第一話:賽は投げられた
目の前が白黒にチカチカと点滅していた。
酷い痛みが身体から力を奪って行く。
これはアレだな。小さな頃にブランコから飛び降りて、腕を骨折した時と同じぐらいの……いや、もっとだ。あんなものは比較にならないほどに痛い。生暖かさが広がって、ゆび先から始まった冷たさと痺れがぜん身をおおってゆく。あたりがゆっくりになって、じかんがとまる。
どうしてこんなことになったんだろう…………
――数時間前、わたしは一人で下校した。
今日もいつもの様に隣町のファミレスまで移動して、暫くのあいだノートパソコンと向かい合う。誰にも邪魔される事のない至福の時だ。
ここなら、同じ学校の誰にも、家族や近所の人にも会う事なく、心ゆくまで執筆活動に専念出来る。いや、心ゆくまでは言い過ぎだ。門限があるから、後三時間程で一話を書き終えなければならない。
わたしの名前は音樹 真琴。
ネットに小説を投稿するのが趣味の、ちょっぴり内気だけど、気の良い友達に恵まれたごく普通の女子高生、いわゆるJKだ。
……嘘である。
本当はどうやって会話するのかが分からないから、休み時間には眠っている振りをして、ひたすら想像の世界に浸る哀れな女子孤高生。いわゆるJKだ。
入学して間もなくのレクリエーションで、数年来のマイブームであるローマ帝国の事を熱く語った時の皆の顔は未だに忘れる事が出来ない。ラテン語での挨拶を完璧にこなし、折角プラケンタとマッシュルームの蜂蜜煮を作ったのに、料理は没収された挙げ句、今では『出エジプト記』のモーセもびっくりな勢いで同級生の海が割れるのだから、困ったものだ。
それからと言うものの、わたしは前向きに想像と創造に、今まで以上に打ち込む事にしたのだ。
現在執筆中の長編は、剣と魔法の異世界転生ファンタジー『転生したら救国の巫女でした』
わたしと同じく、歴史と文学をこよなく愛する美少女高校生が、最強魔法で敵をバッサバッサとなぎ倒す、良くあるヤツだ。
残念ながら良くありすぎたのか未だ一件の評価を得るに至っていないが、わたしは別に気にしていない。本当だ。誰も見ていなくたって今は書く事自体が楽しいのだ。
……嘘である。
本当はある日、突如ランキング一位に踊り出て、色々な出版社から引く手あまたの超人気作家になって、相次ぐアニメ化でわたしを聖人に仕立て上げた連中を見返してやりたい気持ちで一杯だ。
燃えさかるルサンチマンを胸に秘めながら、今日の執筆作業を急ぐ。ファミレスの店員がこちらをチラチラ見ながら冷房のボタンを連打しているのが見えたからだ。
だが、わたしを凍えさせようたってそうはいかない。すかさずドリンクバーを往復してコーンポタージュを胃に流し込む。冷房魔法を駆使する流石の店員も、就業中にポタージュ戦法を実行する訳にはいかないだろう。奴らは自らの魔術によって滅びる事になるのだ。この勝負、わたしの勝ちだな。くはははっ。
そんな攻防を頭の中で繰り広げていたら、長時間の居座りはご遠慮下さい、とやんわり苦言を呈されてしまった。どのみち、あと少しで書き終える所だったので、今日はこの辺にしておいてやろうと清算を済ませて、残りは帰りの電車の中で書く事にした。
帰り際、器用な事に店員が至極渋い笑顔という奇跡の表情で別れの挨拶をしてきたので、わたしも「また来ます」と精一杯の笑顔で返してやった。
また明日も来るからよろしくな!
