牛
その日の里は、常にない賑わいを見せていた。
何ヶ月も前から来ることが決まっていた牛飼いが、その日移住してきたからだ。
牛は農家にとって、大切な労働力である。
これまでは畑を耕す時期になるとほかの里に牛を借りていたのだが、これからは逆に貸すことが出来るだろう。
当然牛の貸し借りには金が必要だから、それは牛飼いや、一部は里の蓄えにもなる。
牛の面倒を見るのは、なかなかの重労働だ。
牛飼いが四六時中面倒を見るものの、えさなどの用意は里全体ですることになる。
それでも、牛を飼う、里に牛飼いがいるというのは、村にとって大きな利点になることであった。
出来たばかりの牛小屋の前で、娘はしゃがみこみながら牛を眺めていた。
牛の体は大きく、娘の体は小さい。
隣に立つ岩は、娘が踏み潰されやしないかと落ち着かない心持でいた。
意外なことではあるのだが、普段の娘は慎重で警戒心が強い。
だが、好奇心がそれを上回ると、岩でも肝を冷やすようなことを平気でするのだ。
「うし、でっけぇーです」
「牛としては普通の大きさだ」
「でっけぇーから、はたけたがやすのも、にもつはこぶのも、たくさんできるです」
「人に比べれば、確かにそうだ」
娘と岩がそんな話をしていると、牛飼いがやってきた。
村には何度も顔を出しているようで、娘ともすでに顔なじみになっている。
岩も見知った顔であるので、特に気にすることはない。
「よお、おみよ坊。気をつけろよ、こいつらはおとなしいが、むやみに近づくと蹴られるぞ」
「うわぁ。こんなのにけられたら、おらしんじまうです」
「気をつけてさえいれば大丈夫だよ」
いやそうに顔をしかめる娘を見て、牛飼いは愉快そうに笑う。
それでも、娘は多少警戒心を持ったらしい。
牛を見据えながら、じりじりと後ろに下がっていく。
ずいぶん以上に離れているので、襲われることはまず無いだろうが。
「そういえば、おみよ坊。御岩様の社に引越しが済んだお参りに行こうと思うんだけどさ。おみよ坊があそこの巫女さんなんだろう? ちょっくら付き合ってくれよ」
「おっちゃまにほうこくするなら、いますればいいです」
「今すれば良いって、お、おいおい、まさか」
苦笑する牛飼いだったが、すぐに村長に聞かされた話を思い出す。
この里を守ってくださっている御岩様は、ときどき里に降りてくるのだ、と。
困惑しながら、牛飼いは周囲を見回した。
すぐそこに岩が立っているのだが、どうやら牛飼いには見えない様子だ。
「おっちゃま、うしかいのおっちゃまにみえてねぇーです」
「そうか」
娘に言われ、岩は周りを見渡した。
手頃な石を見つけると、ひょいと持ち上げる。
それを見た牛飼いは、ぎょっとした顔で腰を引き、尻餅をついた。
当然だろう。
牛飼いの目には、ひとりでに石が浮き上がったように見えたのだ。
泡を食う牛飼いに、娘は胸を張って告げる。
「おっちゃまがもちあげてるです」
「おっちゃまって、御岩様かっ!?」
牛飼いは慌てて座りなおし、地面に額を擦りつけた。
それを見た娘も、牛飼いの横で地面に手をつく。
そんな二人を、岩は不思議そうに眺める。
「おっちゃま、なんかゆーです」
そう促され、岩は初めて自分が拝まれているという事に思い当たった。
なるほど、そういえばこれは人が自分を拝む時に時折する姿勢だ。
そういえば先ほど、牛飼いは自分に用があるといっていなかったか。
たしか、引越しがどうとかいっていたような。
コレだけ近くで話していたのにも関わらず、岩は話を半分以上聞き流していた。
「何用か」
「おっちゃまが、なによーか、っていってるです」
すかさず、娘が牛飼いに岩の言葉を伝える。
「へ、へぇ! この度、この土地にすまわせていたたたくことになりやした、牛飼いのゴヘイともうしやす!」
緊張しながらも、牛飼いは岩に今後この土地で暮らしていく事を。
そして、その間の安全を願った。
しばらくの間、何故自分にそんなことを言うのだろうと思っていた岩だったが、すぐにその理由に思い至る。
そういえば土地神の仕事を教えてくれている神が、こんな事をいっていた。
「土地神っていうのは、土地と、そこに住む人を守るものなんですよ」
なるほど土地神というのは、その土地の中では多大な影響力を持っている。
これからこの土地で暮らすのであれば、その恩恵にあずかりたいと思うことだろう。
岩は手に持っていた岩を牛飼いの前に置くと、娘に言葉を伝えた。
娘は伝えられた言葉を、牛飼いへと継げる。
「おっちゃまが、がんばれっていってるです。あと、このいしを、いえにおいとくよーに、って、いってるです」
「あり、ありがとうございます!」
なにしろ、岩は石と似た物である。
岩の神様から頂いた石となれば、なんともご利益が有りそうでは無いか。
岩は自分の土地の中の石には、強く影響を及ぼす事が出来た。
特に気をつけよう、と印をつけた石を家に置いておけば、何かの時には助けてやることも出来るだろう。
里の人間は、以前娘が妖に襲われたときの顛末を、何とはなしに聞き及んでいた。
となれば、岩から授かった石を、有り難がらない筈も無い。
牛飼いは早速、その石を床の間に飾る事にした。
牛飼いに石を預けてから、数日後。
岩の社には、ひっきりなしに里のものが訪れていた。
自分の家にも、石を授けて欲しいという願いをしにきたのだ。
牛飼いが、岩に石を授けられた一件を、里で話した影響である。
当の牛飼いとしては、あれは里のもの皆が受けているものだと思ったのだ。
ところが里のものは、皆そんなものに覚えは無い。
ならば自分の所も、と思うのは、当然の事だろう。
里のものに詰め掛けられ、一番割を食ったのは娘であった。
岩は適当に石に印をつけて、渡せばそれで仕事は済む。
だが、娘はその石を拾ってくる仕事を任されてしまったのだ。
人が詰め掛けるは、土地神の仕事をおぼえなくてはならないはで、岩には石を拾いに行く暇がない。
となれば、巫女である娘が拾ってくるしかなくなってしまう。
里のものに授けるのに程よい大きさの石というのは、探すとなると案外大変なものであった。
まして娘の体は小さく、運ぶのも一苦労だ。
しかし、娘は文句一つ言わずその仕事をこなしていた。
何しろ一つ授けるごとに、里のものはお供えと、労いのご馳走を置いて行ってくれるのだ。
石を拾ってくるのは、娘の仕事となった。
正確には、娘が誰にも譲らない仕事となったのである。
現代の御岩神社でも、新たな家を建てたり、引っ越してきた氏子には、石が一つ贈られる慣わしが続いている。
石は御岩様の化身であり、家内安全を祈願するものであった。
この際に使われる石は、御岩様に仕える巫女が行う、とても大切な神事となっている。
神聖であるはずの「石選び」と呼ばれる神事、ではあるのだが。
それがある巫女の食い意地から始まったものであると知るごく一部のものは、「石選び」の度に笑いをかみ殺すのに忙しくなるのであった。