第二話:死は善でも悪でも無く
全てが真っ白だった。
始め真っ暗闇だった視界が徐々に明度を増し、今や直視出来ない程に眩しくて、わたしは目を細めていた。
ここが天国というやつか。生憎わたしは大工の息子が広めた宗教の信徒などではなかったが、きっとモーセとしての活動が認められて、天の国に迎え入れられたのだろう。
わたしの苦難に満ちた学校生活は無駄ではなかった。見ず知らずの女に刺し殺されるという、あまりにも不遇な最期だったけど、わたしは大丈夫。こうして報われたのだから。
それはそうとして、あのおさげ引っ張り女はぜってえ許さねえけどな!
「……ラクリマルム! 聞いているのか?」低く、重い声が響き渡る。
天使の名前かな。何処かで聞いた事のある名前だ。まぁ、創作に必要な分以外で天使の名前あんまり知らないんだけれども。
「ラクリマルム? ラクリマルム!」
これ、わたしに向かって言ってるのか?
わたしはラクリマルムなんて名前じゃない。
わたしの名前は音樹 真琴、ネット小説を書くのが趣味の、聖人系美少女高校……
待てよ。ラクリマルム?
天使の名前なんかじゃない。何度も聞いた事のある名前だ。わたしの口も、耳も、目も。何より指が覚えている。
――『冥夜龍ラクリマルム』
それは、わたしの小説『転生したら救国の巫女でした』のラスボス。
物語の舞台である『テルス』に災いと戦争をもたらし、最後には主人公によって封印される、悪役のドラゴンだ。
けど、わたしをその名前で呼ぶ意味が分からない。そもそも誰が呼んでいるのかすらも。
ひとまず疑問符だらけの意識を振り切って、目に力を入れるように集中する。真っ白だった視線の先が、顕微鏡のピントを合わせるように、次第にカタチを作り出してゆく。
視界が鮮明になったとき、わたしの目の前には白銀に輝く巨大な龍が鎮座していた。
「ええええぇえええぇぇえええぇぇっ!?」
理解の限界を超え、叫び声を上げる。ビリビリと空気が振動した。
「……急に吼えるな、ラクリマルム。君らしくもない。一体どうしたのだ?」
白銀の龍は極めて冷静にわたしをたしなめる。
とりあえず状況把握に務めよう。
わたしをラクリマルムの名で呼ぶ白銀の龍は、恐らく『陽光龍アレテーオス』だろう。
彼はラクリマルムと対になる龍で、陽の光の象徴だ。反対にラクリマルムは闇夜を象徴している。小説だと主人公に味方してラクリマルムの封印に大きく貢献する善なる存在だ。
そして、わたしは何故そうなったか理解出来ないが、自分で書いた小説の悪役ドラゴン、ラクリマルムとして転生しているらしい。そう考えると、もの凄くヤバい状況だ。
だが、彼が割とフレンドリーに話しかけてきている現状を見るに、時間軸的にはラクリマルムが何かしでかす前なのだろう。いきなり殺される事は無いだろうと信じて――直前に突然刺されたのは忘れる事にした――色々と観察してみる事にする。
部屋は一つの円堂で、天井は艶消しの黒い石に光る宝石が散りばめられ、美しい曲線を描くドームはまるでプラネタリウムの様だ。壁は黒大理石に鍍金の装飾が施され、壁沿いに円柱が均等に二本ずつ並んでドームを支えていた。柱と柱の間には書棚が幾つも並び、棚板は見慣れないひし形に配置され、そこには冊子や巻物が整然と積み重なっていた。床には鏡のように磨かれた様々な色大理石が複雑な幾何学模様を描く。さながらローマの万神殿。わたしが想像した通りのラクリマルムの神殿だった。
わたしがまじまじと部屋を眺めていると、アレテーオスが首を傾げながら言った。
「おいおい、本当にどうした。あちこち眺めているが、ここは君の神殿だろう。まさか忘却の川で水浴びでもして来た訳じゃないだろう?」
はっはっは、と冗談めかして笑ってますけどね。
大正解です。初めてだよ、こんな場所。
とにかく、今のアレテーオスはわたしに殺意を覚えている様子はなさそうだから、適当に話を合わせて、現状把握は後回しにしよう。
「いやぁ。ごめん、ごめん。ちょっとボーっとしちゃって……」
「!?」笑っていたアレテーオスが硬直した。
――しまった。
つい、自分の言葉で話してしまった。考えてみれば、わたしは今ラクリマルムに転生しているんだった。
