検分
山の中、草むらを歩くというのは、慣れたものでも危険を伴う。
まして初めていく場所に踏み入るとなれば、用心と準備をするに越したことはない。
いつもは普段と変わらぬ服装で山に分け入る娘も、この時ばかりは入念に支度をしていた。
使い古しの布で作った足袋に、股引を身に着ける。
布は貴重であり、すぐに体が大きくなる子供のために、こういったものを作るのは村では異例だ。
その異例のことが必要なことを、娘はこれから行うのである。
岩が選んだ道の普請場所を、検分するのだ。
人が未踏である、山の中に分け入ることになる。
無論、一人で行くわけでは無い。
岩もいるし、ヤマネもついていく。
とはいえ、危険な場所を歩くことには違いない。
人が足を踏み入れたことのない場所も多かった。
念には念を入れるに、越したことはない。
草履も新しいものを用意し、脚絆代わりの手ぬぐいも、足に巻いている。
用意したのは、着るものだけではない。
竹籠には、娘の脚力を押さえるための重石のほかに、作ってもらった弁当も入っている。
今回の荷物の中で、最も重要なものであることは間違いない。
もちろん、作ってもらった足袋と股引、脚絆なども大切だ。
これが終わったら、大切にとっておかなければならない。
しかし、検分をするために重要なものはどれか、と問われれば、やはり弁当に軍配が上がる。
検分をするためには、たくさん歩かねばならない。
歩くためには、力が必要だ。
力を出すためには、食べ物が必要である。
つまり、検分をするためには食べ物が不可欠なのだ。
弁当の中身は、娘の母が作ってくれた握り飯である。
なかには特別に、梅干しまで入っていた。
水筒には、たっぷりの水。
葉にくるんだ塩も、懐に忍ばせている。
まさに、準備万端だ。
「今日はずいぶんと張り切っておいでですね、巫女様!」
「とーぜんです!」
ヤマネの問いに、娘は勢い込んで返す。
旨い弁当がある。
張り切らぬわけが無い。
「さぁ、いくです! おっちゃまも!」
「わかった」
娘は、勢いよく参道を駆け下っていく。
その後ろを、岩が大股で追った。
今いるのは、岩の社である。
まずはここから、村のはずれまで向かう。
そこから、岩が選んだ場所を検分しながら歩く。
重労働であり、責任の重い仕事だ。
だが、娘はいつもと何ら変わらぬ様子であった。
それが心配なところでもあるが、娘の良いところでもある。
岩は娘の背中を追いながら、薄く笑った。
木々の間を縫い、草をかき分け、小枝を払いながら歩く。
獣道にすらなっていない場所だったが、娘はさして苦労する様子もなく進んでいる。
岩がそういうところを選び、先導しているからだ。
なるだけ平坦で、横幅の広い場所。
ぬかるんでおらず、崩れにくく、歩きやすい場所。
岩が選んだのはそういった条件に沿う場所であった。
普段から山道になれた娘である。
それでも普通ならば歩きにくいはずの場所を、まるで意にも介さず突き進んでいく。
背負った竹籠には、様々な山菜が詰め込まれていた。
歩きながら見つけたものを採っているのだ。
食べられるものを見つけて、娘が放っておけるはずがない。
猛然と集めるのを、止める者もいなかった。
ただ、タケノコを掘り起こそうとしたのは、流石にヤマネが止めている。
アレを採ろうとすると、流石に時間がかかりすぎるためだ。
娘は駄々をこねるかと思われたが、意外に素直に引き下がった。
何をしなければならないか、娘なりに理解しているのだ。
しばらく進み、弁当を食べることになった。
握り飯を、娘とヤマネで分ける。
母親が握ってくれた握り飯は、驚くほどうまかった。
「いやいや、格別な旨さですね巫女様!」
「これは、しおがいーです!」
娘の言う通り、塩が良かった。
このところ収穫が安定してきたので、外から物を買うことができるようになっている。
元々村には、至極細いものの、街道のような道が通っていた。
岩を拝む旅人たちが通る、細い細い道である。
この道を使って、極わずかではあるものの、交易が行われていた。
少しずつ村が豊かになるにつれ、様々なものが入ってくるようになっている。
例えば、塩だ。
海の方から、質の良い塩が送られてくるようになった。
しかも、今までよりもずっと安値で。
とはいっても、気安く扱うことができるほどではない。
貴重で高価なものではある。
だが、これまでのことを考えれば、何割も安い。
村が豊かになると、そういうことも起こるのだ。
人の流れができるというのは、つまりそういうことである。
使いにくく、細く不便な道でも、このような変化が起きているのだ。
広く立派な道ができれば、どうなるだろうか。
娘に任された仕事は、重大なものと言っていい。
「みちができれば、もっといろいろはいってくるです」
