第二十四話:全ての道は……
山中の森を歩き続け三日目の昼。やっとのことで森を抜けたわたしたちを迎えたのは、真っ直ぐと何処までも続く幅広い街道だった。陽射しは硝子の降るが如くに路面を照らし、グレーの石畳に含まれる金属質がまばゆく煌めいている。その様子は文明の礎ともいうべき道路が天に祝福されているかのようだった。
「……これが噂に聞く帝国の街道か。いやはや大したものだ!」
幅十メートルはあろうかという街道の石畳は砂利一粒すら入り込む余地がないほど隙間なく敷き詰められ、野盗や獣の対策として広く切り拓かれた周囲は茂みの一つもない。そして道の両端に備え付けられた歩道には往来の足跡が、中央の車道にはうっすらと轍が残っていた。
「先人たちの努力が賜物です。元々は軍の為に敷設されたものですが、この街道によって様々な往来が活発になり、それが今日の帝国を形作っていると言っても過言ではありません」
街道は文明の証である。偉大なるローマ帝国もかつてはただの集落に過ぎなかった。そんなローマが世界首都へと変貌を遂げられたのは『塩の街道』あってこそだ。わたしの目の前の道路は正しく文明の証に他ならないのだ。
この世界に転生し、神殿を出てより森を歩いて三日。初めて人々の営みのしるしを見たという事がこんなにも心を高揚させるとは思いも寄らなかった。
この道の先には街がある――その事実だけでも、朝から森の中を歩き続けた疲れを吹き飛ばすには十分だった。
感慨に浸るわたしへ、街道の脇に建つ白い石柱を注視するウルラウスが言った。
「ふむ、少し無理をすれば今日中にウルカニアまでたどり着けそうですね。日が暮れてからも歩く事にはなるかと思いますが」
「まあ出来るだけ早く着くに越したことはないからの、仕方あるまい。ところでそれが千歩石柱か?」
「ええ、良くご存知で」
ウルラウスの見ている柱はいわゆる『マイルストーン』だ。街道へミリオン――約千五百メートルごとに設置された距離標識であり、帝国の中心アウラ市までの距離や街道の始点・終点までの距離、道路を建設・修復に協力した者の名から建設当時のちょっとしたニュースまで記載されている便利なヤツである。
そんな石柱の距離表示を見てレグルスがため息を吐く。
「『ウゥルカーニアまで十七ミリオン』――ハァ、まだ歩くのか……そろそろくたびれてきたよ。ああ風呂に入りたいなあ」
「何だ、もうへばっておるのか。宮廷暮らしに冒険者の真似事は荷が重かったのではないか?」
「あのねえマルム。僕らは君と会う前から結構な長旅して来たんだよ。それに真似事じゃない。ちゃんと組合から白銀級として――」
「分かった分かった、わらわが悪かった。それにしても……風呂か。確かに旅の埃を落としたくはあるの……」
風呂――そこは日本人の聖域である。一日の終わりに湯船へ浸かり、疲れを癒やす至福の時間。そこは肉体を清める場であると同時に、精神を清める場でもあるのだ。
今日諸外国の人々がこの素晴らしき習慣を共有していない――ローマ帝国の後継であるはずのイタリア共和国でさえも――のは実に嘆かわしい事であるが、この世界は違う。古代地中海と同じくして公衆浴場が存在し、人々は入浴に対し日本人と同じぐらい熱心なのだ。それを思うとわたしの胸はますます躍る。
「確かに湯が恋しくはありますね。一応、数刻も掛からずにウルカニアへ到着する手段が無いとも言えませんが……」
ウルラウスが考える素振りをしながら言った。
「ほほう、申してみよ」
「マルム様が龍のお姿へ身を変え、我々をその背に――」
「ブチ殺すぞ歩き香炉ッ!!」
マーティアの殺気を物ともせず、ウルラウスは笑って歩き始める。
「ははは、冗談ですよ。途中で荷が少ない馬車にでも会えば、幾ばくか払って乗せてもらいましょう。幸いこの辺りは交通量も少なくありませんから」
街道を歩き始めてしばらく、二本目の石柱を通り過ぎた所で二頭立ての荷馬車を曳くヒュマスの老商人と出会った。聞けばちょうどウゥルカニアへ帰る途中とのことだったので、彼に幾ばくかのお金を払って馬車に乗せてもらうことになった。
見事に舗装された街道を走らせるとはいえ、サスペンションの無い馬車はそれなりに揺れた。そんな馬車の旅は快適とは言い難かったが、歩いて街を目指すよりかはずっとマシだ。だが拓かれた街道の景色には大した見所もなく、茜と染まり行く空を見上げる以外にやる事がない。あんまりにも暇なので、わたしは商人のじっちゃんセクンドゥスと世間話をしていた。
「――それにしてもドラコニスとは、全く珍しい客を拾ったもんですわい」
「そんなにかえ? 商いをしておれば機会も有りそうなものだが……」
「彼らは人との関わりをあまり好みませんからなあ。この歳になって目にしたのはたった一度きり……今日で二度目、ということになりますな」
じっちゃんは胸元まで垂らした白い髭を撫でながら、わたしをまじまじと見つめる。
「……そのうえドラコニスとこうして話をするばかりか、それが姫君だとはまたとない幸運。長生きはしてみるものですわい。ほほほ」
