Scene 2-2 夏の終わり
Scene 2-2 夏の終わり
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じゅうじゅうじゅう──。
何の音だろう──。
あ……、なんか……、いいニオイ……。
ここは?
ああ、なんだか気持ちいい……。
なんかイイなあ……。
もう少し寝かせて。いいでしょ?
あ、そうか……。
私、寝てるんだ、今……。
じゃあここは、壮クンのウチ?
でもこのニオイ、やっぱイイなあ……。
壮クン、朝ご飯、作ってくれたこと、ないからね……。
………………。
…………朝ご飯って?
「すうぅぅぅ、…………おっはよう!!!」
「ひええええっ!?」
「あははっ、起きた起きた。朝ご飯できたよん」
そうだった。昨夜は飲み会の後いずみさんのウチで飲んでて、そのまま泊まったんだった。
「あまりにシアワセそうに寝てたからムカついて起こしちゃった。あっ、怒ったぁ?」
三歳も年上の人にこんなことをいうのは失礼なのかもしれないが、いずみさんのかわいらしさを再確認してしまった。
お嫁さんにするんなら、こういうタイプのちょっと楽しい性格で、それでいて貞操観念の強い、このいずみさんのような女性の方がいいに違いない。
……私も、努力しないと壮クンに嫌われちゃうかも。
「ごめんなさい、一人で寝てて。あ、そうだ、おはようございます」
「うん、おはよ。どう? 樋渡さんちのベッドじゃなかったけど、良く眠れたかな?」
「あ、それヒドイ言い方ぁ~」
「何を言う、この不良娘がぁ」
いずみさんの毒のあるトークは、彼女が機嫌がいい証拠であった。
彼女と先輩後輩、そして友人になって四年目、もうすぐ三年半にもなる。これだけ付き合ってると、その性格についてはだいたいのところ見えてくるものだ。いずみさんのこうした毒のあるトークは、それだけ彼女が私のことを気にかけ、そして応援してくれている、ということを示している。
「……なんか、そういう言い方されると、お母さんかなんかに怒られてるような感じ」
「あ、それはヒド~イ。わたしは今年二四にもなる娘を持つ親の気持ちにはまだなりたくないぞ」
「じゃあお姉ちゃん」
「妹は一人でじゅうぶんよ」
そう。いずみさんには妹さんがいる。
年は私よりひとつ上。もう結婚していて、子ども──彼女にとっては甥っ子──がいるらしい。
また、彼女にはお兄さんもいる。
そのお兄さんというのが、また曲者なのだ。
「……あ~あ。私、お姉ちゃんかお兄さんが欲しかったなあ。そうすれば、お姉ちゃんだかお兄ちゃんだかが先駆者やっててくれるから、私への風当たりなんてまるでなかったかもしれないのに」
「いいじゃん、弟クンがいるんだから。一人っ子よりはだいぶマシだと思うよ」
「でもさあ……」
「それに、ウチのアニキみたいのがお兄さんでも、わたしみたいのがお姉さんでも、アンタの言うような『先駆者』にはなってないぞい」
いずみさんのお兄さんといずみさん本人は、なんと「同い年」である。といっても、二卵性双生児でもなければ、義理の兄妹でもない。お兄さんが四月生まれで、いずみさんが三月の「早生まれ」なのだ。といっても本人の話では、いずみさんは予定よりも一ヶ月以上早く生まれてしまったらしいので、本来なら年子の兄妹になるはずだったそうだ。
「お兄さんはお元気ですか?」
「とりあえず、『死んだ』っていう話も『入院した』っていう話も聞かないから、大丈夫なんじゃない?」
「……ひっどいいもーと」
私が苦笑を浮かべつつそう言うと、彼女は照れたような笑顔で小さく笑った。
同級生の兄妹というと、いろいろと難しいところがあったに違いない。それも彼女たちの場合は、小中高と、同じ公立の学校だったらしいから。
私はまだ、一度も彼女のお兄さんには会ったことがなかったが、しかし、彼らが末の妹さんも含めて三人、非常に仲のいい兄妹だということは、彼女の話の端々から窺われたことであった。
「さささっ、たーんと召し上がれ」
いずみさんはそういうと、いつものようにニコニコしながらハムエッグを食べ始めた。その光景を見て私は一瞬はっとした。
あれはちょうど一年ぐらい前のこの時期、夏の終わりの一日だった。
「どしたの? ボーっとしちゃって」
あのときと同じ言葉を、彼女は言った。彼女は、いつもとまったく同じ態度で私に接してくれた。
彼女がいなかったら、私は──。
△
「由乃ちゃん? 由乃ちゃんでしょう?」
彼女のインターホン越しの問いかけに、私は「ワーっ」っと泣き出してしまっていた。