「楽しみでございますな!」
握り飯を食べ終えると、岩が思いがけぬことを言った。
「今日は、これで戻る」
「もうですか?」
「戻るころには、日が隠れ始める」
道の予定地は、かなり長いものであった。
整備もされていない中。
まして娘の足では、一日で歩ききることができるものではなかった。
今から戻らなければ、山の中で日が暮れることになる。
岩がいれば、獣や妖の類に襲われる心配はない。
だが、雨風に当たり体調を崩すことになるかもしれない。
娘の親も、心配するだろう。
「やや、しかし、これは参りましたなっ! この調子では、いつまでたっても道の検分を終えることができませんぞっ!」
ヤマネの言う通りではあるが、これには岩の誤算があった。
まさか娘が、これほど早く歩くと思っていなかったのである。
もっと時間をかけて、ゆっくりと歩くと思っていた。
少しずつ道を見定め、一日で往復できないような距離まで確認するには、十何日かかかると思っていたのだ。
その間に、ヤマネと娘で、その先のことを考えればいい。
岩はそういう腹積もりでいたのだが、娘の驚くべき脚力が、それを上回った。
以前から凄まじい事は知っていはずだが、まさかここまでとは。
これには岩も、驚くばかりである。
「この先も行くとなると、おみよ様だけではいささか危険でございますなっ! とはいえ、村人におみよ様についてこられるものもおりますまい!」
全くその通りである。
平地でならともかく、こういった悪路では、大人であっても娘に追いつくのは至難と言わざるを得ない。
それでなくとも、ただの村人をこの検分に付き合わせるのは酷だ。
岩がいて、ヤマネもいる。
普通のモノから見れば、妖怪変化の類だ。
心にも体にもよろしくはあるまい。
そんな考えを、岩はぽつりぽつりと語った。
ヤマネは少し考えた後、妙案があると言い出す。
「タヌキ様かアカゲ様にお願いして、ついてきてもらえばよろしいのです! 人の姿に変じて、どちらかの神社から手伝いに参ったといっていただけばよいでしょう! であれば、村の衆も心配なさいますまい! あの方々がいれば、夜を明かすのも怖くありませぬ!」
なるほど、良い案に思われた。
普請する道の終着点まで、娘の足で向かえば丸一日といったところだろうか。
往復で、二日。
ちょっとした旅になる。
娘一人で行かせるわけにはいかないが、赤鞘神社の狸か、オオアシノトコヨミの使いである狼がいるならば、心強い。
あの二匹はどちらも人の世に良く馴染んでいるので、娘の親を説得することもできよう。
「やまね、あたまいーです!」
娘もヤマネの案に、感銘を受けたようだった。
ヤマネも悪い気はしないのか、胸を反らせている。
「お前は、なかなかの知恵者だな」
「は、ははーっ! 有り難い、まっこと有難いお言葉、ありがとうございますっ!」
岩から送られた思わぬ言葉に、ヤマネは大いに感動していた。
何しろ岩は、普段ほとんどそういったことを口にしない。
「じゃー、きょーはこれでかえるです! つぎくるときは、おとまりです!」
「また、準備が必要でございますなっ!」
張り切る娘とヤマネを見やりながら、岩は目を細めた。
・御岩神社境内某所
「なぁ、じいちゃん。なんだって人間の学校なんか行かなきゃならないのさ。俺らヤマネだよ? 神使の」
「だからこそじゃ、バカものめ。よいか、御岩様にお仕えするヤマネは、代々その知恵をもってご奉仕をさせて頂いてきたのじゃ」
「知恵を」
「そうじゃ。この現代、知恵を得るには教育を受けるのが良い。インターネットなどの普及で学校に行かずとも知恵は付けられると思うておるものも多いが、さにあらずじゃ」
「はぁ」
「確かにインターネットを使えば様々なものを調べられる。じゃが、調べるためにも知恵と知識が必要なのじゃよ。基礎知識とでもいうのかのぉ」
「土台が大事だ、と」
「それを得る方法は色々あるが、学校に行くというのは実に効率が良い手段じゃ。勉学以外にも、人のことを学ぶことができるからのぉ」
「人の事ねぇ」
「わしらにとって人を学ぶというのは大事なことじゃ。土地神様であらせられる御岩様のお手伝いをするには、必須と言ってもよいじゃろう」
「まぁ、わからなくもない」
「それにのぉ。学校に行くと女子との出会いもあるのじゃよ。ばぁさんと出会ったのは、ちょうど学生の頃だったのぉ」
「はぁ!? ばぁさんって、ヤマネだろ!?」
「そうじゃ。アレは冬のことじゃった。学校の見回りをしておったワシは、屋根裏で冬眠から目覚めたばかりのばぁさんと出会ってのぉ。一目ぼれじゃった」
「その話、聞かなきゃダメ?」
「何を言っとる! ここからが面白いところじゃぞ! それはもう、スリルとサスペンスの物語がじゃな!」




