Scene 2-1 夏の終わり
Scene 2-1 夏の終わり
◆
「お邪魔しま~す」
かわいらしい声とともに、彼女が我が家に入ってきた。
もう今年で──正確に言うと来年の三月でなのだが──二七歳になるにも関わらず、まだしがないワンルームでの一人暮らしである。
彼女、由乃ちゃんがウチに来ること自体はよくあることだ。しかし、ウチに泊まることを本当の目的にして来るのは、ここ一、二年の間では珍しいことになっていた。
「お電話、借りますね」
彼女はそう言うと、彼女の自宅へと電話をかけた。
彼女はご両親と弟さんの四人家族で、四人ともで今でも同居している。
社会人とは言え、お年頃の女の子が外泊するのを黙って見過ごすほど、同居しているご両親は甘くはないらしい。
「いずみさんに替われって、母が」
わたしが電話口に呼ばれること自体はだいぶ減っていたので、ちょっと珍しい。
もちろん、番号表示サービスのおかげでここからかけていることが向こうに明確に伝わっているからだと思うが、それでも時々はこうして呼ばれることはあった。でも、くどいようだが、結構久しぶりだ。
いつもいつもご迷惑をおかけしましてどうもすみません──直接的にはそういう挨拶なのだが、その裏には、娘の素行に目を光らせる親としての意識が容易に垣間見えて、良識ある大人の一人として、わたしは小さな胸に少しばかりの罪悪感を覚えるのであった。
……そうなんだぞ、ユーノちゃん。
それというのも。
「はい。これで今日も手続終了です。お疲れサマでした」
由乃ちゃんはそう言うと、わたしに向かってにっこりと微笑んだ。
小悪魔的なその表情を見るにつけ、わたしは彼女と同性であることに今更ながら感謝する。
……そんな大げさな話ではないんだけどね。
「じゃあそろそろ、飲み会の続きをしましょうかねえ」
「もう?」
「もう。うふふ、じゃないと酔いが覚めちゃうでしょ?」
この日は、入社五年目までの若手のみ参加の飲み会があったのだった。
しかし、元々女性の少ない職場。
わたしたち二人は一次会で早々に退散することにした。
そんなとき、大抵は男性社員たちから「慰留」されるものだが、普段からストレートにはっきりと、しかもさらっと何でも言ってしまうわたしのキャラクターと人徳(?)のおかげで、最近ではとんとそういうことはなくなった。由乃ちゃんも、日頃からわたしと行動しているので、恨みがましい目で見られつつも、割と容易に席を立つことができた。
よくよく考えてみると、客観的にはゆゆしき事態なのかも知れないが。
由乃ちゃんはお酒が嫌いな方ではない。というよりむしろ好きな方らしいのだが、「お酒に呑まれる」質らしい。だからわたしと一緒に飲みに行くときは、「早々に切り上げさせてください、私を」と言われている。
そんなの自分で何とかしなさい──と言ったこともあるのだが、あっという間に出来上がってしまうというか、飲み始めたらなかなか止まらないため、「一口でも飲んだら最後」なのだ。
少し涼しくなってきたとはいえ、季節はまだまだ薄着の夏だし、わたしも彼女に付き合って飲みすぎないうちに退散することにしている。
「かんぱ~い」
「……乾杯」
由乃ちゃんと、帰りに買ってきた缶ビールで乾杯する。何に対して乾杯しているのかは定かではないが、そんなことを深く考えることの方が、まあおかしいのだろう。
今晩は由乃ちゃんがウチに泊まっていく。
三年前にはむしろ日常的な感じさえあったことだが、ここ最近は──。
「イラスト、できましたかぁ?」
突然、彼女が問いかけてきた。
彼女に頼まれ、私はある姿のイラストを描かなければならないことになっていた。
そう。
わたしの一番の趣味は、主に人物のイラストを描くこと。
写実系でもアニメ系でもある程度対応できるが、お金をいただけるのは、今までの実績では、とてもあっさりテイストな絵の場合だけなのだが、そのいくつかある画風の中でリクエストがあったのは、あっさりテイストに+α、ちょっとだけ精密にしたコミカルなヤツだった。
「うん、描いてはいるよ。でもねえ、ウェディングドレスっていうのはなかなか難しいんだよね」
「じゃあ、今度私が参考資料を持ってきますよ。カタログとか密かに集めてるんで」
彼女が男性のいるところで酔いつぶれることに多少なりとも神経質になるのには、十分に正当な理由があった。
そんな彼女の表情を見ると、わたしはまた、絵を描きたくなる。
そうだ!
