第9話 転落
新学期の前日退院した志岐君は、芸能1組フロアから二階の私と同じフロアに移ってきた。思いがけない幸運に、引越しをそっと覗きに行った私は、志岐君の変貌に驚いた。
(ま、まさかあの殿上人は……!)
髪が少し伸びた上に、入院で動けなかったせいで筋肉が落ち、太かった太ももや腰がすっかりスリムになって見事な曲線を描いている。
これまでの服がだぶついて、少し不恰好にはなっているが、これは夢にまでみた芸術的な体型を取り戻しつつあるようだ。
五百円ハゲも、もう少し髪が伸びれば分からなくなりそうだ。
(う、うつくしい……)
私は開け放した部屋に荷物を運び込む志岐君を、壁に張り付き、ドアの隙間に隠れ片目を出し、果ては段ボールのゴミをついたてに、右から左から垣間見た。
あまりの感動にうち震えていた私は、背後に大勢の人の気配を感じ、慌てて女子トイレに隠れた。
「おい、志岐。
荷物を置いたら三年の階からトイレ掃除って言ったろ。
早くしろよ!」
それを聞いて寮の掃除をしながら置いてもらう方になったのだと分かった。
退院したと言っても、まだギプスはついてるのに、なんて非情な社長に先輩達。
「はいっ! すぐ行きます!」
志岐君は爽やかに返事をして、駆けて行ったようだ。
「けっ! 今まで特別扱いしてやって損したぜ。俺達の夢を砕きやがって!」
「エースがいなきゃ、こんな新設校で甲子園なんか行けるわけねえだろ!」
「俺達の野球人生も終わったな」
「野球人生どころか、野球部解散の噂もあるぜ。そうなったら俺達退学かよ!」
「全部志岐のせいだ!」
散々悪態をつきながら去って行く先輩達の声が聞こえた。
(ひどい。
みんななんて勝手な事ばかり。
一番傷ついてるのは志岐君なのに……)
トイレ掃除なんて……。
トイレ掃除なんて……。
トイレ掃除をする志岐君も美しいだろうなと思い浮かべて、慌てて頭を振った。
妄想している場合ではなかった。
覗きに行きたい衝動を自制して、ぐっとこらえた。
嫌な予感は夕食時間の食堂で的中した。
志岐君が来るまで居座ってやろうと、食堂に居続けた私は、終わりギリギリにおかやんに支えられて来た志岐君に青ざめた。
せっかく伸びた髪はバリカンでざんばらに刈られ、明らかに殴られた跡が顔といい体といいあちこちについている。
背中には足型があるから蹴られてもいる。
「どうしたのっ! 志岐君っ!」
決して領域に踏み込むつもりのなかった私も、思わず叫んで駆け寄っていた。
「先輩達にね……。
みんな鬱憤が溜まってるからさ」
おかやんが困ったように代返した。
「ひどいっ! こんなの!
いじめどころか傷害よ!
社長に言いつけるわ!」
今にも駆け出しそうな私の腕を志岐君が掴んだ。
ドキリとする。
出来ればもう少し離れた位置から、一連の動きを見たかった。
「いい。分かってたから」
近くに立つ志岐君は見上げるほどに背が高く、傷を負ってもなお、えらから顎のラインの曲線は完璧で、あまりの美しさにむせび泣いてしまいそうだった。
「でも……」
「まねちゃん、定食を一つもらってきてよ。
早く食べないと、食事抜きになる」
おかやんが志岐君を近くの椅子に座らせながら頼んだ。
「分かった」
私は定食と一緒におしぼりを何枚か持ってきた。
おかやんに血を拭いてもらおうと思ったが、おかやんはマイバリカンを取ってくるからと行ってしまった。
志岐君に触れるなんてファンとして禁忌と思っていたが、非常事態だから仕方ない。
「滲みるかもしれないけど……」
私は痛々しい口元の血と、地面にこすり付けられたような頬の砂を拭いた。
結構滲みるはずなのに、表情には出ない。
少し残念。
「ありがとう。
えっと、まねちゃんだっけ?
前にジムで会ったよね」
たぶんまねが本名だと思ってるんだろう。
さしずめ真根真似子ぐらいに思ってるのだろうが、覚えていてくれたのが素直に嬉しかった。
次話タイトルは「志岐君という人」です