貝
娘が社に行くのは、三日か四日に一度であった。
里は小さく、娘も立派な働き手だ。
毎日のように社に遊びに行く、というわけにもいかなかったのである。
もっとも、娘が社に来ない日は岩が里に下りてくるので、毎日顔を合わせてはいるのだが。
その日、娘は村の衆からお供えとして預かった握り飯を風呂敷に包み、社へと向った。
常日頃から岩と共に居る娘は、社を守る巫女ということになっている。
村の衆から岩へのお供えは、娘が運ぶのが決まりごとになっていた。
いつもお供えが二つ用意されているのは、娘へのお駄賃代わりだ。
「うわぁー! でっけぇーにぎりめしです!」
竹の皮に包まれた握り飯を見て、娘は涎をたらす。
この辺りでは朝に飯を炊き、夕はそれにお湯などをかけて食べる。
まだ朝早いこの時間は、おにぎりも暖かい。
握り飯を用意してくれた農家の男が、娘の様子を見て愉快そうに笑った。
「頼んだよ、おみよ坊。巫女さんの勉強とやらは順調かい?」
「じゅんちょーです! おらゆうしゅうだって、おたぬきさまにほめられたです!」
胸を張る娘に、男は感心したように感嘆する。
御狸様というのは、最近岩に土地を治める方法を教えてくれている、別の土地神の御使いだ。
元は人間で、今は鞘に宿っているという変り種の土地神である。
「そいつはすごいなぁ。ウチの村には神主は居ないが、立派な巫女様が居る訳だ!」
「まだまだ、おらはみならいのみです。たくさんおぼえるこがあるから、がんばらねぇーといけねぇーです」
「はっはっは! そうかそうか! まあ、将来有望なのには変わりない!」
竹皮に包まれた握り飯を、風呂敷に包んで背中に背負う。
男に見送られ、娘は岩の社へ向って歩き始めた。
里から社への道は、木や雑草も無く歩きやすいものだった。
娘は普段から歩きなれた道なので、迷う事も無い。
家々や田畑のある辺りから少し離れると、道の左右には木々が生い茂り始める。
ずんずんと足を進めるうち、娘はある違和感に気が付いた。
周りの景色が、どうにも見えづらい。
どうやら霧がかかっているらしいのだが、不思議な事に頭上の日光は良く見える。
目の前は数歩先しか見通せないのに、顔を上げてみれば不思議と青空が見えるほど晴れ渡っていた。
「なんだか、じめんとそらがおかしーです」
娘は慌ててた様子で周囲に目を走らせ、目当てのものを探す。
すぐに見つけたそれを抱え挙げると、近くの木の根元へ座り込んだ。
目の前に抱え込んでいたものを置くと、背負っていた握り飯を下ろす。
大事そうに握り飯を抱えると、娘は身体を丸めてギュッと目を閉じた。
程なく、娘は目が回るような感覚に襲われる。
あのまま歩いていたなら、転げてしまうだろう程の眩暈だ。
その強い刺激に、娘は程なくして気を失った。
気絶した娘の前に、すぅっと何かが現れた。
人の形をとってはいるものの、その顔はどこかのっぺりとしていて薄気味が悪い。
どこがおかしい、というわけではなく、顔形も姿かたちも、あやふやではっきりとしていないのだ。
まるで幻か、はたまた霧で形作られているのか。
なんとも奇妙なそれは、口元を三日月形に割り開いた。
「こりゃぁ、こらりゃぁ。思ったよりも上物だ。コレを食えば、しばらくは妖力に不自由すめぇよ」
この人型は、妖であった。
幻の妖術を得意とするこの妖怪は、強い力を持つ娘を狙い、喰らおうとしているのだ。
力があるのにその使い方を知らぬ幼子は、彼等にとっては恰好の餌食である。
大事そうに風呂敷包みを抱え込み気絶する娘に、妖怪は手を伸ばした。
そのときだ。
娘が抱えて、目の前に置いたもの。
丁度娘の一抱えの大きさの石が宙に飛び上がり、妖怪に襲い掛かった。
「ぎゃぁあ!」
