向日葵
その女は、どこにでもいるような女だった。小学校・中学校と公立の学校にすすみ、適度ないじめ、でも、けっして自殺しようなどと思いつめたりはせず、制服がかわいいというだけで、私立の女子高にすすんだ。
もともと制服に惹かれて入った学校だ。向上心などない。ぎりぎりの成績で卒業し、これまたぎりぎりのところでとある会社に入社した。
後は、お決まりのパターンだ。コピーにお茶くみ、月に一度の部で飲み会。ランチタイムには、同僚たちと食事をする。
別にそれがいやでもすきでもない。女にとっては、「決まりきった日常」だった。
その日も女は、定時に上がり、途中のスーパーで買い物をし、自宅のアパート(決してマンションなどというしゃれたものに住むお金は女にはない)でカレーを作った。
そして、TVをつけて、どこが面白いのかさっぱり分からない、お笑い芸人がどたばた走り回る、バラエティ番組を見る。見たいとも見たくないとも思わない。
ただ「見るだけ」だ。
女の人生は、いつもそうだ。自分から能動的に行動を起こしたことがない。
2ヶ月前に1年付き合っていた彼と別れた。原因は、お決まりの彼の浮気。その場は、職場の同僚に話し、飲みながら愚痴をいい、そして一晩たったらそのことを忘れたように働いていた。まるでそこだけが記憶から抜け落ちたように。たった2ヶ月しか経っていないのに、女はもうすでにその男の顔を思い出すことすらできない。
カレーを食べながら外を見ると、向かいのマンションが見えた。どこにでもあるファミリー向けのマンション。
夫が帰ってきて、いかにも五月蝿そうな子供がはしゃぎまわり、それを妻兼母親がしかっている。それからおとなしくなったところをみると、どうやら食事でもはじめたのだろう。
「お向かいもカレーかもしれない」
女は、ふと、だが確信を持ってそう思った。
女は、極めて平凡な人生を送ってきたが、ひとつだけ人とは違ったことがあった。それは、『念じるとそのとおりになってしまう』ということだ。
子供のときにいじめられ、相手の子なんて死んでしまえばいいと思った。するとその翌日、相手の子が火事で焼け死んだとのニュースが飛び込んできた。そのときは、偶然だろうと思った。だが、それ以降も女がなにかを思うとそのとおりになってしまう。だから、女は、考えるのをやめた。人に危害を与えないように、なにより自分が傷つかないために。
そうこうするうちに時計の針は、11時をさしている。毎朝、6時半に目覚めなければいけない女に夜更かしは、きつい。特に20代も後半にさしかかってくると。自分では、まだまだ若いと思っているが、職場の新人の子を見ると年齢差を思い知らされてしまう。そして、新人の子と自分への上司のあからさまに違う態度にも。
いつものようにシャワーを浴び、睡眠薬代わりにビールを一本飲んで寝る。そうしないと女は、眠ることができない。世間では、睡眠薬を飲んだほうが安全だと言っているが、そんなの自分には、関係ない。自分の生き方は、自分で決める。ただ、それだけだ。
翌日、きっちり6時半に目を覚まし、トーストとコーヒーだけの簡単な朝食をすまし、30分かけてメイクをして、45分電車に揺られて会社へと着く。同僚に朝の挨拶をし、上司にはきちんと頭をさげる。入社してまず叩き込まれたのがこの儀式だ。
そして、儀式から開放された女は、自分の机に向かい、パソコンを立ち上げる。始業時間までまだ時間はある。それまでにネットの世界に漂う情報に身をまかすのが、会社における、いや生活における女の唯一の楽しみだ。
女は、自宅にパソコンがない。2ヶ月前に別れた男は、今度の誕生日に自分にパソコンをくれると言った。だから、まだ買わなかった。もらう前に別れた。だから、まだ買っていない。ただ、それだけのことだ。わざわざ身銭を切ってまでパソコンを欲しいと思わない。
女には、モノに対する執着心がない。
本来ならプライベートにパソコンを使うのは、禁じられている。だが、暗黙の了解で社員のほとんど全員がネットの世界をただよっている。たとえ10分間という限られた時間でも。
いつものようにTOPページに登録してある、YAHOO!に飛んでみる。首相の靖国参拝、沖縄の在日米軍問題・・・いろいろあるが女は、全て興味がない。女が興味があるのは、占いだけだ。検索のところに「占い」と打ち込んで、いつものように今日の運勢を占う。馬鹿馬鹿しいと言われるかもしれないが、女にとっては、その占いが、ともすれば呼吸よりも大切なことである。なにしろそれがないと生きていけないのだから。今日は、どう振舞えばいいのか、どっちの足から踏み出し、同僚と何を話せばいいのか、女には分からない。
