Scene 3-2 季節は、秋
Scene 3-2 季節は、秋
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「おう悪いなぁ姉ちゃん、もう閉店なんじゃが……」
わたしはなぜか、それまでに二回ほど来たことがあるこの看板のないお蕎麦屋さん『ばそてい』に来ていた。
どうしてなのかはわからない。
ただなぜか、気がついたらここへ来ていたという、ただ、それだけのことだった。
「姉ちゃん……」
老店主はそうつぶやくと、奥へと引っ込んでいった。わたしは、『ばそてい』の客室スペースにぽつんと一人取り残され、うつむいたままじっと涙をこらえていた。
彼がいなくなってから何分経ったのかわからなかったが、わたしは不意に背中を押され、初めてそこで彼が戻ってきたことを知った。
「姉ちゃんよう、顔色が悪いぜい。そういうときは、鴨南でも食って、元気にならにゃあいかん」
そんなことを言われても、やっぱり食欲などあるはずがない。
わたしはしばらく、席に座ってじっとしていたと思う。
「おい、せっかく作ったモンがのびちまう。くよくよするのもいいが、とりあえず、ま、食べることから始めろや」
わたしは、涙でぼやけて見えるカウンターの上に置かれていた鴨南蛮を、ゆっくりした手つきではあるが、一口一口、口に運んでいった。
正直言って、味はよくわからなかった。
でも、身体はあったまっていった。
食べている間、目から涙があふれ出てきて、何度も何度も袖でそれを拭いながら、ただひたすら、鴨南蛮を口に運んでいった。
そして、そんな時、彼はこう言ったのだった。
「人間、自然でいるのが一番じゃ。無理することは何もない。無理して誰かと一緒になったって、長い目で見れば幸せになんてな、なれはしないもんじゃ。
でも、自分が自然体で、思うように生きてきたんじゃという自信と誇りがあれば、例えどんな嫌なできごとがあっても、強く生きていくことができる。
人間とは、そうした生き物なんじゃ。
わしも、妻に息子を産んですぐ死なれたときには、ショックで寝込んじまいそうになったもんじゃった。何とかなったのは、それでも頑張って働かないと、食っていけんからじゃった。
でもわしは、それからしばらくしてこう思った。わしがこんなことで落ち込んでいたら、息子のためにならん、妻もあの世で悲しむだろうってな。
でも、わしにも限界はある。
わしは息子の父親ではあるが母親ではない。
だからわしは、自然体で父親として息子に接してきた。自分自身背伸びも卑下もしない。限界があるならそれを示し、ときには詫び、ときには叱った。そのおかげで、息子は気持ちのいい若者に──といっても、姉ちゃんから見ればりっぱなおじさんだが──に育ってくれた。わしのために自分の店を改造して、この『ばそてい』を土地は違えど復活させてくれるぐらいにな。
わしは自分を幸せ者だと思っとる。
姉ちゃんも、何があったか知らんが、自然体で生きればいい。
泣きたいときには思いっきり泣けばいい。
ただ、女と言えど、むやみやたらに涙を人に見せるもんじゃない。
涙を人に見せるということは、そこに他人を巻き込み、自分に酔うということにつながりかねんのじゃから。
本気で自分に酔ってしまったら負けじゃ。自分を笑えるぐらいでなけりゃ。
相手の顔を思い浮かべてみて、最初は泣き笑いでもいい。笑顔になれるまで、そいつのことを考えてみろ。
自分一人で、自分の力で解決せにゃぁ、自然な自分自身にすらなれんぞい」
いつもは口数の少ない、パっと見気難しそうに見える老店主にそう言われ、わたしは涙を必死に飲み込んだ。そして鴨南蛮代五五〇円をカウンターの上に置こうとした。
ところが。
「お代はいらないよ。今は営業時間じゃねえんだから。その代わり、また気が向いたら、いつでも営業時間内にウチに来てな。
ほんじゃ、しっかりするんだぞ、姉ちゃん」
その言葉に、わたしはまた泣きそうになってしまったが、必死に笑顔を作って、『ばそてい』を後にした。六月頭のできごとだった。
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「八年前、覚えてる? あのときもわたし、サービスしてもらっちゃったよね」
今考えると、わたしが泣いていた原因が失恋だなんて一言も言ってなかったと思うんだけれど、そんなに分かりやすかっただろうかと、少し顔が赤くなる。
「……人間、自然体でいさえすれば、笑顔になれるもんじゃ。イーちゃんの場合、そっちの方もあともう一息ってとこじゃなあ」
