第十九話:過つは人の常、赦すは神の業
吹き荒ぶ熱風に混じった砂埃が、私の肌を絶え間なく打ち付ける。
ラクリマルムの魔術は魔力の供給が止まってなお脅威を保っていると見える。よもやこれ程の複合魔術をたった一人で操るとは……神位精霊、一筋縄ではいかないか。
「ウェントゥス・トランクィリタース」
私は呪文を唱え、荒れる環境の沈静化を図った。試合の行方も気にはなるが、それよりもレグルスの安否が心配だ。あの魔術の渦の中では、最悪の場合も考えられる……
風凪の呪文が功を奏し、熱気の嵐が落ち着きを取り戻す。それに連れて立ち籠める土煙と燃え盛る炎の残滓もその勢いを弱めていく。だが、なおも視界は晴れず、いよいよ風が完全に静まったその時になり、私は状況を把握した。
「レグルス!」
いまだ残火の揺らぐ石陣には、うつ伏せに倒れたレグルスの姿があった。急ぎ治療を施さねば……
「そこで止まれ。まだ決着が付いておらぬでな」
鋭い声に足が止まった。土煙の中から現れた声の主、ラクリマルムは土埃を払いながらレグルスにゆっくりと歩み寄りながら言った。
「ウルラウス、そなたの手出しは不問にしてやろう。どの道、同じ事よ」
彼女はレグルスの修練石を杖でこちらに弾く。同時に石に仕掛けられた雷の魔術でレグルスの体がびくりと跳ねるが、それでも彼は起き上がらない。
ラクリマルムはその光景を一瞥もせずに言葉を続ける。
「いささか危うい所もあったが、これで試合は五分と五分……されど戯れはこれにて終いにせねばなるまい。のう、ウルラウス?」
「……仰る意味が分かりかねます」
「道理の分からぬ凡夫という訳でもあるまいに」
私は廻る思考の中から言葉を紡ごうと必死で努力する。だが熱気を含んだ空気のせいか、それとも私を見据える赤々と燃える眼のせいか。渇いた喉と舌は、ありもしない唾を飲み込む真似事を繰り返すだけだった。
視界がぐらりと歪み、木々のさざめきが響きわたる。ただただ視線を交わす私たちの無限にも思える永い沈黙を破ったのは、彼女でも私でもなかった。
「まだ……試合は決まって、ない……」
地面に倒れたままのレグルスが、ラクリマルムの足首を掴んで言った。
「ふむ、確かに試合は終わっておらぬ。だが……勝負はたった今決まった」
「ど、どういう意味で……ぐっ」
ラクリマルムはレグルスの手を素気無く杖で打ち払うと、神殿へと歩を進めながら私に言った。
「ひとまず治療してやれ。話はそれからだ」
アトリウムの天窓から吹き込む涼やかな風が、雨水盤に燃える夕陽を穏やかに揺らす。
レグルスに応急処置を施した後、本格的な治療のために許しを得て神殿の中へと場所を移した。彼女がマーティアに命じて用意した回復霊薬を併用したこともあってか、レグルスの負傷は一刻ほどで完治し意識も取り戻した。それでも失った魔力と体力までは戻らないので、少なくとも今日一日の間は絶対安静である。
食堂から運んできた長椅子へ横たわるレグルスが、ラクリマルムに改めて声を掛ける。
「それで、どういう意味なのさ。勝負は決まったって」
「んむ? ああ、あれか…………マーティア」
ラクリマルムは読んでいた冊子本をマーティアへ渡し、レグルスの寝る長椅子へ小さく腰を掛け言った。
「そうさな……この勝負はそもそも『マルゼニアリアの誓約』による契約魔術によって始まったものだ。そこでだレグルス。この魔術によって定められた契約を違えた者はどうなる?」
「えっと。死んじゃう?」
「左様、死ぬ事になるな。では神位精霊たるわらわが契約魔術に違えるとどうなる?」
「……うーん、どうなるんだろう?」
レグルスが言い淀んで口を噤んだ後、全員の視線が私にゆっくりと集まる。
……ここ愚者を演じた所でどうにもならないだろう。人間性など期待できぬ神々に自分たちの命運を託す事には不安しか無いが、やんぬるかな現状で手は他になし。仕方なく口を開く。
「……精霊学の基本に基づけば、力ある精霊は契約魔術に違えたとしても、完全に消滅するような事態にはなりません。精霊の魂と我々の魂とでは仕組みが異なりますからね。現世に留まる力を失った精霊の魂は一度冥府へと墜ちますが、しばらくすればその性質や形を変えずして再び現世へと戻って来るのです」