自分は、念じればなんでもできる、それを自覚してしまったときから、女は、占いに頼る人生を送ってきた。幼いときは、サイコロ。大きくなってからは、風水に動物占いもやった。だが、どれもピンとこない。そんな中、偶然発見したのが「向日葵占い」だった。
果たしてそれは、どんな占いかといえば、単純に生年月日を占うと、向日葵の顔の変化で今日の運勢、こうしたほうがいいというアドバイスをしてくれるだけのものだ。アンラッキーな日は、泣き顔。ラッキーな日は、笑い顔というように。幸いにして、その日の女の運勢は、笑い顔だった。安心して女が時計をみると、ちょうど始業1分前だ。ネットを落として、仕事の準備をはじめる。
事件は、昼前に起こった。女ができあがった書類を上司に渡そうと自分の席を立ち、歩き出した瞬間、世界が揺れた。最初、女は、地震かと思った。最近は、日本で地震が何度も起きているから、と。だが、そうでないのは、次の瞬間にはっきり分かった。まるでスローモーションのように近づいてくる床のカーペット、横に見えるアルミ製の机、自分がさっきまできちんと手にしていた書類が女と一緒に舞い落ちる、駆けつけてくる同僚の足、そこで女は、自分は倒れるのだと実感した。そして、意識を失った。
目が覚めると病院だった。倒れる前に着ていた制服は、脱がされ、患者服に着替えさせられている。まだ、頭は混乱しているが、とりあえず大事にはいたっていないようだ。女は、枕元にあるナースコールのボタンを押した。
「はい、どうしたました? あ、目が覚められたんですね」
髪をひっつめにして、今にもナース服がはちきれそうな、でも、人のよさそうな看護師が言った。
女は、尋ねた。
「あの・・・ここは、どこの病院なんですか?」
すると看護師は、答えた。
「福永市立東山病院ですよ」太った看護師は、にこにこしながらいう。
「大変でしたね。でも、あなたついていますよ。あれだけの事故に巻き込まれて、かすり傷程度ですんだんですから」
「事故・・・?」
女は、記憶を辿る。自分は、たしか会社で倒れたはずだ。事故になど巻き込まれていない。なにより「福永市立東山病院」など聞いたことない。
そもそも「福永市」さえ知らないのだ。
女は、再度、看護師に尋ねた。
「あの・・・私、会社で倒れたはずなんです。事故なんかに巻き込まれていなくて。それに福永市ってどこですか?」
すると看護師は、まるで子供をなだめるように
「事故のときに頭を強く打ちましたからね。その影響でしょう。先生からもしばらく安静にしていれば、退院できると言われていますから。あ、それからお名前は、なんておっしゃるんですか? 搬送されたときに、身元を確認するものを持っていらっしゃらなかったので」
女は、自分の住所と名前を告げた。太った看護師は、それを書き留めると、病室を出て行った。
女は、考えた。福永市って何? 事故ってどういうこと? 私は、会社で倒れたんじゃなかったの・・・?
やがてさっきの太った看護師とは、対極の痩せてぎすぎすした感じの医師がやってきた。名簿には、「山中」とある。
「あのね、ちょっとあなたに聞きたいことがあるの」
「はい、なんでしょうか?」
訝しげに女が尋ねると、その山中医師は、言った。
「あなたが言った名前も住所も存在しないのよ」
女は、その言葉に耳を疑った。OLなると同時に借りたアパート、28年付き合ってきた名前、忘れるはずがない。いくら2ヶ月前に別れた男の顔を思い出せないにしても。
そんな女の胸中になど全く興味がないように、意志は言葉を続ける。
「あなた、まさか嘘をついているんじゃないでしょうね? よくいるのよね。そういう人。多重債務者とか」
「違います! 私は、本当のことしか言っていません!!」
女は、叫んだが医師にその思いは、伝わらなかったようだ。
「ま、今はまだ興奮状態にあるみたいだから、このあと点滴を打ってもう少し様子を見ましょう。そうしたら、あなたも本当の住所や名前を思い出せるでしょうから」
女は、また違う!そうじゃない!!と叫んだ。ただし、自分の心の中でだけ。この医師に何を言っても無駄と思ったのだ。それで仕方なく頷いた。
「そう、ゆっくりしてなさい。すぐに点滴の用意をしてもらうから」
その言葉を最後に医師は、部屋を出て行った。
意識が戻ってから、さっきまで急にいろんなことがあったせいか、女はやっと病室の中を見渡すことができた。そこは、4人部屋であり、2つずつベッドが向かい合ってある。入院しているのは、女を含めてきっちり4人、皺くちゃの年寄り、中学生とおぼしき女の子、いかにも好奇心むき出しのおばさん、その3人が気づくと女を見ていた。女は、彼女たちの視線に耐え切れず、布団にもぐりこんで考えた。
