胡桃
奉納の舞を舞う事。
それは、巫女の仕事の一つだ。
神を慰めるため。
あるいは、楽しませるため。
様々な理由で舞われるそれは、大切な祭事でもある。
本来は神に奉納されるものではあるが、祭りで舞われるそれは、民の楽しみにもなっていた。
楽しみの少ない農村部では、特にその傾向が強く見られる。
民から見れば、神に奉納される舞というのは、神そのものに近しいものであるだろう。
だから、巫女は舞を疎かにしてはいけない。
美しく、優雅に、洗練された舞を見せること。
巫女にとってそれは、義務である。
それが、娘に舞を教える、狸の言であった。
言葉に即するように、狸が要求は非常に高い。
娘がいくらがんばろうが、納得の行く舞で無ければほめる事もなかった。
「まあ。一先ず、及第点といったところでしょう」
ようやくそう認められたのは、練習を始めて、随分と日にちが経ってからのことであった。
渋々発せられたような狸の言葉を聞き、娘は床の上にへたり込んだ。
この日も社の中で練習を始めてから、随分な時間が経っていた。
ぐったりとした様子の娘に、ヤマネが駆け寄っていく。
「みこさま、おつかれさまでございやした! いやぁ、おいら、みごとなまいっぷりに、かんぷくしやした! へぇ!」
「みごとかどーか、わかんねぇーです。がんばってるけど、たぬきさまぜんぜんほめてくれねぇーです」
口を尖らせる娘に、狸は眉根を吊り上げた。
「何を言っているのですか! よい踊りを奉納すれば、御岩様もきっとお喜びに成るのですよ? 御岩様からも、何か仰ってくださいまし!」
それまで端のほうで見守っていた岩は、急に話を振られ、表情を険しくした。
しばし考え込むように唸り、言葉を搾り出す。
「舞を間違えないかどうか、気が気ではなかった」
どうやら、奉納される立場というより、娘に近い立場で舞を見ていたらしい。
岩の物言いに、狸は苦い顔で眉間を押さえた。
最近、岩は感情が良く現れるようになってきている。
だが、それはおおよそ娘に関わる事であった。
それは神の立場というより、娘の保護者に近い。
「こんなことで、むらのしゅうのまえでおどれるか、ふあんです」
「みこさまのまいなら、まちがいありやせんとも!」
珍しく自信なさげな娘を、ヤマネが励ます。
そんな娘を見て、岩は表情を曇らせる。
だが、すぐに何かを思い出したかのように、社の戸を開けた。
「そろそろ、胡桃が食べごろのようだ」
「くるみ!?」
岩の言葉に、娘が身体を跳ね起す。
社の裏手ほど。
岩の近くには、胡桃の木が生えていた。
地面に落ちているものを拾い、水につけておき、皮を腐らせる。
きれいになったら、それを天日で乾燥させる。
以前に処理をしておいたものが、丁度乾燥し、食べる事が出来るようになっていた。
「おら、くるみすきです!」
娘は小躍りしそうな勢いで外に飛び出していくと、縁側においてあった胡桃のほうへとかけていく。
それを見た狸は、呆れたような顔を作る。
そして、苦笑を漏らした。
ヤマネを頭に乗せた娘は、すっかり胡桃に夢中になっている。
その様子を、岩がじっと見守っていた。
岩の顔には、以前は見られなかった、優しげな微笑が浮かんでいる。
「おら、ちからねぇーから、くるみわるのにがてです」
「どれ。割ってやろう」
そいういうと、岩は胡桃をいくつか手に取った。
歩いていく先にあるのは、岩の本体である。
岩は自身の本体、そのくぼみのあたりに胡桃を一つ乗せると、近くに転がる石に術をかけた。
石は独りでに中に浮き上がり、胡桃の上へと移動する。
そして。
凄まじい速さで、胡桃目掛けて落下していった。
硬いものがぶつかり合う音が響き、見事、胡桃の硬い殻は粉々に砕け散る。
「うわぁー! おっちゃま、すげぇーです!」
「さすが、おいわさま!」
娘とヤマネは、飛び上がって喜ぶ。
それを見る岩も、満足そうに笑っている。
狸だけが、青い顔をしていた。
まさか、奉られている本体を胡桃割りの台座に使うとは、思わなかったのだろう。
そういえば狸が仕えている土地神も、自身の本体を両手で掴み、胡桃を割るのに使っていた。
「いやぁー、これ美味しいんですよねぇー!」
等といいながら、実に嬉しそうに胡桃を叩いていたものである。
「どちらにも、自覚が足りませんね。威厳というのは大切なのに」
ため息をつきながらも、狸の顔はどこか楽しげであった。