石に身体をしたたかに打ち付けられ、妖怪の体は爆発するように霧散した。
そして、腹の中から、何かが飛び出してくる。
大人の一抱えほどもあるそれは、どうやら二枚貝のようであった。
地面に落ちたその貝の上に、宙に浮いていた岩が落ちてくる。
大きな音を上げてぶつかると、再び「ぎゃぁああああ!」という悲鳴が上がった。
いつの間にか周囲の霧は晴れており、山のほうに繋がる道から人のようなものが歩いてくる。
男なのか女なのか。
年寄りなのか若者なのか。
姿かたちははっきりしないものの、ただ人のようであるとだけ分かるもの。
土地神の岩が、ボウッとした様子で歩いてきたのだ。
岩は、娘にこう伝えていた。
何かまずそうな事があったら、何か大きなものの近くにうずくまれ。
そのとき、必ず石を目の前においておけ。
そうすれば、何かあってもすぐに助けてやれる。
土地神になった岩は、土地の中ならば手にとるように見渡す事ができた。
娘がなにか厄介ごとに合ったとしても、見つけるのは容易い。
それが地脈などの力を持ちやすい大きなものの近くであれば、なおさらであった。
石を置くようにと言ったのは、先ほどのように岩が石を操り、娘を守るためだ。
地面が由来の、取り分け石は岩と親和性が高く、操りやすいためである。
岩は地面に転がった貝に近づくと、それを踏みつけた。
「其れは巫女だ。いつも見守っている。不運だったな」
貝が何かいおうと、大きく震えた。
岩は踏みつける力を強めて、それを許さない。
「口を開くな。お前はオオアシノトコヨミ殿に引き渡す」
そういうと、岩は近くにあった石をいくつか拾い上げる。
貝のうえにそれを積み上げると、ゆっくりと足をはずした。
小さなものであるはずの石が乗ったとたん、貝は微動だにする事もなくなっている。
無造作に置かれたその石は、妖怪を封じるものであった。
土地神が自らの土地で作った結界は、無類の力を発揮する。
飛び上がった石に負かされる程度の妖怪に使うには、ずいぶんと過ぎたものなのだ。
石は動かなくなった妖怪を見下ろし、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
数日前。
オオアシノトコヨミの使いである狼がやって来て、流の性悪妖怪が出たといってきた。
気をつけていたのだが、どうやら逃げ隠れが得意なものらしく、いつの間にか土地に入り込んでいたらしい。
いつも気をつけて見ている娘を襲ったからすぐに見つけられたようなものの、他のものであったらどうなっていたか。
一人か二人、犠牲が出ていたかもしれない。
岩は未だに気絶している娘に近づくと、その身体をそっと抱え挙げた。
地面に座っていたせいか、少しからだが冷えているように感じられる。
社に行けば、何かの時のために置いてある布団が有ったはずだ。
一先ず、社へ。
「おっちゃま」
娘の声に驚き、岩はその顔を覗き込んだ。
だが、どうやら寝言だったらしい。
娘は口を何度か開け閉めすると、再び何かを呟いた。
「にぎりめし、うめぇーです」
にへらっと嬉しそうな顔をする娘を見て、岩はどっと脱力する。
そこで。
岩は、ほっと心が落ち着くのを感じた。
娘が襲われたのを感じ取ってから、ずっと鋭くなっていた心が、和いでいくようだ。
ただの岩から、力を持つ岩に成って数百年。
特にこの娘と出会ってからの岩は、それまで感じた事の無かった心の移り変わりを覚えるようになっていた。
その変化を、岩は良いとも悪いとも思わない。
ただ、好きなようにあればいい。
今も昔も、岩はそうして来たのだ。
これから先も、その様にあるだけである。
岩は大事そうに握り飯を抱える娘を、大事そうに抱え、社へと歩き始めた。