白龍は口をポカンと開けて、目を見開いている。ドラゴンの間抜けな表情を見るのも面白いけど、変な勘違いをされたら間違いなく面白くない状況になる。ここはラクリマルムらしい話し方をしなければならない。
「ゴホン。いや、すまぬ。いつの間にやら、つまらぬ思索に耽っていたようだ」
出来る限りの真面目な顔で言ってみた。問題はわたしにはドラゴン界における真面目な表情というのが分からないって事かな。
「……そ、そうか。それでだな、話の続きだが、ラクリマルム。そろそろ人里に降りる気にならんのか?」
わたしの失態は無かった事にしたらしい。こういう時は人間も龍も大して変わらないもんだ。
そして、やっと気がついたが、これはどうも主人公が異世界転生する少し前の、つまり過去編の話らしい。
その過去編のタイトルは『二龍会談』。
それぞれ陽光の化身、闇夜の化身として人類に加護を与える立場の神龍だが、長いあいだ魔術の研究に熱中していたラクリマルムを、アレテーオスが引っ張りだそうと説得するくだりだ。
それまで交代制で信仰篤き人々に恩寵を与えてきたが、急にラクリマルムが引きこもりを始めた。そのせいでワンオペ状態になっていたアレテーオスに、我慢の限界が来たのだ。
実の所、ラクリマルムは引きこもり中に人類を隷属させる計画を立てていたのだが。まぁ、アレテーオスは知る由も無い。というか、ここで発覚したら物語終わっちゃうしね。
ともかく、わたしが今やるべきは元の話通りに台詞を喋る事だろう。それでアレテーオスは不満げにだが、とりあえずはこの神殿を後にする事になる。そんな訳で頭を絞って、何とか記憶から台詞を捻り出す。
「またその話か……研究に段落がついたらと何度も申しておるではないか」
「その研究とやらは何時終わるんだ? 君が神殿から出なくなってもう二百年も経つ。二百年だぞ!」アレテーオスが叫んだ。
正確には吼えた、が正しいな。空気がビリビリと振動して、わたしの全身を打つ。大きな龍に吠えられるなんて滅多にある経験じゃないな。普通に怖いわ。
実際の所、大きさ自体はわたしと変わらないけれど、それでも怖いものは怖い。小さな頃にグレート・デーンに追いかけられたのと同じぐらいの恐怖だ。
ともあれ、勇気を振り絞って役割を続ける事にしよう。
「くどいぞ、アレテーオス。わらわには、わらわのやり方があるのだ。放っておいてもらおう」
「やり方だと? 何もやりはしないではないか! 君が役割を放り出したが為に、私がどれだけ困っている事か!」
「節介焼きも考えものだな。自分の事だけやっておれば良いものを…… 兎角、これ以上口を挟むのは控えてもらおうか」
「言わせておけば図に乗りおって! 私はもう知らん!」
アレテーオスはそう吠えた後、大広間の一番大きな木製の扉に向かって歩き出す。
いくら扉が大きいと言っても、龍の身体は扉の二倍以上の大きさはあった。ちょっと言い過ぎたかな。わたしの宮殿壊されちゃうのかなぁ、と思っていると、突如として床に描かれた幾何学模様に光が走る。線と線とが結ばれて、大きな円に幾つかの図形が組み合わさり、巨大な魔法陣が姿を現した。
魔法陣からは幾つも光の帯が立ち上り、アレテーオスの巨体を完全に包み込んで次第に収縮を始めた。シルエットは瞬く間に縮んで行き、収縮の停止と同時に光が晴れると、アレテーオスは見た目にして十歳そこそこの、二本の角と龍の尾を持つ男児に変身していた。
髪はプラチナに輝き、瞳は太陽を思わせるような明るいオレンジ。古代ギリシアで良く着られていたキトンという服の上から、黄金に輝く胸甲に小手と脛当を付けた様は、ギリシャ神話の太陽神ヘーリオスを思わせた。
『肉体変化』呪文だ。
そういえばそんな呪文作ったなあ。と、まじまじ見ていると彼はこっちに振り返り、外見に見合った幼い声を張り上げた。
「良いか、ラクリマルム! 我らには役割があるのだ。それが我らが神々に生み出された理由だ。努々、己が役割を忘れるな!」
言い終わるや否や、彼は苛立ちを叩き付けるように、今や身長の数倍になった扉を蹴飛ばし破壊した。結局壊すんかい!
