山葵
村の近くにある山は、人の手の入っていない深山であった。
普通ならば、大人でも分けるのが難しい、険しい場所である。
だが、岩に守られ、神霊に親しんだ娘からして見れば、庭も同然だ。
草を掻き分け、木の根を乗り越え、倒木を渡る。
知らぬものが見れば、服を着た猿か何かかと思うだろう。
娘はそれほどすばしこく、山野の中を駆けていた。
目指しているのは、山内の沢だ。
山葵をとりに向かうのである。
「わっさびー、わさびーはー、かれぇーですー」
調子の外れた歌をうたいながら、娘は両足、両手を駆使して進む。
ふと、娘は歩みをぴたりと止める。
まっすぐに向いていた顔をぐるりと巡らせると、真剣な面持ちで耳をそばだてる。
少し後ろから娘の様子を見ていた岩は、その姿に眉を顰めた。
「何かあったか」
「ネマガリタケのおとがしたです!」
元気の良い返事を聞き、岩は娘が足を止めた理由がわかった。
根曲がり竹は、娘が好む山菜の一つだ。
恐らく、風で葉が揺れる音でも感じ取ったのだろう。
山で遊んでいる時の娘は、獣に劣らぬほど五感が研ぎ澄まされている。
気配を探れば、確かに近くに生えているようだ。
娘は辺りを見回すと、場所の当たりをつけたのだろう。
迷いのない様子で、脚を進める。
歩く事、しばし。
目的の根曲がり竹を見つけた。
「あったです! さっそくほるです!」
娘は張り切っているようで、根曲がり竹に向って力こぶを作る。
早速仕事に取り掛かる積りなのだろう。
懐に手を伸ばし、娘はヤマネを引きずり出した。
まだ眠っていたのに、無理矢理に引きずり出された為だろう。
訳がわからないといった様子で、前脚と後脚を振り回している。
「なにごとっ!? 狐か狸の襲撃ですか!」
「ちげぇーです! ネマガリタケほるです!」
ヤマネは娘に摘み上げられ、目を白黒させる。
それでも何とか事情を飲み込んで、胸を叩く。
「おまかせを! このヤマネ、土を掘るのはとくいなのです!」
ヤマネと言う生き物は、木の上に住む動物だ。
本来、穴を掘る等と言ったことは苦手としているはず。
無論それは、普通のヤマネであればの話。
岩の社に住み着き、御使いである狸や狼と触れ合ったことにより、このヤマネは強い妖力を得ていた。
ヤマネが言うそれは、妖術を使ってのものなのだ。
「しからば、さっそくっ!」
ヤマネは娘の手から離れると、地面へと飛び降りる。
そのまま根曲がり竹の茂み近くまで駆け寄ると、その前でぴたりと止まった。
集中するように両目を瞑り、全身を震わせ、呪文のようなものを唱え始める。
変化は、すぐに現れた。
根曲がり竹周囲の土が、沸き立つように揺れ始める。
すると、食べごろになったものだけが土の中で折られ、沸き立つように地面の上へ上がってきた。
「うわぁー! すっげぇーですっ!!」
「根などを傷付けず、食べられるところだけをとりだすのにコツがいるのですがね! ここまで妖術をあつかえるようになるまで、なんどタヌキ殿に食われそうに成ったことかっ!」
妖術を使う為ではなく、恐怖で身体を振るわせ始めるヤマネだったが、娘はまるでお構い無し。
土の上に転がる根曲がり竹を、嬉々として拾い集める。
そんな一匹と一人を、岩は興味深げに見守った。
再び沢を目指して歩き出す娘だったが、再び足を止める。
今度は木に巻きついている、自然薯の蔓を見つけたというのだ。
「さあ、ヤマネ! ほっかえすです!」
「いやー、そのー、あまり深くなるとですな。オイラ程度の妖術では、どうにもこうにも掘り返せません」
前足を擦って、ヤマネは頭を下げる。
娘は絶望した表情を浮かべ、その場に両膝を突いた。
その横で、岩は僅かに首をかしげている。
「山鼠、随分人の言葉を上手く操る様になったな」
「はいっ! おかげ様をもちまして、随分しゃべることが出来るようになりましたっ!」
「んなこと、どーでもいーですっ!! じねんじょ! おらのじねんじょ、どーやってほるですかっ!」
地団太を踏む娘に、ヤマネは大いにうろたえる。
岩のほうはといえば、少しの間押し黙り、「では」と口を開いた。
「場所を覚えて、後日掘れば良いだろう。私が覚えておく」
道具を用意するか、あるいは大人を呼んで来るか。
娘とヤマネだけでは掘り返せないのだから、どちらかしかない。
今は岩の提案を受け入れるのが、一番良いだろう。
娘もそれはわかっているが、どうしても納得がいかないらしい。
「そうすれば、零余子も採れる」
「ムカゴっ!」
娘の顔が、ぱっと華やいだ。
自然薯の蔓に付くむかごは、味が良い。
煎ってもいいが、この辺りではご飯に炊き込んで食べることが多かった。
もちろん、娘の好物の一つだ。
「いのちびろいしたな、じねんじょ。きょーはみのがしてやるです」
娘はよだれを拭いながら、自然薯の蔓を睨みつけた。
それを見たヤマネは、半ば呆れた様子で首を振る。
岩はといえば、娘のそんな姿は見慣れていた。
僅かに目を細め、微笑んだ。