さっさと潰して、今日はこいつの寝顔でも描いてやろうか。
△
「今日は、どうもお世話になりました。それじゃ、また来週」
「うん、じゃあね」
彼女は、独特のエンジン音が聞こえてくると、いつもこう言ってウチを出て行く。
自宅に電話を入れ、「わたしのウチでの外泊許可」をご両親に取り付けたあと、彼氏にここまで迎えに来てもらい、そしてそのカレのウチで夜を過ごすのだ。
▽
彼女がOL一年目のときは、本当にウチに泊まっていた。当時は彼女の母親から、深夜になってからでも電話がかかってきたりもしていたのだが、今ではわたしの信用度の高さのせいか、そこまでの確認の電話はかからなくなっていた。
彼女はもう大人なのだし、どう生きるかは自分で決めるべきことだ。
しかし、ご両親を欺いていることも事実で、それに自分が手を貸している、という現実は、わたしにとってあまり気持ちのいいものではない、というのが正直な気持ちだった。
特に、一年前のように、彼女が失恋してしてしまうようなことになると、やっぱりこんな小細工に手を貸すのは止めておけばよかったのかな──と何度も思ったものだった。
しかし彼女は、そんな失恋にもめげずすぐに新しい相手を見つけ、わたしに迷惑をできるだけかけまいと、以前のようにこのワンルームの建物の傍まで迎えに来てもらうことまで極端なことはしなくなり、「許可」を取り付けた後で近所のファミリーレストランへ行き、そこからまた夜のデートへと繰り出していく──というようになっていた。
「あ~っ、このカオいいなあ」
わたしの描いた新作のいくつかを見ながら、彼女は言った。
▼
いずみさんの描くイラストは、どれもこれもとてもかわいらしい。
中でも私が好きなのは、いかにもお役所が好きそうなタイプのあっさりしたイラストに、ちょっとだけアクセントを加えたような画風の、簡素でデフォルメの効いている、淡い感じの作品である。
彼女の作品で多いのは、そういうあっさりしたイラストだ。
実際、プロとしての仕事として頼まれることもあるらしい。私も、そのイラストたちの載った「製品」になったお役所のパンフレットを二、三、見せてもらったことがある。
ほかにも、友人知人や有名人といった実在の人物をベースにしたような、パンフのイラストよりは精密に書き込まれているもののやはりちょっとデフォルメしているような絵。アニメや漫画のような方向性で描いた、あっさりしているけれど動きも感じるような絵。そして、かなり写実に寄せつつも、やはりどこかデフォルメが効いているような絵──の概ね四つの画風がある。
……全部デフォルメが効いているわけだけれど、「画家」なわけではないのでそれはそうでしょ?
ということなのだが、どれも基本的に人物を専門にしている。
私が好きなのは一番目と二番目で、写実に寄らず動きもない、さらっと描かれたような絵の方だ。
……写実系が上手じゃないってことじゃないよ? 決して。
最近いずみさんは、オリジナルキャラクターの「育成」に力を注いでいる。
一番目の画風でならこれまでもたくさん実績があるのだが、二~四番目の絵柄では完全オリジナルではなかなか描き切るのは難しいらしい。
だから、例えば小説の人物をモデルにし、自分なりに起こしてみたりしているそうだ。
文章による「髪が長い」とか、「髭が濃い」だとか「角張った輪郭で実直そうな」とか「ふにゃふにゃしたやわらかそうなほっぺ」というような表現や、その人物に対する小説の登場人物による評価、それに自分自身の評価を加えて構築したイメージに基づいて、自分の感性で描いていくという作業になるので、まったくの白紙からよりは描きやすいという。
まあそれでも、かなり想像力・創造力はいるらしく、まさに今、鍛えているところ──だそうだ。一枚一枚描き切るのには時間もかかるし、大変なのだろうと思う。
──本当に自分の感性だけでオリジナルキャラクターを作り上げるのは、少しでも何かを参考にして描くときの難しさに比べると何倍も何倍も難しいのよね。
いずみさん曰く、である。
何を隠そう、私は今まで、二番目以降の画風での、彼女の真の意味での「オリジナルキャラクター」を、見せてもらえたことは一度もなかったのだ。
ところが。
「やっと納得がいくレベルの、オリジナルができたんよ。パソコンに取り込んで、細かい線の整理から彩色調整まで、一直線だった」
その人物は、やや茶髪の入ったショートヘアに、白のジャケットに黒のシャツというボーイッシュでカッコかわいい女の子だった。
画風としては概ね二番目の、パンフのイラスト以上、写実系未満の精密系。
その容姿自体はそれほど珍しいキャラクターというわけでもなかったが、そこには、小説のキャラクターや実在の人物のデフォルメといった、借り物のキャラクターにはない独特の雰囲気が漂っていた。
ある意味で言えば、そこそこリアル寄りなアニメ調の絵を、いずみさん流に綺麗に描いたものに近い──が、ただそれだけではない。
その最たる理由は、何と言っても表情だろう。
素直にいずみさんの心の内が出た──のかどうかはわからないが、幸せいっぱいというか、照れたような、それでいてどこか自信がありそうな(傲り、というニュアンスはまったく感じさせない素直な)表情なのだ。
なんか、見ているこっちまで幸せな気分になってくる。
「どうかな? かわいく描けてる?」
私はいずみさんと向かい合って、彼女の両肩に両手を置いて二つ大きくうなずいてから、すごくイイです──と言った。
「そ、そう?」
いずみさんはそんな私の大げさな態度に、そして『お酒の入った私』という「割引」を勝手に行ってしまったかのように、半信半疑の表情を浮かべていた。
これは一遍ガツンと言ってやらなきゃ。
「ホントですよぉ。な~んか、見てるだけで幸せになっちゃいそうなカオ。ああいいなあ、私もこんなカオしてみた~い」
ビールを飲みながらそんなトークをしつつ、私の記憶は消えていった。
ただ、私がしゃべればしゃべるほど、いずみさんが照れたようなかわいらしい、それでいてどこか物憂げな、あのイラストの女の子とはどこか違う自信のなさそうな表情になっていったという、かすかな印象だけは、心の中に残っていた。
▼
翌朝、目覚めると、由乃ちゃんが静かに寝息をたてながらわたしの横で眠っていた。小柄なわたしに比べ彼女は身長が一二cm高い。しかし体重はほとんど変わらない。
……やせてりゃいいってモンでは必ずしもないんだろうけど、やっぱりなんか悔しい気がする。
別に体格についてコンプレックスは持っていないけれど。
少々背が低くても、少々胸が小さくても、少々足が短めでも、それがわたし、杉村いずみという人間なのだから仕方がないことなのだ。
そういうことにいちいちコンプレックスを抱いていたらきりがない。なんて言ったって一六六cmで五〇kg切ってて、Dカップあって腰もくびれていて……。
ああ、やめたやめた。
まあ、そんなかわいい後輩が──ホントに顔もかわいいのよねぇ。
それに若いし……。
はっ!
