ウェラ・ヒストリア
「これから私が記す全ての事柄は私が見たものでも、
経験したものでも、ましてや誰かから聞いたものでもない、
全く真実でなく、到底起こり得ないような事について書いている。
従って読者に警告しておくが、
この物語を信じることのないようにお願い申し上げる」
――サモサタのルキアノス 『真実の歴史』
深い紅の水面が不規則なリズムで揺れ続ける。硝子の盃に満たされた葡萄酒のさざ波は、月の光を受けて複雑な影を机へと映す。その様子を一人の少女が柘榴石で飾られた豪奢な寝台から虚ろな目で眺めていた。
彼女は繰り返される光景にまどろみに誘われ、葡萄酒よりも紅いその瞳を今まさに閉じようとしていた。
不意に慌ただしい声が大きく響き渡り、寝所の扉が勢いよく開く。
「マルム様! マルム様はおられるか!」
少女の身体を包む心地よい気だるさは一瞬にして吹き飛んだ。
いささか乱暴に扉を開け放ったのは、筋骨隆々の大柄な男。煌びやかな装飾が施された組立板金鎧に身を纏ったその姿は軍人以外の何者でもなく、甲冑は彼が一歩進む度に騒々しく音を立て、今が有事であることを嫌でも彼女に思い起こさせた。
「はあ、軍団長カマセストゥスよ。何ぞ異な事でも?」
マルムと呼ばれた少女はあからさまに不機嫌な声で言った。
カマセストゥス軍団長は片膝を突いて、恐る恐る言葉を発する。
「……お休み中の所、申し訳御座いません。先ほど伝令が……キュクノス議員の率いる第二軍団が敗走。同時に敵主力が正門に攻勢をかけております」
成程、道理で先頃から良く揺れるはずだと、マルムは冷ややかに笑いながら窓の外に目をやった。
眼下に広がるのは血と鉄と死臭。まさしくそこは戦場であった。
敵陣の攻城兵器からは次々に城壁へと弾丸が撃ちこまれ、着弾に合わせてマルムの部屋も揺れていた。
砲弾は大抵の場合変哲もない岩や太矢だったが、時折爆発や青い魔術の炎が上がることもあった。
側防塔の兵士は攻勢に歯止めをかけようと、死体の山を掻き分け懸命に敵へと弓をつがえるが、城壁は崩れていない方が珍しく、胸壁など見る影すら無い。反抗はもはや虚しい努力だった。
屈強な軍団長にかしずかれる少女マルムは、今まさに陥落せんとする領地アーテラメントゥム属州の総督であった。にもかかわらず彼女は燃えさかる自らの居城を、動かなくなって随分とたった獲物を見る猫の様に眺めていた。そんな上司の不適な態度を横目にカマセストゥスは言葉を続ける。
「……もはや我らは正門から敵を退ける程の戦力を保持しておらず、敵の侵入を許すは時間の問題かと思われます」
カマセストゥスは一度深く呼吸を整え、力を込めて言った。
「マルム様、伏して言上仕ります! 降伏の件、何卒ご再考を!属州総督マルム様におかれましては帝国に専心尽くした忠君愛国の士。叛意無きを誠心誠意陛下の前で申し開きなされば、陛下とて無下に扱うような事は決してありませぬかと!」
だがカマセストゥス必死の献言も虚しく、マルムはこれを一蹴した。
「ならぬ。降伏したければ、そなたたちだけでやればよい。わらわはここに残る」
「いい加減に目をお覚まし下さい! 我々は完全に失敗したのです!」
マルムのあまりにも歯牙にかけぬ態度に、つい声を荒らげた事をカマセストゥスは直ぐに後悔した。目の前に居る呆けた少女は先帝と莫逆の友であり、ニウァリスの連中による侵略戦争を質にも数にも劣る軍勢を操り見事にはね除けて見せた、まさに英雄と呼ぶにふさわしい女傑なのだ。マルム指揮の下、戦場を駆けたカマセストゥスにはそれが単なる噂話などではなく、紛れもない真実である事を知っていた。
だが、彼の後悔は次にマルムが発した言葉で吹き飛んだ。
「くふふっ。カマセストゥス、我らが失敗しただと? 勘違いも甚だしいな! よいか? 『わらわの叛逆は完璧に成功した』のだ!」
カマセストゥスの視界が歪んだ。言葉は確かに聞こえていた――だが、理解する事など出来るはずもなかった。
何万という兵士が、国家を担う重臣たちが、命を賭して戦場を這いずり回り、僅かな希望を信じて籠城の飢えに耐えたのも、勝利を信じて斃れていったのも、全て手中の内だったと。この戦で潰えた命は全て想定の内にあると、この少女は悪びれる様子も無く、したり顔で笑っているのだ。
カマセストゥスの手は自然と腰に帯びた短剣の柄に掛かっていた。素早く指へ力を込めいざ抜き放とうとしたその時、身体に甘ったるい痺れが流れそれからピクリとも動くことが出来なくなっていた。
カマセストゥスはここに至り、いつの間にか自らに手を向け、眼を赤々と輝かせているマルムに気がついた。
「無言詠唱かっ……!」気力を振り絞り、憎々しげに呟く。
「そう殺気立つなカマセストゥス。わらわとて無意味に兵を殺したりはせぬ。理由があるのだ」
マルムは至極穏やかな声で続けた。
「そなたとは昨日今日会った仲ではない。陛下に申し開きする代わりに、そなたに事の次第を教えて進ぜよう。なに、一晩もあれば終わる物語だ。『真実』を聞きたくはないか?」
彼女がそう言い終わった時カマセストゥスの痺れは取れ、硬直した筋肉はほどけた。抵抗は意味のないことだと改め痛感した彼は、その『真実』とやらを聞くことにしたが少しばかりの懸念があった。
「……分かりました、聞くだけ聞きましょう。ですが、一晩どころか一刻の猶予も無いように思えますが?」
カマセストゥスは憮然とした表情で顎を窓の外にしゃくった。攻城兵器の射撃は依然として絶え間なく、もう十数秒もすれば正門は門としての役割を終えそうであった。
「案ずるな、カマセストゥス」
マルムは盃を爪弾いた。
透き通った音が戦場の轟音の中、高らかに響き渡る。
暫くして再び盃を弾く。
間を置いて三度。そして……三度目のいななきが鳴り止むころ、戦場からは全ての音が消え失せていた。
唖然とするカマセストゥスに、マルムは不敵な笑みを浮かべながら盃を差し出して言った。
「さてカマセストゥス、どこから話そうか……」
長い夜の始まりであった。
習作の異世界転生ものです。
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次回からは一人称で進行して行きます。