第二十五話:青薔薇の名前
人もまばらな明け方のウゥルカーニアは静寂に包まれていた。暁に染まるその路地裏で動く影は、家賃を払えずに住処を追い出された宿無しか、酒場で夜を明かした酔客をおいて他にはない。
小路には夜のうちに集合住宅から投げ捨てられた排泄物と、酔客の残した吐瀉物の臭いが混じり合い、名状しがたい空気が立ち籠めていた。私は今、そんな道を貴人の手を引きながら足早に歩いている。
出来るだけ先を急がなければなるまい。今日中にはウゥルカーニアを出立し、南端の港町ポルタレアへ向かう必要がある。本来ならインテラムナから川を下り、帝都を過ぎてオスリーネアへ向かう予定だったが、もはやその選択肢はあり得ない。
これからの計画を思案していたとき、不意に手を引くお方が息も絶え絶えに声をあげた。
「あのっ……ちょ、ちょっとタイムッ! な……何でこんなにっ、急いでるんですかっ!」
――どうも少しばかり速く歩き過ぎたらしい。だがそれ以前に、このお方は運動が大の苦手なようだ。ヒュマスだというのに枢機卿の長老方よりも体力が無いと見える。
「配慮に欠けていました。お詫びいたします。ですが宿を引き払う前に説明した通り、出来るだけ早いうちに人目につかぬよう街を出たいのです」
「……それって、例の帝国の――だ、大丈夫なんですか?」
昨晩、宿の酒場で『門で騒ぎがあった』という噂が耳に入ってきた。詳しく話を聞けば、数日前ここウゥルカーニアに帝国の重臣が数人ばかり訪れたということらしい。彼らは門に詰めた番兵全員にかしずかれるような存在だとか。もう少し情報が欲しい所だったが、それ以上を知る者はおらず努力は徒労に終わった。
帝国の重臣……極めて怪しい。私の勘がそう告げる。
なぜ、今この時に重役が何人もウゥルカーニアへ来るのか…………私たちの存在が帝国に露見したのか? もし、そうであるならば長居は無用だ。我々が待ち焦がれた希望の灯火を、こんな所で失うわけにはいかない。この火が立ち消えしまったとき、再び燈台に灯るという確証は無いのだ。
「ご心配なく。必ず……必ずやこの私が護ってみせます。さあ、先を急ぎましょうホムラ様」
魔杖の仕立て直しを頼んだ魔具商の店は入り組んだ路地の奥にある。古ぼけた集合住宅の一階にある小ぢんまりとした店は、周囲と同じように外壁が赤く塗装されている。だがその赤は他の店の鮮やかなものと比べて、かなり色褪せていた。壁はよく見ればあちこち漆喰が剥がれ落ちて、全体的にうらぶれた雰囲気を醸し出している。
本来の予定よりかなり早くに来たので、魔術具店はまだ開いてはいなかった。店先はこれまた古びた分厚い戸板で覆われ、そこに場違いとも思われるほど重厚なかんぬきが掛けられている。
今はあまり人と話したくないのだが、仕方ないので門番に声を掛けることにする。彼は建物の端に備え付けられた集合住宅の入り口で簡素な椅子へ腰掛け、まだ覚めきっていないであろう眼をこすりながら通りを眺めていた。
「ご機嫌よう。あるじへ言伝を頼みたい。『青薔薇が篝火の件で参った』と」
私は外套に着けた留め金を指しながら言った。
無精ひげを生やしたヒュマスの門番は、留め金にあしらわれた家紋の青薔薇をひとしきり眺めたあと返事をした。
「ああ、アンタが例の青薔薇様かい。オリウァヌスさんなら店の中で待ってるぜ。ちょいと待ちな」
この時間に私が訪れるかもしれないと予測していたのだろうか。物わかりは良いが不躾な門番はあくびをしながらかんぬきを上げ、戸板を一枚外して私たちを招き入れた。
魔術具店の中には既に灯りが点けられていたが、それでも早朝ゆえか薄暗かった。あたりには所狭しと魔導書や魔術具やその素材などが並べられており、様々な色彩の魔石がほのかな油灯の光を反射して星の如く輝いている。
私たちが店内へ足を踏み入れたのを確認してから、門番が再び戸板で店の入り口を閉じた。時を同じくして、店の奥から年老いたアルウスが顔を出す。
「こ、これはこれは、ヒノモリ様にアズラザロサ様。随分と早くおいでになりましたな」
「やあオリウァヌス。悪いが事情があってな…………帝国の重臣が街に入ったとの噂を聞いたか?」