わたしは街道を歩く途中にウルラウスと相談した結果、ドラコニスという種族の姫を名乗ることにしていた。
ドラコニスは爬虫類の鱗に、二本の角としなやかな尾を持つ竜人族だ。人間型種族の中でもかなりの少数派で、その姿を見かけることは滅多にない。決まった集落も知られておらず、ごく稀に身一つで放浪する姿が報告されているぐらいだ。
長寿なアルウス族以上の寿命があり、そのせいか俗世的な事柄に関心を示すことは少ない。彼らが人と関わるのは必需品を求める時のみであり、その際は永い旅路で得られた知識や僅かな異国の荷を取引の材料として生活している。
要はとにかく実態が良く知られてない種族なので、似たような特徴を持つ今のわたしにとってはうってつけなのである。マーティアはこの提案にかなり不満げだったが、まさか街に繰り出して神龍を名乗るわけにもいかないしなあ。
ひとまず、あんまりドラコニスの話題に突っ込まれても困る。話を逸らすついでに、当面の目標についての情報収集をする。
「ところでセクンドゥスよ。そなた魔具商のオリウァヌスを知っておるかえ?」
「オリウァヌス……皇室や執政官の御用達でありながら、かたくなに昔ながらの古びた小さな店舗で商いをしておる、あの変わり者で偏屈なアルウスですかな?」
「……大した言われようだの、詳細な説明ご苦労。してそのオリウァヌスであるが、近頃何か様子に変化はないか? 例えば――――店を閉めるなどとか」
「よく……よく存じておりますな。確かにわしがウゥルカーニアを出る前の日、やむにやまれぬ事情でしばらく店を休むとか言っておりましたわい。そのおり幾つか素材を求められましたが……どれもが最上級の品ばかりでしてな。正直、高価さゆえに持て余すばかりだった物を厄介払いでき、その上たんまり儲けさせて貰いましたからの。こちらとしても願ったり叶ったりというやつですじゃな」
「そなたがウゥルカーニアを出たのは何日前だ?」
「ふむ? そうですな……四日前になりますかな」
「ねえマルム、さっきからオリウァヌスの話ばっかりだけど何か問題でもあるの?」
レグルスが不可解な面持ちで話に割り込んできた。口には出さないがウルラウスとマーティアの二人も同じ表情だ。まあ話の流れが分からないのだろうから無理もない。
「問題はない、杞憂であったようだ。詳しい話は宿に着いてからでも良かろう。長い話になるゆえな。 それより、のう! 遠くに灯りが見えるわえ、あれがウゥルカーニアか!?」
「ほほ、街に寄るのはこれが初めてですかな? ドラコニスの姫君よ歓迎しましょうぞ、ようこそ我が愛しのウゥルカーニアへ!」
日は暮れて宵の闇。薄暗がりの彼方には巨大なシルエットが浮かび上っていた。黒い影のかたまりには等間隔に灯りが煌めいていて、近づくにつれてそれが高い城壁に並べられた篝火であることに気づいた。
わたしたちが城壁の足下にたどり着いたのは、辺りが夜の闇に飲み込まれた後のことだった。松明の灯りが一層と集まった街の入り口は白亜の大門で、そこには荷馬車が列を成して並ぶ。セクンドゥスは列の最後尾について、わたしたちに言った。
「街へ物を搬入するのは大抵夜中のことですから、どうしてもこの時間は混みますな。街へ入るだけならば別の列がありますから、そちらに並ぶとよいでしょう」
「そうか。世話になったなセクンドゥス」
「礼には及びませぬ、きちんと報酬は貰っておりますからな。こちらも珍しい客人をお招きできて楽しかった。わしはしがない武具商ですが、よろしければ我が店『紅蓮の鉄槌』をひいきにして貰えれば幸いですわい」
「うむ、何か入り用になれば必ずやそなたの店に顔を出そう」
セクンドゥスと別れたわたしたちは、来訪者用の列へ並んだ。こちらは搬入用の列とは違い大した人数もなく、すぐにわたしたちの番がまわってきた。
「ウゥルカーニアへ来た目的を伺おう。それと身分証はお持ちかな?」
門番の兵士が歩み寄って言った。
「こたびは公用で参りました。私はウルラウス・リッテラートゥス・アリストソフィウス・クレメントロス。こちらにおわすはレグルス・アウラ・コルレオニウス殿下とドラコニスの姫君マルム・テネベッラエ・ノクサリア殿下とその側用人マーティア殿です」
ウルラウスは数巻の書状を渡し、物腰柔らかに返答した。
兵士は慌てて片膝を突いて礼をする。
「ど、どうか失礼をお許しください。書状、確かに拝見いたしました。ただちに宿の手配を……」
「宿の手配はこちらでします。あまり仰々しいのは困りますから護衛も結構。代わりといっては何ですが、伝馬逓信を頼みたい。明朝『底抜け酒盃亭』まで書状を取りに来て貰えると助かる」
「承りました、良き滞在を! 帝国万歳!」
兵士が声を大きく敬礼すると、周囲の兵士全員がきびすを正して復唱した。
「帝国万歳ッ! 皇帝万歳ッ!」
兵士の敬礼に並んでいた数人と街中の群衆が反応し、辺りの視線全てがわたしたちに向く。
「……仰々しいのは困ると言ったんですがね」
ウルラウスは深くため息を吐き、額を抑えながら言う。
間違いを犯したと知った門番の肩は震え、その顔は空に浮かぶ月よりも青白くなっていた。