それまではなんとか立っていられたのだが、彼女のその問いかけを聞いて、私は立っていることができなくなり、しゃがみこんでぼろぼろと涙をこぼすことしかできなくなってしまったのだ。
一分も経ってないだろう。すぐに、私の斜め前にあるオートロックのドアが、静かに開いていた。
「由乃ちゃん、ちょっと……。何よ!? びしょ濡れじゃない!」
一五分ぐらい前まで降っていたにわか雨に、私はまともに降られていた。
約一時間の間、電車にもバスにもタクシーにも乗らず、ただただ呆然と、泣きながら歩き続けていたのだ。
そして、気がついたら私は、彼女の家の前に立ち、インターホンを押していた。
「とにかく中に入って」
いずみさんはそう言うと、私の体を半ば強引に立たせ、濡れるのも気にせず、自室まで引きずり込んでくれた。
まだ何とか暖かい季節だったが、彼女は理由も聞かずに私の塗れた服を脱がせて、自分の冬の部屋着用のだぶだぶの服(彼女はだぶだぶの服の方が好きなのだ)をわざわざ押入れから引っ張り出してきて私に着せてくれた。体格が違うので、こういうサイズの大きい服でないと私が着ることはできないのだ。
彼女は私を着替えさすと、すぐにお風呂の準備をしてくれた。そしてその準備が終わり私に「お風呂入りなさい」と言うまでの間、私に対しては「お風呂、すぐ準備するから」とか、「これ、着れるよね」とか、「よかった、入った」といった事務的なこと以外は、一言も口にしなかった。
私がなぜ泣いているか、私がなぜ雨に降られながらここまで歩いてきたのかについては、一言も触れなかった。
お風呂に入っていても、ずっと涙が止まらなかった。
その後何分経ったんだろう。
彼女がドアを開け、「わたしもお風呂入るから、そろそろ出てくれないかな」と言った。
私は、自分を襲った不幸に泥酔する前に、「生活」という「現実の世界」を思い出さなければならなかった。
彼女がお風呂に入ってから、私は部屋に一人になった。
何一つやさしい言葉をかけてくれない彼女の態度に多少の戸惑いを覚えつつ、着ていた服は全部干してあるため外出することのできない私は、ただただ、お風呂に入る前に彼女に着せられた服を着て、じっと体育座りをしたままぎゅうっと両膝を抱え込んで泣いてることしかできなかった。
「あらら、髪の毛乾かさないとだめじゃん。もう……」
彼女はお風呂から上がると、服を着た、という以外は何もしていない私を見て、やれやれ、とため息をついた後、私の頭にバスタオルをかぶせてぐしゃぐしゃに髪を拭いてきた。
「……あ、そんな、ひどいですよ、そんな乾かし方」
私がそう抗議すると、彼女は突き放すようにこう言った。
「なら自分でやりな。ドライヤー貸してあげるから。それが嫌ならわたしのやるのに任せるか、さもなければ勝手に風邪でも何でもひいてなさい。でもそのときはウチから出てってもらうよ。風邪うつされるなんてごめんだからね」
私は奥歯をかみ締めながら、ドライヤーを彼女の手から引ったくり、髪を乾かし始めた。
肩のところよりも長く伸ばしている私の髪が乾くまでには、かなりの時間がかかったはずだった。
髪を乾かし終えてふと彼女の方を見ると、ショートへアの彼女の髪はほぼ乾いていた。
ただ──。
「ほれ、あったかい麦茶でも飲みな」
まだ一応夏だというのに、彼女はあったかい麦茶を勧めてくれた。それはしかしかなりぬるめだったため、私はつい一気にそれを飲み干してしまっていた。ただ、ぬるかったとはいえ一気に飲んでしまったために胸のあたりがカーっと熱くなって、なんだか体中がむずかゆく感じた。
麦茶によって体の中から暖められたおかげで、私はやっと、周囲を見つめるだけの余裕を取り戻すことができた。
そして私は、彼女の髪がぺったんこになっているのにようやく気がついたのだった。
「いずみさん、その髪……」
「え? これ? ……まあいいんじゃない? こういうのも。わたしの場合帽子かぶんの好きだから、こういうのも悪くないんよ」
明日休みだしね──と彼女はそう言って、いつもと何も変わらない笑顔を私に向けてきた。
いつもとまったく同じ態度。
それが彼女の私に対する精一杯の、最高のやさしさだったことに、私はこのとき初めて気がついた。いつもと違う私に「いつも通りに」接するのは、彼女の性格ではかなり神経を使っていたと思うが、物理的にも、彼女自身がいくつかの不利益を被らなければならなかったわけだ。
その一つが、ドライヤーを私が長時間使ったため、自分が使えなくなったこと。
「もう一杯いる?」
「え? あ、はい」