あちらこちらと寄り道をして、ようやく沢へとたどり着く。
それまでには、娘の背負子には様々な山の幸が詰め込まれていた。
いくらかは持ち帰るが、いくらかは娘の食事だ。
近くに落ちている小枝を拾い集めると、それに火をつける。
火を起こすのは、ヤマネの妖術を使う。
娘は火打石などを持たされていないので、ヤマネはその代わりになる。
言うまでも無く、他の場面でもヤマネは大いに役立っていた。
未だに術の類は未修得である娘にとって、ヤマネは手放せない存在になっている。
「さぁ、めしです!」
娘は張り切った声をあげ、いくつかの山菜を火の近くに置く。
根曲がり竹は、皮を剥かずに灰の中に入れる。
鍋などは持ってきていないが、工夫次第で食べる方法はいくらでもあった。
娘はそれを、母や父。
兄や姉から教えられている。
火の番をヤマネに任せ、娘は沢へ来た目的を果たすことにした。
山葵を採るのだ。
これは、特に難しいことは無い。
沢の近くを見れば、すぐに見つけることが出来る。
他の野草との見分けも、娘にかかれば簡単だ。
瞬く間に数本の山葵を見つけ出し、丁寧に掘り返す。
手際も良く、馴れた物だ。
山葵は水辺でなくとも、見つけることが出来る。
それでも娘がこういった場所を選ぶのは、水辺のほうが大きいものを見つけることが出来るからだ。
「怪我をしないように」
「おうっ! きをつけるです!」
岩の言葉に、娘は手を上げて返事をする。
注意はするものの、岩もさして心配はしていない。
万が一のことがあっても、沢には石がいくつも転がっている。
何かがあれば、すぐにどうにでも出来た。
娘は採った山葵をきれいに洗い、持って来ていた手ぬぐいに包んだ。
一度沢に漬け、湿り気を持たせて置く。
こうしておけば、萎びてしまう心配も少ない。
そのついでに、カニを何匹か捕まえる。
拾った木の枝に挟んで火で炙って食べるのが、娘のお気に入りだ。
「やまねも、カニくーですか?」
「もちろん! ご相伴に預かります!」
それまで火を見張っていたヤマネも、カニは好物だ。
前脚を叩いて喜ぶ。
適当な木の枝にカニを挟んで火にかけると、娘は灰の中から根曲がり竹を引っかきだす。
火傷に気をつけながら皮を剥くと、湯気の上がる身に齧り付く。
「んー! んめぇーですっ!」
娘は根曲がり竹を少し毟り取ると、ヤマネにも分けてやる。
熱を冷ましながら、ヤマネは器用にそれを齧った。
「味はいいですが、とりに来るのが大変ですね!」
「たしかに、めんどくせぇーです。やしろのうらにでもうめたら、はえてこねぇーですかね」
「埋めるといっても。どうやれば根付くものなのでしょう?」
「しらねぇーです! おっちゃまはしってますか?」
娘は期待を込めた視線を、岩へ送った。
だが、岩は首を横に振る。
「知らん。村に戻ったら、皆に聞いて見ると良いだろう」
娘は、がっくりと肩を落とす。
これが簡単に取りにいけるようになれば、随分楽に美味いものを食べられると思ったのだが。
それが社の近くであれば、尚の事。
娘にして見れば、社は遊び場の一つなのだろう。
現代。
御岩神社裏手に広がる山は、山菜の宝庫となっている。
根曲がり竹、薇、蕨など。
時には希少な、自生の山葵を見つけることも出来る。
今では稀有なその場所は、一般の人間が立ち入ることが禁じられていた。
神社所有の土地であり、神域となっているからだ。
立ち入ることが許されるのは、一部の神職だけとなっている。
ただ、極僅かではあるが、神職以外でもそれらを口にする機会はあった。
神社境内に、小さな茶屋がある。
これは、お参りに来た氏子などの為に作られたものだ。
周辺に住まう婦人会などが共同で、古くから営んでいるものである。
この茶屋で、山で取れた山菜が振舞われることがあるのだ。
もしたまたま訪れた時にこれを食べることが出来たとしたら、その人物は大変な幸運の持ち主と言えるだろう。
しかしながら、気をつけ無ければならない事が一つだけ。
もしこれを食べる機会に恵まれたにも関わらず、それを「マズイ」といったり、粗末にするような事をしたとする。
その人物は、帰り道でひどい目にあうことになるだろう。
妖怪「木玉鼠」に出会うといわれているからだ。
何故そんなことになるのか、といえば。
神社裏手の山は、彼らが世話をしているからだ、という。
それこそ神社が出来た頃から、彼らは山に住み着き野草を守っている、というのだ。
ちなみに、「木玉鼠」は「ヤマネ」と同一視される妖怪だ。
御岩神社の御使いはそのヤマネであることから、山に住んでいるという木玉鼠と御使いを同じものである、とする場合もある。
ある研究者が御岩神社の神職に、こんなことを尋ねたことがあった。
「御使いと妖怪を同一のものとすることを、どう思うか」
その神職は苦笑交じりに。
「他の御使い様なら御怒りに成るかもしれませんが、家に限って言えば似たようなものです」
と、答えたと言う。