第十話:雲の後には陽が輝く
暖かな空気に包まれたわたしの頬を、心地よい風が優しく撫でた。
何が起きたのか理解は出来ていないが、わたしはどうも寝ていたらしい。確かマーティアと闘っている最中だったはずだ。勝負は圧倒的にわたしの優勢だったと思うが、今この状態を見るに至り、意識無く負けたのだろう。
でも、そんな事はどうでもいい。今はマーティアの無事を確認しなければならない。わたしは間違っていたのだ。自分のイラつきを事も有ろうに彼女にぶつけてしまうなんて。
わたしは間違っていた。マーティアはわたしの『子供』なのだ。ラクリマルムがマーティアを造り上げたという事でなく、創作者である『わたしの子供』という意味でだ。
物語を創った『わたし』は、キャラクターの運命を自由に定める事が出来る。だがそれは、わたしがキャラクターの運命を自由に定める『権利』を持っているという意味では無い。
キャラクターには、キャラクターが歩んできた道筋があって、それに従って適切な宿命を決めてやらねばならない。わたしの気分一つで運命をねじ曲げるのは決して許される事では無い。もし自分の胸三寸でキャラクターをどうにでも出来ると思い込んでいるのならば、それは創作者としての傲慢さに他ならない。
だから、わたしがマーティアに抱いた気持ちは間違っていたのだ。マーティアはマーティアとして生きている。わたしはラクリマルムとして生を転じたのならば、ラクリマルムとして生きねばならない。
だが、もちろん元々の物語通りに悪事を働き、死に向かい行く運命を受け入れるつもりはない。ただ、ラクリマルムをそれらしく演じようというだけだ。
ひとまず状況を確認したいが、わたしの四肢はピクリとも動かない。どうも横向きに寝ているんだろうというのは分かるが、全身が麻痺した様な緩い感覚が全身を包んでいる。起き上がろうという気力すら湧いてこない。まぶたは重く、集中する事でようやく目を開けて、初めて自分の状態を認識する。
目の前を束ねられた羽根がひらひら左右に揺れていた。
「……お目覚めになりましたか、マルム様」
マーティアの声だった。揺れる羽根は扇で、彼女はわたしに向けてゆっくりと風を送っていた。
わたしは窪んだ壁に据えられた寝台に寝かされていた。鮮やかな紫に染められた絹の掛け布団がわたしを包み、斜めに差し込む陽の光が部屋を照らす。
背もたれの無い椅子に座ったマーティアが、近くに置かれた三脚机の上の盆に扇を置いてわたしの様子を窺う。見たところ彼女に怪我は無さそうだったが、右手を負傷した時も努めてわたしの目から隠す様にしていたので、聞いてみなければ分からない。
「マーティア、大事無いか? 本当に済まぬ。わらわはそなたを……」
状態を聞こうとしただけだったが、自然と罪悪感からか謝罪の言葉がこぼれた。だが、なんと言えばいいのか。声が詰まって口ごもってしまう。
「マルム様が謝られる必要などありません。私の方こそ、僕にあるまじき不遜な態度をお詫びせねばなりません」
マーティアは穏やかな口調で続けた。
「今までと変わり過ぎていた事が、私は不安だったのです。私はラクリマルム様がマルム様となられた事を受け入れきれず、私の思うラクリマルム様を押しつけようとしました。ですがそれは無益な事。私は『神龍ラクリマルム』という存在にお仕えする事を誓ったのです。たとえ姿形や精神が変わろうとも、私は『本質』にこそ敬意を払わなければならなかったのです」
わたしがわたしを通そうとして、マーティアも不安だったんだろう。この世界に足を踏み入れておきながら、元の世界のわたしでいようとした。『郷に入っては郷に従え』とは少し違うが、わたしはもっとラクリマルムに合わせるべきだった。
マーティアは申し訳無さそうに言葉を続ける。