「あぁ、ああ。その件で……少しばかり、その、話をしたく……」
オリウァヌスの歯切れは悪く、彼から話をしたいと言い出したにもかかわらず、その先を言いよどんでいる。何やら一言二言呟いては思い直したように愛想笑いと手もみを繰り返すばかり……どうやら帝国の手は予想以上に素早かったらしい。我々は不都合に巻き込まれたようだ。
直剣の柄に手を掛けながら、ホムラ様をかばう態勢に構えて問う。
「オリウァヌス……もしや貴様、謀ったか…………この私が誰かと知っての――!」
「名乗りなど上げずとも、君の事は良く知っていますよ。ニウァリスの帯剣総大司教アズラザロサ家が令息、カティリヌス・アスペル・アズラザロサ君」
オリウァヌスの背後から聞き覚えのある穏やかな声が飛んで来た。
「その声はもしや……ウルラウス殿か!?」
「久方ぶりですね、カティリヌス君。君がニウァリス聖騎士遍歴救導隊の長に就任した時以来でしょうか? まあ立ち話も何ですから、奥へ来て座ったらいかがですか?」
「カティさん、あの人は……」
「信用は出来る……と思います。少なくとも、昨日今日会った人間ではないので」
ウルラウス殿との出会いは、私がまだニウァリス聖騎士団の遍歴救導隊――ニウァリス国外にいる六大神正教信徒の救いを求める声に応えるための部隊――の平隊員だったころ、帝国領内の迷宮に飲まれた聖遺物を回収する任務に当たったときのことだ。
当時迷宮に不慣れだった我々は、調査の最中に多大なる悪運へと見舞われた。集団戦を主とする騎士団の闘い方では、狭い通路での戦闘で力を十分発揮できず、消耗した我々は罠を見過ごして落とし穴で迷宮下層へと落とされてしまったのだ。
まず下層に落ちた際に受け身を取れなかった者が数名亡くなった。辛うじて死なずとも怪我を負った者もいた。彼らを抱えて魔物と戦うのは無謀極まり、死傷者は相次いで増える。任務の達成などもはや不可能だった。
ついには生き残りが片手で数えるだけの数に至り、撤退の道筋さえも失っていた我々はこの場所が死地だと悟った。
剣を捨てて神々に末期の祈りを捧げんとした、まさにその時。私たちに救いの手を差し伸べたひとりの魔術師。それがウルラウス殿だった。
聞けば彼の目的も私たちと同じであったが、ウルラウス殿は仲間を引き連れてはいなかった。たったひとりで同じ迷宮へと潜り、傷一つも負ってはいなかった。徒党を組んで惨憺たる始末の我々と比べ、なんたる差であったか!
結局我々はウルラウス殿の助けを借りて、辛くも迷宮から脱出する事ができた。地上に戻った我々は冒険者組合を通じて彼を雇い、再び迷宮へ挑むため探索の指南と案内を頼む事にした。
そうして二度目の迷宮探索は成功し、彼の好意もあって聖遺物を我々の物とする事に成功した。偉大なる魔術師ウルラウスの助けによって、仲間の死を無碍にする事なく任務を果たせたのだ。
それからウルラウス殿とは友誼を――彼が出自卑しからぬアルウス族ということもあるが――結び今に至る。要するに彼は大切な友人であるとともに、多大な借りのある命の恩人でもあるのだ。
私たちはウルラウス殿の招きに従い、店の奥へと足を踏み入れる。奥の部屋は店の応接間で、オリウァヌスが顧客の要望を聞き取るためにある部屋だ。ホムラ様の魔杖調整を頼んだ際も、この部屋で注文や測定などを行った。
気難し屋のオリウァヌスは彼が認めた顧客にしか応接間を使わない事で有名だったが、今その部屋の主人はウルラウス殿によって人払いさせられている。
哀れな主人無き応接間には、ウルラウス殿を含め四人の男女が重厚な机を囲んでいた。てっきりウルラウス殿ひとりかと思いこみ、彼らを訝しむ私にウルラウス殿が紹介を始める。帝国の皇子レグルス殿下に、神官のマーティア。
成程、帝国の皇子が来たとあらば門の番兵が騒ぐのも当然だろう。神官のマーティアとやらが何者かは分からないが、彼女が着ているのは古めかしい六大神正教の法服だ。皇子に連れ立っていることを考えるに、もしかすると帝国で名のある神官なのかもしれない。
……けれどもそんな彼女以上に気になる人物がいる。ひとりだけ紹介を飛ばされた、不釣り合いに大きな魔杖を携えた幼い少女だ。