駅までの道中、次の話のプロットを頭の中で練っておく。どうせ家で紙に書く事になるのだが、何も無い状態で書き始めるより、ずっと上手く行くのだ。
頭の中でキャラクター達の会話を聞きながら、シーンを纏めて行く。半分想像の世界に足を突っ込みながら歩いていると、通行人とぶつかってしまった。
慌てて直ぐに謝りながら、クラウチングスタートの姿勢に移行する。もしぶつかったのが『ヤ』の付く非正規職業の人間だった場合、大変な事態になるからだ。
もっとも、本来のわたしなら華麗にムーンサルトを、ヤツの顎先に決めて意識を狩り落とすのだが、今日はファミレス店員との戦闘でマジックポイントを使い切ってしまっている。そういう訳で、わたしは五十メートル九秒の健脚を披露するハメになっているのだ。
いざ、走りださん! と思ったその時、急に後ろ髪を引かれた。慣用句とかでは無く、この何者かは現実にわたしのおさげを握りしめているのだ。
いやぁ、首が引っこ抜けなくて良かったね! ではない。
わたしは極力頭皮にダメージが向かわぬ様に振り向き、
『バカヤロウ! このアタイのおさげを引っ張るたぁ、言語道断ッ!』
勿論、嘘である。
「あ、あの。ホントすみません! 今持ってるお金全部あげますからっ!」
現実は非情だ。
見ず知らずの相手に大見得が切れるぐらいならば、華やかであるべき学園生活で孤独な聖人生活などしていないのだ。わたしは直ぐさまドゲザスタイルにシフトしようとした。だが、残念な事におさげは未だ囚われの身であったので、スタイルチェンジは不可能だった。
いい加減に手を離せよな、と心の中で毒づく。わたしの想像世界では既にこの、未だ目視出来ぬイマジナリーヤクザをボコボコにしている。
現実は猛犬に震える子猫であろうが、心に獅子を飼う。わたしはそれで満足なのだ。
どうやら悟りを開けたようだな。もっとも、この状況で悟ったからと言って何かの役に立つ訳ではないのだが。
ああ、今から有り金を全て巻き上げられ、右の頬も左の頬も打たれてしまうのだなぁ、と全てを諦めかけていたその時、意外にも頭上からは優しい少女の声が降ってきた。
おもむろに頭を上げると、そこにはわたしと全く同じ制服を着た、艶やかな黒い髪を腰元まで伸ばした女子高校生がたたずんでいた。ワイシャツの襟に結んだリボンを見たところ、わたしと同じ赤色だったので同学年なのは確かだろう。
だが、その顔に見覚えは無かった。まぁ、わたしの高校は同学年だけでもかなりの生徒数の上、現在のわたしはステルス・モーセスタイルなので、仮に見知った顔だったとしても、わたしの脳内メモリーからは消去されている事は間違いないけどね。
わたしが彼女の顔を呆然と見つめていると――正確には、同年代の人間と話す機会があまりにもなさ過ぎた故に、言い出す言葉が見つからなかったのだが――あまりにも意外な言葉が耳に飛び込んで来た。
「真琴さんですね? 私、貴女の小説『転生したら救国の巫女でした』のファンなんです」
わたしは言いたい事があまりにも多過ぎて口をぱくぱくさせていた。わたしの小説にファンが居たなんて! 今すぐにでも走り回って叫びたい衝動に駆られる。わたしの創作は決して日の目を見ることのないアウトサイダー・アートなんかでは無かったのだ。まぁ、ファンなら高評価を付けるとか、お気に入り登録してくれるとかしてくれても良いけどな!
「わ、わ、わたしの小説、よ、読んでくれたんですね!」
当たり前の事を繰り替えす自分の愚かさを呪いたかったが、彼女はそんなわたしの痴態も鷹揚に受け止め、賞賛の言葉を紡いだ。
「とっても良く練られた設定だと思います。心弾む冒険、彩る魔法、そして慈悲の無い戦争。この物語の中に入って生活出来たらどんなに楽しいでしょうって思うんです。真琴さん、貴女もそう思いませんか? きっとそうですよね?」
うんうん、と頷きかけて止まる。確かにファンタジーの世界は魅力的だが、現実に生活するとなると実に微妙な所だ。いつでも食料調達出来るコンビニはないし、執筆に集中出来るファミレスもない。まぁ、ファミレスは時たまヒマラヤ山脈かと思うぐらいの凍える風が吹きすさぶが。
それ以外にだってパソコンもない、インターネットもない、スマートフォンもない。いや、待てよ。スマートフォンは持って行ける可能性があるかも……
いやいや、ともかく現代より不便極まる古代に飛ぶなんてもっての他だ。治安は悪いだろうし、戦争なんてごめんだ。
色々な考えが頭を過ぎる中、奇妙な事に気がついた。
……このひとは何故わたしの名前を知っている?
いや、馬鹿な考えだ。きっとどこかでわたしの名前を聞いたのだろう。何しろ学園のモーセだ、評判はともかくわたしの名前は結構……
違う、このおさげ引っ張り女はわたしが『転生したら救国の巫女でした』の作者だと知っている。誰にも言った事ないのに。そもそも本名で投稿なんてしていない。
不意に背筋に寒気を覚えた。
目の前に立つ女は一歩わたしに詰め寄る。
「本当に転生してみれば、きっと貴女も楽しめると思いますよ?」
もう一歩にじり寄って来る。
女の顔は目と鼻の先なのに、彼女の顔を直視出来ない。
ただ、裂ける様に大きく歪んだ口で嗤っているのだけは分かった。
今すぐこの場を離れなければ。
けれど、わたしの身体は石の様に固まって動かなかった。
「さあ、えんりょはいりませんよ」
唐突に、胸元に異物感を覚える。丁度心臓のあたりからトキを象った短剣が生えて……
いや違う、刺さっていた。服を貫き、肉を掻き分け、骨の隙間を通って。
強烈な痛み。
めい滅するし界。
むしばむ冷き。
止まりゆくじかん。
ひびきわたるわらいごえ。
シかいがまっくらになってとだえた。