その後アレテーオスは、そのまま神殿を出るなり、高く空中へ舞い上がり飛び去っていった。
いやぁ、怖かったなぁ。あのまま戦いにでもなったらどうしようかと思った。ひとまず、考える時間は出来たので、状況を整理してみる事にしよう。
まず、わたしはわたしが書いた小説『転生したら救国の巫女でした』の中に、ラスボスになる悪役の龍『ラクリマルム』として転生したようだ。
時間軸的には物語開始以前、つまり主人公が転生して来る少し前、ラクリマルムの人類隷属計画開始の直前といった所。そして現在地はラクリマルムの神殿、と。
現状把握出来るのはこの程度でしかない。もっと情報が必要だけど、龍の身体のままでこれ以上神殿を破壊せずに外に出れらるかどうか疑問でしかないね。あっ、扉の片付けもしなきゃ。全く面倒な事してくれたもんだ。
取りあえず、アレテーオスがやっていた様に人間に変身してみよう。龍の姿では何一つ有効なアクションが起こせない気がする。
目を閉じて、意識を集中する。状況が状況といえ、何だかワクワクしてくる。余計な思考を何とか振り払い、心臓のあたりに身体のエネルギーを集中させ、呪文を念じる。
………………おかしい、何にも起きないな。アレテーオスはこれで上手くいってたけどなあ。
まぁ、無言詠唱は難易度が高いって設定したのはわたしだからね。ラスボスの身体なら行けるかなと踏んだけど、仕方ない。もう一度意識を集中させて、今度は発声してみよう。
「ムーターティオ・ウェスティス!」
だが、何も起こらない。なんでや! 呪文は間違ってないハズなのに!
こうなったらヤケだ。魔術は度胸、何でも試してみるもんさ!
お座りのポーズで叫んでみる。「ムーターティオ・ウェスティス!」失敗。
首を真上に伸ばして叫ぶ。「ムーターティオ・ウェスティス!」失敗。
ヘドバンしながら叫ぶ。「ムーターティオ・ウェスティス!」はい、ダメ。
ちょっとアンニュイな感じでささやく「ムーターティオ・ウェスティス……」ダメダメ。
首を胴体の下に通して叫ぶ! 「ムーターティオ・ウェスティス!」全然ダメ!
ウオアァァアアァァアァアッ! 何でじゃ! 一体何がダメなんだ!?
生まれて来た事か? 生まれて来た事が悪いのか? 生まれて来てごめんなさい!
「ムーターティオ・ウェスティス! ガアアァァアアァアァアアッッ!!!」
「ラクリマルム様、先ほどから一体何をされているのですか?」
鳴き叫ぶわたしに後ろから誰かが声を掛けてくる。わたしは首だけを回し背後に視線を向ける。そこには青く透き通った眼をした、耳の長い女性が凜として立っていた。