そう言って、彼は厨房へと消えていった。
かなわないな──。
わたしは、はあっ、とため息をついた。
彼の言った、「もう一息」という言葉が、わたしには、痛かった。
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「そう言えばさっきさあ……」
「なに?」
壮クンはいつもの、のんびりした口調で育ちのよさそうな笑顔を私の方に向けた。先程の姿とのギャップに、思わず笑いそうになってしまう。
「な、なんだよ」
カレはそんな私を、戸惑いを帯びた目で見つめてくれる。
「うふふっ……。指輪のことなんだけどぉ~……ちょっとくらいは関心あるの?」
私がそう言うと、カレはいつもはあまり照れたような仕草は見せてくれないのに、どういう表情したらいいかわからない、というような複雑な表情を見せてしまうほど照れていた。
「今年のクリスマス、楽しみにしてて……」
カレは穏やかに、しかし自然な笑顔で毅然と、そう言ってくれた。
……クリスマスかあ。
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『ばそてい』を出てから少し街をぶらついたため、ウチに到着する頃にはすっかり辺りは暗くなっていた。
郵便受けを開けてみると、そこにはダイレクトメールの類のほかに、一通の封書が入っていた。
今時、個人宛てで企業が発信者でない封書と言うのは、極めて限られたジャンルに限定できる。
わたしは、その差出人の名前を見て、ついに来るべきときが来たのかな──と思った。
差出人のところには、二行に渡って文字が書かれていた。そのうちの一つ、上の行に書かれていた四文字。
『鍵山正隆』
思えば、半年ぐらい前のある春の日に、分かっていたはずだった。
『指輪なんてできねえよ』
彼はいつもそう言っていた。
その彼が、左手の薬指に指輪をしているのを見た、あのときから──。
「……決めた」
わたしはそう口に出して言うと、自分の部屋へと向かった。
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先週の土曜日のデートでカレからの意味深な言葉をもらった私は、かなりの浮かれ気分で出社した。
一番早くこの話をしたい相手は、もちろんいずみさんだ。
いずみさんは私よりも一五分遅れて出社してきた。
といっても、彼女が遅れて来たわけでは決してない。浮かれ気分の私が早く来ていただけなのだ。
「おはよう。あれえ、な~んか楽しそうなカオしてるなあ、由乃ちゃん」
第一声からこんな風に言われるぐらい、私は浮かれモードならしい。
「えへへへ~、ちょっとイイコトがあったんですよ~」
「なあに、土曜日のデートで?」
「うん。え~とね……」
「あははっ、これからお仕事よん。詳しい話はお昼休みにね」
「は~い」
心なしか、いずみさんも晴れ晴れとした表情をしていた。
彼女にも先週末、何かいいことがあったんだろうか?
ちょっと追及してみたい気分になった。
順調に時間が経ち、今日の昼食はゆっくり話せるところで、ということで、近所のコンビニでお弁当を買い込んで、社員食堂で(!)とることにした。これ見よがしの社員食堂批判であったが、空席がちのこの状況では誰からも文句は出ない──はず。
「……で、どんないいことがあったの?」
早速のいずみさんの問いに、私は少しはぐらかしながら、カレの言ったクリスマスの話と指輪の話をした。
しかし、話し終えてから思い出した。指輪の話が出た元はと言えば、あの鍵山正隆カップルだったのだ。
もしいずみさんが彼のことをまだ好きなのだったとしたら──。
「へえ、そう……それはよかったね! いよいよ──かな?」
そういうふうに返されると、さすがに照れないではいられないくて。
「……実はわたしもね、先週末、いいことが二つもあったんだ。って、一つは大きな声では言えないんだけどね」
彼女は自分の描いたイラストが評価され、大口の仕事が舞い込んだのだと私に告げた。
その笑顔は満面の笑み、という感じではなかったけれど、心の底から出てくる自然な笑みだった。
「……会社、辞めちゃうんですか?」
「……それはさすがに、そうなるかな」
小声でのやり取り。
でも、もしその話が実現したならば、いずみさんの夢が叶うことになるのだ。
寂しいけれど、応援しないという選択肢は私にはない。
自分だって、その頃には──。
「で、長くなったけど、二つ目がね。あ、ほら、由乃ちゃんも知ってるでしょう? あのハイタッチの……」
鍵山のことだ!