いつ、どこで、なにが間違ったんだろう。私は私。それ以外の何者でもない。でも、それを否定された。いや、きっと何らかのミスで取り違えられたんだ。そうじゃないと、私という存在がなくなってしまう・・・。
そこまで考えたときに最初に目にした太った看護師がやってきた。そして申し訳なさそうに
「あのう・・・。いろいろ調べてみたんですが、やっぱりないんです。あなたの住所も名前も・・・。」
女は、絶望感に打ちのめされた。冗談だと信じたかった。これは、悪い夢、朝になったらいつもの生活がはじまるのだと。
「そうですか・・・。わかりました。」
女は、愁傷にうなずいた。こうなったらやることは、限られている。そのためには、今は、おとなしくしていなければならない。
女が倒れたのが昼前、そしていつの間にか眠ってしまったのだろう。起きたときには、すでに夕食の配膳がはじまっていた。各自、名前が書かれた名札が乗っている、トレイを手に食事をはじめる。だが、女のそれだけは、他のと違う。名札がない。空白だ。
またもや好奇のまなざしにさらされながらも女は、まるで無理やり石でも食べるように、食事を詰め込み、また、ベッドに横になった。
やがて、9時になり消灯時間になった。どの部屋も電気が消される。看護師が見回りにくるが、それも入り口からチラッと見るだけだ。バレることは、ない。女は、昼間から立てていた計画を実行に移した。
病院着を私服に着替え(なぜか倒れたときの私服は、血もつかずにベッド脇に置いてあった)スリッパを靴に履き替え、人気の無いのをみはからって、病院の外へと逃げだす。だが、ここがどこかもわからない。タクシーを呼ぶにもお金が無い。途方にくれた女がポケットに手をいれると、たまたま5000円札が出てきた。いつのか財布に入れる時間がなくて、とりあえずポケットにねじりこんでいた5000円だ。
女は、過去の自分に感謝しつつ、タクシーを捕まえ、現時点からどのくらい距離があるか分からない自分の家へと向かった。
病院代を踏み倒すつもりも、看護師や医師に心配をかけるつもりもない。ただ、自分は、まともだと証明したかったのだ。
やがて、タクシーは、女のアパートの前についた。料金を払い、アパートの前に降り立つと、安心感からか不意に泣きそうになってしまった。だが、ここは、泣いている場合ではない。自分の部屋の鍵を持ち、ドアを開ける。するとそこには・・・
女がいた。といっても、全く別人の女だ。部屋の内装も着ているものも女と同じ。だが、持ち主だけが違う。
今朝、飲み残したコーヒーも、大事に育ててやっと芽が伸びてきた観葉植物もそのままだ。違うのは、部屋の主人だけだ。あっけにとられて言葉が出ない女にたいし、その『女』は、のんきに
「どちら様ですか?」
とたずねてきた。なぜだか「ここは、私の部屋」とは言えずに、そのまま女は、アパートを飛び出してしまった。何も考えられなかった。だが、女はまだ希望を捨てていなかった。会社がある。会社にいけば社員がみんな自分のことを知っている、そして女は、社員のことを知っている。それに賭けて女は、一夜をネカフェで明かした。
翌日、いつも通りの時間に会社に出勤した。服装が昨日と同じだがこれは、仕方ない。なにより服装が同じならば、昨日倒れたこと、どこの病院に搬送されたかなど、会社の人間からきくことができるだろう。
そう思って女は、社内へと入っていった。すると周囲の視線がおかしい。誰もが女を遠巻きにして見ている。
「昨日、倒れたせい・・・?」
女は、自分にそう言い聞かせるが、不安は増幅するばかりだ。そこで思い切って、いつもランチを一緒にしている、同僚に話しかけようとした瞬間、昨晩、自分の部屋にいた『あの女』がやってきた。
そして、目の前で密談がはじまる。ボソボソとそれが女の耳にも入ってくる。
「誰? あの人」
「さぁ。新しく入った人じゃない? 私は知らないけど・・・」
女は、目の前が真っ暗になった。当てにしていた会社までだめだったのか・・・。
そう思うと次の瞬間、人を押しのけて会社の外に出ていた。
こぼれそうになる涙をせき止めることができない。私は、一体、誰なのだろう。私とは、何なのだろう。
人は、どうして「私が私である」と認知することができるのだろう。人から呼ばれるから? それともそう思い込んでいるだけだから?
今にも狂いそうな女の横で、これまた向日葵が狂ったように咲いていた。まるでこれから狂う女を暗示するように。