「じゃあ何で戦いになったのさ。マルムにとって契約魔術が意味無いなら、戦う意味も無いじゃないか」レグルスは私を少し不満げに睨んで言った。
「もっともな疑問です、レグルス。しかし精霊が消滅しないからといって、契約魔術が無意味という事にはならないのですよ」
「どういうこと?」
「現世で積み重ねた穢れが取り去られるまで、冥府に堕ちた魂は忘却の河に留まる事になります。それは精霊とて例外ではありません。神龍ともなればそうそう死ぬような事態には陥らないでしょうから、それなりの時間を冥府で費やす事になるかと……」
「――それもいつかは終わる。わらわが過ごす久遠の流れの中では束の間の出来事よ」
ラクリマルムが話に割って入った。私の回答はお気に召したようだ。
「『まことの歴史』を手中に収むる好機をみすみす逃すのは惜しいが、何の事はない。また待てば良いのだ、これまでもそうして来たように。わらわに時間はいくらでもあるゆえな。だがそなたたちは事情が異なる。そうであろう?」
彼女は不敵な笑みを浮かべながら続ける。
「要するに矜恃の問題なのだ。うまうまとそなたらの策に乗せられた手前、尾を巻いて引き下がる訳にはいくまい、とな」
「その割には大層慌ててらっしゃるように見受けられましたが?」
したり顔を決めるラクリマルムに背後から冷たい言葉が浴びせられる。
「マ、マーティア。その、なんだ……見ておったのか」
「見ていましたとも。そこなクズ共がラクリマルム様に危害を加えんと良からぬ企みを抱いているのではないかと。事実、その心配は的中した訳です。やはり冒険者という連中は信用なりません」
「むう……」
ゆらゆら揺れていたラクリマルムの尻尾が、力なく垂れ下がった。どうも本人の感情と連動しているようだ、興味深いな。
……いや、そんな観察をしている場合ではない。この話の流れでは陛下の病を癒やす機会を逃す事になる。典医の見立てでは陛下にそれ程の時間は残されていないのだ。何とか挽回せねばなるまい。
「このウルラウス、確かにラクリマルム様の事を侮っていた事は白状致します。されどその驕りはもはや打ち払い、今残るは崇敬と畏れの念のみ。必ずや私が身命を賭してラクリマルム様の本懐を遂げられるように……」
「貴様! 聞いてもおらん事をべらべらと! ラクリマルム様を謀って意のままに操ろうなどと不遜な企みを抱いた分際で!!」
「まあまあ、マーティア。少し落ち着け」
「ですが……!」
「そなたの心配は有り難いが、わらわの話も聞いてはくれぬかの?」
「…………差し出口が過ぎました。どうかお許しを」
手を振って返事をしたラクリマルムに、マーティアは一礼してから部屋の壁沿いへと控えた。それでもマーティアの水宝玉のような眼は敵意に歪み、凍てつく視線を私に投げかけていた。
そんな彼女を一瞥したラクリマルムは苦笑いを浮かべたあと、私の方へと向き直り口を開いた。
「ウルラウス、なあウルラウスよ。わらわはそなたを赦そうと思う。過ちは人の常なるゆえな」
「では……」口を挟みかけた私を、彼女は手で制して続けた。
「そなたらの処遇をマーティアの思うままにしても良かったのだが、それでは旧き友に申し訳が付かぬというもの。きっと奴は悲しむだろうてな。感謝するが良い、そなたたちも良く知るわらわの旧き友に」
旧き友? 何を言って…………にわかに背筋へ悪寒が走る。彼女は一体いつから、いつからこんな眼をしていたのか。
爛々と、赤々と、煌々としたその鮮やかな紅玉の様な瞳。敵意と憎しみの視線を投げるマーティアの眼の方がよっぽど健全に思える、例えようのない感情に満ちた瞳。
言葉を失った私の耳に飛び込んで来たのは、私にとっても懐かしい私が冒険者を志す切っ掛け、かつて父から聞かされた冒険譚で登場した名前だった。
「嗚呼、吾が旧き友アニケトスよ。再び相見えるのが待ちきれぬわ。なあマーティア、そなたもそう思うであろう?」
七回の一次通過してたので、しめやかに再開。