彼女の普段通りすぎるくらいに普段通りの態度は、ある意味私を追い詰めていった。
そして私は、ついに痺れを切らせて、自分からこう言ってしまっていた。
「……何があったか、聞かないんですか? どうして私がこんなんなっているのか、聞いてくれないんですか?」
いずみさんは麦茶の入った湯のみを私に渡した後、ふうっ、と一息ついてからこう言った。
「やっと本音が出たね。聞いて欲しければ、いくらでも聞いてあげる。それで気が済むなら、いくらでも話し相手になってあげるよ。でも、アンタが何をしゃべろうと、それはきっとわたしが聞きたい内容じゃない。
アンタだって、話したくないことだってあるでしょう? すべてはアンタが、由乃ちゃん自身が決めること。そうじゃないと、せっかくここまで来た意味も、あんなに涙を流した意味もないじゃない?」
彼女は麦茶をちょっとずつすすりながら、さらにこう続けた。
「何があったか知らないけど、わたしは慰めるつもりなんてない。ただ、いつまでもいつまでも泣いている由乃ちゃんを見ていたいとは思わないし、かと言ってもういい大人の女性に対して、子どもをあやすように接するのも失礼だと思う。
泣きたいときには泣けばいい。
でもね、わたしには最終的には何もできないんだから。どんなに辛くったって、自分の身に起こったことは自分で責任を取らなきゃいけないんだから。
自分でその苦痛を乗り越えていかなきゃならないんだから。
わたしにできることなんて、たかが知れてるんだから。
だから──」
彼女の表情がそのとき心なしか曇ったのに私は気づいた。
「それでも話して、みる?──」
自分の身に起こったことは自分で責任を取らなきゃいけないんだから。
自分でその苦痛を乗り越えていかなきゃならないんだから──。
だから──だから、私は──。
「うふっ、えへへっ……、ははっ…………。私ね、今日……。ふふっ、え~と……、本日、午後九時ごろ、ぐすっ、カレに、すんっ、フラれ、ちゃいました。……それで、それでね──」
▽
あのとき自分から、能動的にありとあらゆることをぶちまけてしまったおかげで、私は何と、一晩と次の朝とのわずかな時間で、失恋の痛手からほぼほぼ抜け出ることができていた。
ちょっと荒療治っぽくもあったけれど、いずみさんは約束通り私の話をいくらでも聞いてくれた。しゃべりつかれていつの間にか眠ってしまったはずなのに、朝起きたらベッドの上だった。そして翌朝、彼女は目覚めたばかりの私に向かってこう言った。
『朝ご飯、できたよん。ささ、たーんと召し上がれ』
前夜の疲れがまだ私には残っていたのか、体はだるさを感じていた。そんな体をおして、私は今、どうして自分がこうしてここにいるのかについて思い出そうとしていた。
それは、私がただ単に寝起きが悪かったのか、それとも思い出したくない、と無意識のうちに思っていたためなのかはわからないが、次の彼女の言葉によって、私は完全に心身ともに復活することができたのだった。
『どしたの? ボーっとしちゃって』
私は、いずみさんのことをただ単に仕事のできる会社の先輩としてだけでなく、人間として、一人の大人として社会人として、心から尊敬している。
そんなきっかけとなったのが、あの事件だった。
「私、大人になったかなあ、去年より」
私が突然そんなことを言い出したので、彼女は一瞬妙なモノ見るような顔つきになったあと、普段通りの笑顔でこう言った。
「わたしよりよっぽどオトナじゃんか。あ~んなことやそ~んなこともケイケン済みみたいだし」
「あ~っ! それじゃ私がすごいインランみたいに聞こえるじゃないですか」
「あははっ、ごめんごめん。でも、その手の話を顔色を変えずにできるあたりはわたしからすればすごいんよ。わたし、突っ込んだ細かい話とか、ちょっとマニアックな話になると、ゼンゼンついて行けないから」
たかがこの程度の言いまわしの話をするときでも、いずみさんは顔を赤くしてしまう。
私には、あの事件の後にできた「樋渡壮クン」という恋人がいるが、いずみさんはフリーらしい。それも私が知る限りは、ずーっと。
だから、あの「ハイタッチのカレ」が「元カレ」だというのに少しばかり引っかかりを覚えていた。
いずみさん、まだカレのことが、好きなんじゃないだろうか、と──。
記号の意味は、概ね下記のとおりです。
△ = 過去回想へ
▽ = 現在へ戻る
▼ = 視点移動(いずみ→由乃/由乃→いずみ)
◆は現在、◇はモノローグに近いもの、という形で作っています。
※概ね週一くらいのペースで連載をしていきたいと思います。