私は心の中でつい先程思ったことを、再び高速で繰り返していた。
彼女に真実を伝えるべきか。
あるいはどうやったら彼女に真実を話してもらえるかについて考えながら。
ところが。
「彼がね、一二月二〇日に、結婚するんだって。土曜日に、結婚式の招待状が届いたんだ」
「…………」
私は表情をできるだけ平静に保つのに意識を向けるのが精一杯だった。
その原因は、いずみさんの表情。
イラストのことを話したときと、少しも変わらない心からの笑顔。
その笑顔からは、私の今までの思いは完全に間違っていたのだ、という事実を突きつけられたような気さえしたほどだった。
「ちょっと、何そんなに驚いてるのよ?」
「い、いやちょっと……」
私はそう言うと、何とか体勢を立て直そうと努力した。
その甲斐あってか、椅子の上に乗っているお尻の位置を変えるためにちょっと体を動かしたりしているだけで、ある程度動揺を抑えることができた。
「あの……彼といずみさんって、ホントはどういう関係だったんですか?」
私のこの質問に、彼女は少し戸惑ったようだった。
「どういうって……だから、元カレって言ってるじゃん」
「じゃあ今は、ただの他人ってことですよねえ」
「…………」
私の言葉に彼女は少しばかり物憂げな表情を一瞬だが見せたあと、しかしきっぱりとこう言った。
「実はね、彼と別れるとき、わたしたち、『親友になろう』って決めたの。でも、男と女だし──ってそう言う意味じゃないよ。ただ、二人の性別が違うからっていうだけの意味。
……でね、それだとさあ、親友でいることも、なかなか周りから見れば変に映っちゃったりするでしょ? 頻繁に電話したり、二人で飲みに行ったり、映画見たり、買い物に行ったりしてたらさあ。
だから、わたしたちの関係は『親友』ってことにして、街とか駅とかで偶然出会ったら、絶対にお互いが誰と一緒にいようと、『ハイタッチ』をしようよ、って約束したの。そしたらたまたま会社がすぐ近くになっちゃって。
まあ確かに? 由乃ちゃんだけじゃなくて、第三者から見れば『不思議な関係』に映ってもまあ、仕方のない関係だったのはそうかなぁ、って、わたしも思う。でもまあ、そんなワケなんよ」
そう話すいつもと同じいずみさんの笑顔に、私の頭は、もう混乱仕切りだった。
ただそんな中にあって、この質問だけは、きちんとすることができたのだった。
「どうして彼とは、別れちゃったんですか?」
この質問をした途端、彼女の表情は変わった。
しかし、その顔は依然笑顔だった。
「いやあ、恋愛って難しいなあって、思っちゃった若かりし頃よ。彼とは……兄妹とか、何年も連れ添ったあとの夫婦のような関係だったら、きっと今も続いてたと思う。でも、本当の意味での恋人には、きっとなれなかったんだと思う。
兄妹とか夫婦とか以上に、恋人でいることは難しいから……。
ははっ、兄妹はさ、どんなにケンカしたって何したって兄妹は兄妹だし、夫婦だってさ、世間体とかあってなかなか離婚するのって、エネルギーの要ることらしいじゃん」
特に熟年夫婦となるとね──と軽い調子で話を続ける彼女の目は、確かな力を持っていた。
その目からは、後悔とか悔しさとかいう感情は感じられなかった。
私が彼女に抱いていた想像が、邪推であったことを知った。
でも──。
記号の意味は、概ね下記のとおりです。
△ = 過去回想へ
▽ = 現在へ戻る
▼ = 視点移動(いずみ→由乃/由乃→いずみ)
◆は現在、◇はモノローグに近いもの、という形で作っています。
※概ね週末くらい(金夜・土日)に続きを掲載したいと思います。Scene 5まで。あと残り少しです。