美しい刺繍が施された石絹の法服に、煌びやかな銀の輪冠に装飾された闇夜のような黒い長髪。成程、背格好を除けば見た目はいっぱしの魔術師だ。魔術師の実力は見た目で分からないと良く言ったものだが……けれども、ここまでに幼い子供が魔術を扱えるとは到底信じがたい。
だがそれにも増して異様だったのは山羊のような漆黒の角と、右に左にと店の床を滑る飛竜の如き尾だ。私もそれなりに世界を見てきたつもりだったが、彼女のような種族は目にしたことがなかった。
一体彼女は何者で、何の目的で私たちと相まみえたのか。そんな疑問を見透かすように、彼女は紅い瞳で私を見上げて言った。
「聖騎士カティリヌスに灯火の姫巫女ホムラよ。会えて嬉しく思うぞ。わらわは陰の太后テネブラエが子、夜帷の龍ラクリマルムだ」
「……ば、莫迦な。神龍ですと!?」
「マルムは正真正銘の冥夜神龍だよ。僕とウルが保証する」
「ですがにわかには……」
「別に信じるか否かはどうでも良い。カティリヌスに用があるわけではないしの。こたびは姫巫女ホムラ、そなたに折り入って頼みたい事があるのだ」
「えっ、わたし?」
「うむ。そなたの力をもって皇帝の命を救ってもらいたいのだ。病で余命幾ばくも無いアウラ皇帝オーネスタスの命を」
オーネスタス帝は近頃めっきり公に姿を現すことなく、公務の殆どを皇女ポテンティアが取り仕切っていたようだが……もう長くないとの噂は本当の事だったのか。
その病に伏すオーネスタス帝の治療にホムラ様の力を借りたいという事は、まだ助かる見込みがあるということ……だが。
「ホムラ様はその様な些事に関わっている暇などありません。二百年ぶりに現れた姫巫女として……」
「そなたには聞いておらぬわカティリヌス。些事かどうかは姫巫女が決める事だ」
「無礼なッ! 私はっ……!」
「カティさん、ちょっと待って。心配してくれるのは、嬉しいけど……彼女と少し話させてください」
「くっ……ホムラ様がお望みとあらば……」
「ラクリマルム……様。お話させて頂いても宜しいでしょうか?」
「苦しゅうない、無理せず砕けた話し方で構わぬぞえ。それに呼び方はマルムで良い」
「意外とフランクなんだね。じゃあマルムちゃん、で…………それで、アウラの皇帝陛下を治療して欲しいって事なんだけど。わたしもニウァリスの人たちには良くして貰ったから……出来るだけ彼らの言う事は聞いてあげたい。だから、その……わたしとしても相応のメリット――利益が無いと協力は出来ないよ」
「皇帝の命を助けたとあらば、帝国に多大な恩を売れようぞ…………それにそなた、人を救うのに利益を求めるのかえ?」
「……この世界の事はよく知らないけど、わたしも考え無しって訳じゃないよ。権力者がどうやっても治せなかった病気なんでしょ? わたしが治療出来るかどうかはやってみないと分からないけれど、もしもそんな難しい病気が治せたとしたら…………帝国の偉い人たちは素直にわたしを帰してくれるかな?」
「むむむ……」
ホムラ様は状況に物怖じせず、堂々と渡り合ってみせた。なんと頼もしいことか! そして我らがニウァリスを想う美しき心。さらにその心に引けを取らず見目も麗しく、彼女が女神ハルウェスタの顕現と言ったとて一体誰が疑うだろうか?
ホムラ様にやり込められたラクリマルムは眼を閉じて唸っている。浅慮な思いつきで我らの女神を籠絡しようなど全く片腹痛い。
姫巫女に拒絶された彼らは実力行使に出る可能性もある。念の為、いつでも剣を抜けるよう身構えておく。
しばらくして考え込むの止めたのだろうか、ラクリマルムは再び眼を開いて言った。
「利益……利益か。要はそなた、無事に帰る事が望みという事であろう?」
「マルムちゃんにそれを確約出来るの?」
「……いいや。だが力を貸す事は出来るやもしれん。そなたが本当に帰りたい場所……ニホンの国への帰参に」
「…………え? いま、日本って……」
その言葉を聞いたホムラ様の顔が凍り付いた――まるでニウァリスに荒れる吹雪の如く。
MORDHAUとかいう中世剣戟アクションゲームが面白すぎて更新出来ませんでした。反省してます。




