ハチ → ク
翌日の午後、僕たちは喫茶店ナボコフにいた。ほとんど日課のように通っている。で、いつもと同じ飲み物が目の前にある。飽きたとは言えない。真理さんに睨まれるから。
「それで、村木さんは逃げる時、シュン君に何て言ったの? もう一度、よく思い出して言ってごらん」
ホットココアを優雅に飲みながら、真理さんが僕に尋ねた。
真理さんが、この質問を僕にするのは二回目だ。
「さあ? 」と曖昧に返した僕に、幸いにも真理さんが半眼にならずに訊いたのだ。もし、今度曖昧な返答をすると、途端に真理さんが半眼モードになるのは明らかだ。
僕は、村木さんが呟いた言葉を思い出そうと努力した。
あの時、高速状態から普通の状態に戻った僕は、目の前の惨状にあたふたしていたのだ。ニセ安岡がぎゃーぎゃー転げ回っていて血を流しているし、すぐに駆け寄って怪我の手当をしてやるのが良いのかどうか迷っていた。
そんな時に、村木さんが呟く声が聞こえたのだ。そして、村木さんはエレベータの方に向かって走った。真理さんと田畑君が非常扉から、「大丈夫だった? 」と顔を出した時には、村木さんはエレベーターに乗って消え去っていた。
真理さんがてきぱきとニセ安岡の止血を施し、それをやり終える頃にはサイレンの音も大きくなっていた。
「後は警察に任すわよ」
真理さんがそう言い、真理さんの指示に従って、僕たちはR宝石店のあるビルから警察関係の人たちに見つからないように逃げ出したのだった。
憎かった…。
そうだ、思い出した。確かに村木さんはこう呟いたのだ。「おばあさんを刺し殺した、あいつの手が憎かった」と。
「なるほどね」
それを聞いた真理さんが肯いた。
「どういうことね? 」
真理さんのニオイからは何も読みとれない田畑君が訊く。
「村木さんは、ニセ安岡。じゃない、津具森卓二の命を奪うことが目的じゃなかったってことよ」
「ますます、分からん」
田畑君が首をひねる。僕も首をひねっていた。ちなみに、津具森卓二とは、僕たちが今までニセ安岡と呼んでいた犯人の本当の名前だ。
「村木さんは、二度爆発物を仕掛けた。一度目は人形に。二度目はモデルガンに。でも爆発で死者が出るようなことは無かった。それから考えると、彼女は自分が仕掛けた爆弾によって死者が出ることは望んでいなかったのよ」
「じゃあ、村木さんはニセ安岡を憎んでいたけど、殺すつもりは無かったと? 」
「ええ、そうね。だから、あの時簡単に銃を奪われたのよ。彼に引き金を引かせるためにね。それに、殺すつもりなら爆弾の作り方にももっと工夫をしたでしょうよ」
その工夫というものが、どんなものなのか興味をもったが、それを尋ねると真理さんに叱られそうなので我慢した。
「で、一回目に人形に仕掛けた時に、火薬の量を少なくした。でも、その時には少なすぎて、津具森卓二に浅い傷しか負わせることが出来なかった。で、二回目にモデルガンに仕掛けた時には火薬の量を増やしたのよ。彼の両手を吹き飛ばすほどにね。そして、そのことによって彼女の目的は達成できた。後は司法が犯人を裁いてくれる」
「でも、相当危なかったんだよ。モデルガンの破片が村木さん目がけて飛んできてたんだから。僕がいなかったら、村木さんに当たって大怪我していたかもしれない」
「村木さんも、そのリスクは覚悟していたと思うわ。防刃ベストは着込んでいたかもしれないけど、高速で飛んでくる破片を防ぐには心許ないし、防刃ベストに守られていない所に当たったら致命傷になるかもしれないわ。それでも彼女は復讐したかったのよ。お祖母さんの仇を討つためにね」
僕はホットココアを一口飲んだ。程良い甘さが、僕にやすらぎを与えてくれた。
「復讐って、ある意味悲しいよね…」
ぽつりと言った僕の言葉に、真理さんと田畑君が同意するように首を縦に振った。
復讐といえば空さんだが、気は感じたものの、結局空さんはあの場に現れなかった。どうして彼は現れなかったのだろう?