「私は些か図に乗っていたようです。マルム様が本気で魔術を私に放たれた時、自らの過ちに気づきました。私が仕えているのは神龍であったと。理解している様で、まるきり理解などしていなかったのです。 ……その上で申し上げますが、もしマルム様がお望みであれば如何様にでも」
「その様な事は望んでおらぬ! ……結局そなたには一度も勝てなんだ。負けた者は潔く勝者に従うが筋であろう」
「……恐れながら、マルム様。最後の試合で負けたのは私の方にございます。マルム様が星を喚んだ後、私は全ての魔力を防護呪文に注ぎました。ゆえに修練石を保持する為の魔力が確保出来ず、私は石を地に投げたのです。その時点で勝敗は決しましたが、ひとまず降る星を防ぎません事には命の危険がございました。私は余りの修練石を集めて防御しておりました所、突然マルム様がお倒れになったのです」
そういう流れだったんだ。思い起こせば最後の闘いでマーティアの発言は何も聞こえなかった。正しくはわたしが全ての言葉をシャットアウトしていたのだろう。あの時マーティアがわたしに何か言っていたのであれば、本当に申し訳無い事をした。
「それは…… 迷惑を掛けた、本当に済まぬ……」
「いえ、試合中の事にございます。重ねて申し上げますが、マルム様が謝られる理由など無いのです。とはいえ、防御の為に結界の魔力を殆ど消費してしまいましたので、恐れ入りますが少しばかり力をお貸し頂きたく存じます」
そう言ってマーティアは三脚机に置いていた盆から盃を手に取って言った。
「こちらはネクタールの原液『万能霊薬』です。些か飲みづらいかと存じますが現在マルム様は魔力が枯渇しておりますゆえ。何卒堪えて頂きたく」
わたしは頷いて、マーティアに身体を起こしてもらう。彼女はわたしの背を手で支えながら、盃を口に当てた。とりあえず盃から万能霊薬を一口飲んでみる。
……マッズ! もう、あれだ。もう一杯とかそんな冗談を飛ばしている次元では無い。濃縮された苦みと、ケミカルな桃フレーバーが口の中を蹂躙する。香水の原液を口に突っ込まれた様だ。まさに香りの絨毯爆撃や!
ただ、わざわざマーティアが用意してくれた霊薬だ。確か『万能霊薬』は尋常で無く貴重なアイテムで、物語中に一度か二度ぐらいしか登場しないうえに、あったとしても盃一杯では無く小さな小瓶程度だ。ただ、それだけに効力は絶大で、小瓶の万能霊薬で熟練の魔術師が使い果たした魔力を全回復したうえ、魔力の残滓で傷も癒える程だ。
そんな訳で今回も無理をして飲み干す事にする。味は筆舌に尽くしがたいが、不思議な事に身体にするすると入って行く。普段は全然飲まないお茶を、夏場の極限に乾いた状態で飲む感覚に近いだろうか。とにもかくにも、身体が今これを欲しているという事なのだろう。
わたしが霊薬を飲むに合わせマーティアが盃を傾ける。あっという間に霊薬は無くなり、気だるさが身体を巡る流れに乗せられながら無くなって行くのを感じた。
マーティアが空になった盃を盆に戻して、わたしに尋ねる。
「マルム様、身体の調子は如何でしょうか?」
手をニギニギして調子を確かめる。痺れは取れ、四肢は自由に動く。全身を覆う倦怠感は消え失せ、心臓の辺りに籠もる熱を感じる。居ても立ってもいられない様な、エネルギーが有り余る感覚だ。
「うむ。すこぶる良いぞ、マーティア。さあ、わらわが成すべき事を教えてくれ。わらわは役割を果たす事に決めたのだ。そなたの言うラクリマルムの役割をな。今こそ勤めを果たそうではないか」
わたしはマーティアをしっかり見据えて言う。どんな謝罪の言葉であれ、彼女は受け取らないだろう。ならば、わたしがマーティアの為にやるべき事は決まっている。マーティアの理想とするラクリマルムでいる事。それがこの世界に転生したわたしの役割なのだ。
わたしの言葉を聞いたマーティアは伏し目がちな表情を消し、穏やかな笑みで返した。
「畏まりました。不肖マーティア、マルム様の忠実なる僕としてご案内させて頂きます」