文責:高田由乃
◇
よく考えてみたら、こんなにも誰か一人のことを好きなれたなんて、胸を張っていいことなのかな、って……。
都合のいい考え方なのかもしれないけれど、それがわたしという人間の正直な、自然に存在していた想い──だったのだから。
ははっ、その恋を乗り越えるのに八年半もかかったのは、全部あいつがたらたらやってたせいなのだ。
まったく、早く結婚してりゃあ、もう、ひどいんだからぁ……。
…………。
……もう、無理する必要なんて、ないんだよね──。
◆
「お、杉村さんじゃないか」
わたしに声をかけてきたのは、高校の時の同級生だった。
フォーマルのスーツをしっかりと着こなしているその姿は、わたし自身の年齢をも感じさせて、ちょっとばかりブルーになってしまった。
「杉村さんも、式に呼ばれてる──のか?」
彼の言葉に疑問符がついたのは、わたしが呼ばれること自体が意外なのではなく、わたしが思いっきりカジュアルな服装をしていることによって「まさかこのカッコウで結婚式には出れねえだろう」という推測が容易に成り立つからだろう。
ここからドレスに着替える人もいるんだけど。
「うん。呼ばれてはいたんだけどね、ちょっとプライベートで用事あってさ」
「そうだよなあ、師走だもんなあ」
そんなやり取りをしていても、わたしは心からの笑顔でいられる──。
やっと、『ばそてい』の老店主が言った意味が、わかりかけてきたような気がする。
「で、ちなみにその用事って、何?」
男子の同級生にこのテの話題を簡単に持ち出されるような自身のキャラクターは、誇りに思っていい。
明るく元気、それがわたし、杉村いずみ──なのだ。
「へへへ~。とりあえず、今のわたしには一番愛すべき男性と、会う約束をしていましてね~。たまたま通り道にあるからと思って、ちょこっと寄ってみたってワケなのだ」
「え~、いいなあ……。俺なんかさすがにそろそろヤバいかも、って感じ。ってまあ、男の場合は三〇過ぎて結婚してない人もずいぶん多いけどな」
「悪かったわね女で。でもわたしも似たようなモンよ」
「は? ……ああなんだ、そういうことか」
「そう。今の流れだと、こっちの方が深刻ってことになるんだけど」
「まあ、そうなるなー。じゃあ、杉村さんは、大丈夫なのか?」
「大きなお世話だよ~。じゃあね。また、同窓会かなんかで」
「おう、またな」
昔の知り合いに会う、というのもたまにはいいモンだ。
でもまだ、このタイミングで式に出てやれるほどには、勇気も自信もなかったんだ。
情けないことに。
式場となるホテルの前を離れ、待ち合わせ場所に到着したのは、約束の時間の一五分も前だったが、一分もしないうちに待ち人は現れた。
相変わらず、時間にはうるさいヤツだ。
「よっ、待ったか?」
「ぜ~んぜん。おかげで誰にもナンパされなかったじゃんか」
「それじゃあ、あと十分待っててやるよ」
「ああっ、ストップストップ」
「それじゃ、行くか?」
「うん」
「……おいおい」
「へへっ、嬉しいでしょ」
わたしは彼の腕に自分の手を絡ませた。こういうのを嫌がらないのが、こいつの優しいところだ。
「ねえねえなんかさあ、連名にしたけど、夫婦みたいに見えちゃうかなあ」
これは、鍵山クンへの祝電の話。
「心配か? 見る人が見れば一発だろうが」
「そりゃあそうだけど」
「俺は別に、別々でもよかったんだけどな」
「ぶう~。女心がわかってな~い」
「お前なんかに言われたくねーよ」
「……で、考えてくれた? アノコト」
「ああ、ま、前向きに検討中ってとこだな。って、選択肢あるの? 俺に」
「まあねえ。ヨシィにも、いいひとが現れるかもしれないしねえ」
「てめ~ケンカ売ってんのか」
「ありゃ。この分だと、当分大丈夫そうね」
「……このクサレ妹め」
「なにおう、このクサレアニキ」
ちなみに、彼は実らない片想いを、長きにわたってしてたことがある。ひょっとすると、今でも継続中かも知れない。
その相手は高校の同級生。彼女、『榊未来』は、それなりに枚数を売り上げる、大きなCDショップならインデックスもある(ところにはある)ほどのシンガーソングライターである。
一般的にはほとんど知られていないが、東京・横浜エリアでは、FM放送で看板番組を持っているせいもあって、それなりに知られている。
彼女は独身のはずだし、チャンスはないわけでもないんだろうけど──まあさすがに無理か。
今や結構な大物だし。
高校時代は、何気に『孤高の美少女』──ということで密かに有名人だった。
女子ともあまり話しているところを見たことがないし、まったく派手じゃなくて、むしろ服装や髪型、立ち居振る舞いはとても地味な方。わたしもしゃべったことはあんまりない。
ただ、高校三年のときの文化祭ステージに、たった一人でエントリーして、少ない観客の前でギターの弾き語りをしたことがあった。その観客の中にわたしも彼もいたのだが──その頃の彼女と今の彼女を容易に繋げることができるほど、モノが違う──と思った、そんなライブだったことを、今でも強く覚えている。
次の番の人たちが何をやったか覚えてないが、彼女より後の出番だった人たちは気の毒だな──と思ったことは覚えているような、そんな強烈なライブだった。
そんな彼女のことを「めっちゃかわいいっ!」と一年生のときから何度も言っていた彼は、確かな眼力を持ってはいるんだろうけれど──まあ、身内だし、別にいいか。
▼
「あ、あのさあ…………そ、その、なんだ。こ、これが、その……クリスマス、プレゼン、ト、で……で、その…………と、とりあえず、あけてみて」
異常に胸がドキドキして止まらない。
カレの差し出した「プレゼント」とは、どう見ても指輪のケースなのだ。
しかも二束三文のクズ品とは明らかに違う、異様な威圧感を漂わせている。
しかもカレのこの動揺。
……もう少し普通にしてくれた方が良かったんだけど──まあ、壮クンだし。
人間とは不思議なもので、二人でいる場合どちらか一方が慌てていたりすると、もう一方は変に冷静になれてしまうものだ。私は、カレが動揺してくれているおかげで、ドキドキしながらも冷静に、そのケースと同時に、そのケースを差し出した彼の手をも捕らえることができた。
「あなたに、してほしい。私の、愛する人に」
クリスマスイヴのフレンチレストランは、こうしたセリフが臆面もなく言えるような場所ではあった。その私の言葉に冷静さを取り戻したカレは、私に渡そうとしたケースから指輪を取り出し、私の左手を取って、そして、こう言った。
「結婚してください。今僕と婚約すると、もれなく、その、ジューンブライドってやつが、ついてきますよ」
記号の意味は、概ね下記のとおりです。
△ = 過去回想へ
▽ = 現在へ戻る
▼ = 視点移動(いずみ→由乃/由乃→いずみ)
◆は現在、◇はモノローグに近いもの、という形で作っています。
※次話は最終話。Scene 5は、エピローグ的な話数になります。明日更新予定です。