思わず気が滅入ってしまうとこだった。
コンプレックスは持っていない、とかカッコイイこと言っといて。
でも、ホントに由乃ちゃんはルックスがいい。
性格的にも、ちょっと甘えん坊で自己中なところもあるけど、男性から見ればすごく魅力的に映るであろうカワイイタイプなのだ。
それに遊んでいるようで結構堅く、一途な性格だったりする。
家事とかも一通りできて、料理は特に上手。
話し好きだけれど口数が多いわけではなく、聞き役に徹することもできる基本的に謙虚で、男女問わず、相手を立てることが自然にできるタイプだ。
これでは、世の男性方が放っておくはずがない。
女性から見ると、彼女の評価は真っ二つに分かれる。
基本的には性格的な裏表はないのだが、それは時として男性に対して積極的なように映る。元々ルックスがいいため──それも顔だけでなくスタイルもいいので──ただでさえ女の嫉妬と言うヤツを買いやすいのに、「恋愛は自分の手で勝ち取るもんだ」という哲学を持っており、気に入った人には自分からガンガンアタックしていけるタイプなので、なおのこと誤解されやすいのだ。
しかし、仕事はキチンとこなすし、男に「媚びている」という態度は一切見せないさっぱりした性格は、きちんと見ている人には正当に評価されている。年上の女性に対しては甘え上手だったりもするが、男性にはヘンな隙は見せないタイプである。
つまり、一言で言うなら「大人の目から見れば、非常にかわいい娘」なのだ。それは女性の目から見てもそう。
だってわたし、由乃ちゃんカワイ過ぎるくらいカワイイと思うもん。
そういえば──。
以前由乃ちゃんに「なんか、私たちって、何でも思ってることをはっきり言う質ですよね、二人して」って言われたこともあったなあ。
さあ、朝ご飯でも作ろうか──。
△
その日は、夕立ならぬ夜立ち? というようなにわか雨が、夜九時三〇分頃から約一五分間ぐらい猛烈な勢いで降った。
わたしはその豪雨をよそに、自分のウチでせっせとある作家の推理(風味)小説を読んでいた。別に推理小説好きでもなんでもないのだが、読まなければならないような、というよりも、むしろ「読んだことによって」その作家をからかってやろうという気持ちを持つことのできるような義理のある人物の作品だったので、読むことにした、というふか~い(?)ワケがあったからだった。
一〇時を過ぎた頃、突然チャイムがなった。
わたしには、日常的にこんな時間に訪ねてくるような知人はいない。
それだけに警戒して、わたしはインターホンの受話器に手を伸ばした。もう雨は完全に止んでいたので、受話器からは雨の音は聞こえず、ささやかな虫の音だけが聞こえていた。
「はい…………」
「………………」
実は小心者のクセして、結構ケンカっ早いところのあるわたしは、こういうイタズラは大嫌いだった。
思わず一一〇番しようかとも思ったが、相手がヤバい相手だとは限らないので、とりあえず自重し、一呼吸置いた。
よく耳を澄ませてみると、受話器からすすり泣くような声が聞こえている。
……………………。
「……ちょっと、誰ですか~? もしも~し、返事してよ~」
わたしがそう呼びかけても返事はなかった。
だが、もう一言だけわたしが言うと、そのチャイムの主が、遂に、その重い口を開いたのだった──。
▽
記号の意味は、概ね下記のとおりです。
△ = 過去回想へ
▽ = 現在へ戻る
▼ = 視点移動(いずみ→由乃/由乃→いずみ)
◆は現在、◇はモノローグに近いもの、という形で作っています。
※概ね週一くらいのペースで連載をしていきたいと思います。