水
岩と会話をしたのは、小さな娘であった。
初めてであったその日から、岩と娘は時折二人で歩くようになっている。
娘にも仕事があるため、いつもではない。
だが、一緒に散歩をする頻度は、けっして少ないものではなかった。
娘は、岩の知らない様々な事を知っている。
たどたどしいながらもしっかりと語られるそれらを聞くうち、岩も次第にそれを聞きたいと思うようになっていた。
それまでなかった「興味を持つ」という感情が、岩の中に芽生え始めていたのだ。
「あそこに植わっているのは、草か」
「くさじゃないです。いねです。ごはんです」
「ゴハン? ああ、米か」
お供え物をされることから、岩も米や握り飯というのは知っている。
だが、それがどういうものなのか、知りはしなかった。
もしかしたら見聞きはしていたのかもしれないが、取り立てて記憶にとどめておこうと思ったことが、一度もなかったのだ。
「そうです。ごはん、おいしいです。たくさんとれると、たくさんたべれます。でも、いまはたくさんはとれないです」
「そうなのか。なぜだ」
「おみずねぇーです。かわも、ねぇーです」
「なるほど。草は育つのに水が居るな」
この辺りには、大きな河は流れていなかった。
小さな沢を見つけては、なんとか里にひいて水を賄っているらしい。
「いどほるのも、ぜにかかるです。たいへんです」
井戸掘りというのは、専門の人間がやるものであった。
素人が下手に手を出すと事故に繋がる。
それに、深い井戸を掘る為には、そもそも技術が必要なのだ。
この里にはそういった技術を持っているものはおらず、他所の里から呼ぶ必要がある。
娘も、その辺りの細かな事情は知らない。
ただ大人たちが言っていたことを、覚えているだけなのだ。
「井戸というのは、なんだ」
「じめんをほると、みずがでるです。それをくむのが、いどです」
「水脈を掘る……なるほど。人間とは面白い動物だな」
岩は辺りを一巡り見渡すと、地面に落ちていた石を拾い上げた。
その場からいくらか歩き出すと、地面にまあるく印をつける。
眺めていた娘は、ふしぎそうに首をかしげた。
「おっちゃま、けんけんするですか」
「ここを掘れば、水が出る。まあ、掘れないと言うのであれば仕方が無いが」
「おみず、でるですか! でも、そーです。ぜに、ねぇーです」
「銭か。難儀だな」
驚く事に、岩には銭の知識があった。
ながれの神や妖怪変化が、そういった話をしていったからだ。
「銭はどうにもならんが、沢が私の上の方にいくらかある。教えてやろう」
「うわぁ! おっちゃま、ふとっぱらです!」
岩は、地面の上に絵図を描き始めた。
自身である岩を中心とした、周囲一体の様子を描いた絵図だ。
興味深そうに覗き込む娘を尻目に、岩はせっせと沢の場所や、危険な場所などを描き出して行った。
「おうい、おみよ坊! もうすぐ……ひぃ!? なんだこりゃぁ!?」
娘を呼びに来た大人が、仰天して声を上げた。
岩の姿は、普通の人間には見えない。
大人には、ダレもいないのに地面に絵が描かれていくように見えたのだ。
「ば、ばけものっ!?」
「あ。ごんたのおっちゃま! ばけもの、ちげぇーです。このひとは、おいわさまです!」
「おいわ、御岩様!?」
御岩様。
この辺りに住むものならば、ダレもが岩のことを知っていた。
「おいわさまのおっちゃまが、おみずのばしょ、おしえてくれてるです」
それを聞いた大人は、血相を変えて絵図を覗き込んだ。
よくよく見れば、それはこの辺りの絵図だということがわかる。
大人は大慌てで、村長の所へすっ飛んでいった。
そのあまりの勢いに、娘は感心した声を挙げる。
「ん? 誰か来たか」
「きたけど、いっちゃったです」
「そうか。ならば良いな」
人と妖怪と神。
まだまだ、それらが入り乱れてすごしている時代である。
特に隠れ立てすることは無い。
「さて、描き上がった」
「おー、すげぇーです!」
娘にはその絵図の価値はよくわからなかったが、手をたたいて喜んだ。
それを見た岩は、なにやら心が柔らかくなるのを感じた。
所謂、満足という感情を、岩は初めて感じたのである。
「そうか。すごいか」
「すげぇーです!」
岩は一頻り頷くと、娘の頭をぽんぽんとなでた。
「では、今日は帰る。じゃあな」
「あい。おっちゃま、ばいばい」
岩が去ってから、しばらく。
里は大変な騒ぎに成った。
地面に描かれた絵図は、果たして御岩様の思し召しか。
はたまたただの悪戯か。
妖怪や神が親しく多い時代だ。
どんな不思議なことが起こるかわからない。
ためしに、と。
後日大人の数人が、地図に示されていた沢の場所に足を伸ばした。
驚くべき事に、その地図は正確で、示された場所全てに水場があったのだ。
慌てて、今度は井戸が掘られる事となった。
井戸掘りに金がかかるのは、何箇所も掘る必要が有るからだ。
出なければ次、出なければ次と、それによって金がかさんでいくのである。
何とか一度だけ掘れる金を工面し、掘ってみると。
それまで苦心していたのが嘘のように、綺麗に澄んだ水が、こんこんと湧き出したのだ。
大人達が騒ぐ様子を、岩は娘と共に見ていた。
「騒がしいな。祭りか」
「おみずがでたから、たんぼがひろげられるんです。ごはん、たくさんたべられます!」
「そうか。だれぞ、山に入っていたな。そういえば」
「おっちゃまのかいた、えずのおかげだって、みんないってたです」
「絵図? ああ、あれか。それで、里の者が手を合わせに来たのか。何かと思っていたのだが」
里の暮らしを劇的に変えた自覚は、岩にはなかった。
ただ、奇妙なものを見るような顔で、喜び叫ぶ里の者達を見ている。
娘はそんな岩の横で、うれしそうにはしゃいだ声をあげていた。
いくらかの年月が過ぎた頃。
岩の描いた絵図は「おいわさまのえず」と呼ばれるようになった。
地面に書かれたそれはすぐに消えてしまったのだが、その場所には祠が建てられ、絵図の写しが大切に祭られている。
岩のおかげで見つかった沢は、「おいわのあらいば」と名づけられ、大切に守られた。
井戸も、「おいわさまのいど」と呼ばれ、それは大切にされている。
岩のそばにも、岩を守るための社が建てられた。
社を立てる間、大工がふしぎな事を語っていたことが、記録に残されている。
「仕事をしている時、男なのか女なのか、老人なのか若者なのかわからない何かと、小さな娘が親しげに話していた」
巫女の前にしか姿を現さないという、御岩様の化身の、最初の目撃談である。