その疑問を真理さんたちに向かって口にしていると、真理さんのためにシュークリームを運んできたピーチさんが、それを聞きつけてこう言った。
「シュン君が感じたという気、それは空の気じゃなかったのかもしれないわ」
「えっ? どういうことですか? 」
「空が憎んでいるのは、組織的に動いている犯罪グループなのよ。空の恋人だった子を拉致して殺害したのはそいつらだから。でも、その犯人たちは未だ見つかっていない。だから、組織的に犯罪に手を染めている者たちにターゲットを絞っている。あなた達が関わった今回の事件のような単独犯には、空は興味を示さないと思うわ」
空さんと双子のピーチさんが言うのだから、間違いないのだろう。
でも、それじゃあ、あの時僕が感じた気は何だったのだろう?
「もしかすっとな」
僕の頭の中に浮かんだ疑問をニオイで読み取った田畑君が口をはさんだ。
「わが輩も、ニオイで人の情報を読みとる時に気付いたことがあるんやけど、怒りとか悲しみとかの激しい感情の時には、違う人でも同じニオイがする時がある。だから、もしかすると空さんと同じく復讐という気を村木さんが放っていたかもしれん」
僕は、田畑君の解釈に納得がいった。そう思えばそのような気がする。確かにあの気は空さんのものとは微妙に違っていた。
でも、その気はあの時、僕の身体をゾクッとふるわせた。あの寒気こそが、復讐という気がもっている正体なのかもしれない。
そして、村木さんもまた、空さんと同じようになってしまうのだろうか?
僕がそう思った時、またニオイで僕の考えを読みとったのか、田畑君が言った。
「あれ? シュン君知らんかったと。もうてっきり知っとるもんと思っとった」
「何のこと? 」
「村木さん、もうとっくに家に戻って来ているわよ」
真理さんが、田畑君と僕とのやりとりから、何のことか察したのか、そう言った。
「え、えー。じゃあ、知らなかったのは僕だけ? 」
「そのようね」
「そ、それで、村木さんは警察に捕まったりしないの? 」
「まあ、鶴ちゃんは村木さんが事件に関わっていたことは知っているかもしれないけど、鶴ちゃんがそれを言わない限り分からないでしょうから」
「え、そんな大事なこと秘密にしてていいの? 」
「鶴ちゃんは警察に協力はしているけど、警察の一員じゃないもの。それに村木さんの将来を考えれば、言わないことが正義だと思ったのでしょうね。でね、村木さんが聖技能学園を受験しなかった理由を調べてみて分かったことがあるの。彼女はね、能力の使い方次第ではダークサイドの人間になってしまう危険性があった。彼女も自分でそれに気付いていたのね。思い出してみて、あの変装の能力や演技力。そして爆発物を自在につくることができる力。ただ、それを制御できる自制心が伴っているならば問題無いのだけど、彼女は復讐という感情で自制心という枷を外してしまった」
確かにそうだ。僕の能力(鍵開け・贋作)もダークサイドに近いだけによく分かる。僕が欲望をもってしまって、ダークサイドに走ったら大変なことになる。
「だから、彼女はいつそうなってしまうかもしれない自分を恥じて聖技能学園を受験しなかった。でも今回のことで、村木さんは気がついているはずよ。復讐という負の感情は、幸福感や満足感を彼女にもたらすことはなかった。結局彼女が感じたものは、虚しさだけだった。そのことを感じただけでも、彼女は自分がやったことに対して充分に罰を受けたのだと思うわ」
憎かった…、と呟いた、あの時の村木さんの顔が鮮やかに甦った。
村木さんは、辛そうな表情で、その目には涙が溢れていた。
そうだ。村木さんはあの時、きっと後悔していたんだ。
僕は、そう信じている。
ク(それは、僕にとっての苦)
本橋花菜さんから、真理さんを経由して僕宛に手紙が届いた。SNSの時代に手紙とはずいぶん古風だが、その方がものすごく嬉しい。
ドキドキしながら封を切ろうとした僕に向かって、真理さんがニタリと口角を上げながら言った。
「シュン君、期待に鼻の穴を膨らませているところに、水を差すようで悪いんだけど」
「な、何かな? 」
僕は膨らんでいるという鼻の穴のことなんか気にせずに、笑顔で訊き返した。
「宛名のところ、もう一度よーく見直してみてね」
「えっ? 」
悪い予感がした。その予感は的中してしまった。宛名にはこう書かれていた。
『柊 ジュン子様』
様の下には、小さくハートマークが描かれていた。鈍感な僕でも、この手紙の内容を察することができた。これは、女装した時のもう一人の僕、ジュン子に対してのラブレターなのだと。
ある意味嬉しいけど、つらいよぉ!
第二話「アンティークドールは語らない」完結しました。読んでいただきありがとうございました。
第三作目、ただ今執筆中です。