序章7 終わらない戦い
暗闇だった。
ひどく寒い――いや、ひどく恐い。
恐怖が碕沢秋長を包んでいた。
この暗闇は恐怖を凝縮した姿だった。暗闇が彼を呑み込もうと腕を伸ばしてくる。
碕沢は動けない。
周囲にあるのが恐怖だけだから……。
違う。恐怖とはこんなものではない。
碕沢の感覚に訴えてくる。
恐怖を放つ存在が傍にあることを、碕沢の細胞が泣き叫んで教える。
嫌だった。嫌だったが、なぜだか碕沢は視線をそちらへと投じた。
筋肉をあらわにした背中が見える。それはがくがくと動いていた。
場違いな白く細い脚が暗闇の中で揺れている。
――なんだ、あれは?
白い脚が力なく上下に揺らされている。
――誰の足だ?
見えるはずのない角度であるのに、白い脚の持ち主の顔が碕沢には見えた。
綺麗な顔が力を失った瞳で虚空を見つめている。本来ならば、活力にあふれた瞳であるのに……。
――神原!
なんだ、それは!
そんなことは駄目だ。
あってはならない。
碕沢の内から怒りが衝きあげた。溶岩の奔流が荒れ狂う。
怒りによって恐怖がすべて駆逐されていく。
炎となった怒りが、周囲を焼き尽くした。
すべてが白く染まる。
碕沢は怒りに支配され――。
「碕沢、碕沢! 起きろ!」
どこからか自分を呼ぶ声が聞こえた。
碕沢の意識が覚醒していく。
何度か瞬きするが、視界はぼんやりとして、頭の回転は極度に悪い。
何か嫌なモノが自分の中にある。失ってはならないものを失ってしまったような……。
ふつふつと煮立つ感情――怒りが碕沢を眠りから完全に呼びおこした。
地面に倒れている自分を碕沢はようやく理解する。
すぐに起きようとして、左腕と左脇腹に激痛が走った。だが、かまわない。碕沢は立ちあがった。
敵がいるはずだった。
――許すわけにはいかない敵が。
「碕沢、戦え。僕だけじゃ、さばききれない。このままじゃ、神原さんがやられる」
「神原――だと?」
碕沢は奥歯を噛みしめた。周囲を睨みつけるように見わたし、状況を確認する。
玖珂がゴブリン・ヴァイカウントの相手をしていた。互角とは言い難い。玖珂の動きは耐え忍び、時間を稼いでいるだけであった。とてもではないがゴブリン・ヴァイカウントを倒そうとしている姿とは言えない。
もちろん、戦えているだけでもたいしたものではある。碕沢は一撃で意識を奪われたのだから。
碕沢はこの時になってようやく、ゴブリン・ヴァイカウントが大剣を背負っていることを認識した。
ゴブリン・ヴァイカウントは碕沢に対してはもちろんだが、玖珂に対しても手抜きをしながら戦っているのだ。
――コロシテヤル。
凶暴な思いが碕沢の中で唸りをあげた。
だが、まだ後だ。
まずは、神原の安全を確保しなければならない。
碕沢の脳はこの時まだ混乱していた。彼は冴南がゴブリン・ヴァイカウントの手に落ちたと思い込んでいる。であるのに、同時に玖珂の言葉も信用していて、冴南はまだ無事であるとの認識も持っていた。
矛盾でしかないのだが、碕沢は気づかない。
そして、碕沢に声がかけられる。
「碕沢君、大丈夫?」
意外なほど近い場所からの声に碕沢はすぐに振り向いた。
左十メートルの位置に冴南がいた。ジャージ姿に変わりはない。傷を負った様子はなく、襲われた痕跡もなかった――今現在、まさにゴブリンの襲撃を受けているので妙な表現ではあるが。
碕沢は近くにいたゴブリンを綺紐で打ち払った。強い意思が込められているせいか、綺紐はこれまでにない切れ味を見せている。
碕沢と冴南は互いの手が届く距離まで近づいた。
「神原、大丈夫か?」
意気込んで言う碕沢に、冴南が不審げに大きな目をぱちぱちとさせる。
「それはあなたでしょ」
「は? いやおまえが――」
碕沢は混乱した。
どす黒く染まっていた感情に空白が生まれる。
「しっかりしなさい、碕沢秋長! あなた私の騎士なんでしょ」
「あ、え、ああ」
「この三人はあなたが要なんだから、あなたが落ちたら全滅なのよ。わかったら、戦って」
何を根拠に言っているのかはわからなかったが、碕沢は冴南の言葉に素直に頷いた。怒りに染めあげられた黒い感情がふっとかききえる。
彼女の言葉で、碕沢は落ち着きを取り戻したのだった。
雰囲気も飄々とした風を纏っている。
「俺が倒れてからどれくらい経つ?」
碕沢は冴南を背後に庇うように位置をとる。動いた瞬間痛みが左半身を突き抜けた。感情が平穏に戻るのに取って変わるようにして、表層で痛みが暴れはじめる。
呻き声が出そうになるのを、碕沢は無理やり呑み込んだ。痩せ我慢である。
「わからない。でも二十秒も経っていない」
「そりゃ、行幸だ」
碕沢は向かってきたゴブリンに綺紐を飛ばし撃退した。やはり痛みが走る。だが、思ったほどに痛くない。脳内にアドレナリンが大量に分泌されて、おそらく錯覚を起こしているのだろう。
戦いの後が思いやられるが、それも生きのこらなければ味わえない。激痛を感じられることも、勝利のご褒美というわけだ。
「碕沢君、私、思い切り狙われているから」
「だろうと思ったよ」
おそらくゴブリンはゴブリン・ヴァイカウントの戦いを邪魔してはならないと命じられているのだろう。すべてのゴブリンが冴南に向かってきていた。
これはわかる。
だが、ゴブリンたちはぎりぎりの攻防をしているかのように必死であった。その姿は数で圧倒している状況にそぐわない。怒りと恐怖が入りまじっているように思える。
理由が碕沢には推測できた。
戦いが始まってまだたいした時間が経っていないにもかかわらず、地面に並ぶゴブリンの死体の数は十体に迫ろうかという勢いだった。
早く冴南をどうにかしなければならないという危機感がゴブリンたちにあるのだ。もしくは、彼らを指揮しているゴブリン・バロンに。
「倒しすぎだろ」
碕沢の口調には感嘆というより呆れの響きが含まれていた。
「何よ! 悪いの」
「騎士より強い姫様も悪くない」
「ちょ――何よ、それ!」
言葉を交わしながらも、冴南の手は止まっていない。彼女の放った矢は次々とゴブリンを貫いていく。
ほんのわずかな時間で、冴南は大幅に強くなっている。青い靄のおかげというのはあるだろう。確かに矢の威力や射程は伸びているし、矢を射るためのタイムラグもかなり短くなっていた。
だが、それだけでは説明できない強さがある。
おそらく、彼女は自らにそなわった力をうまく扱えるようになったのだ。力を使うコツのようなものを覚えたに違いない。
玖珂は最初からそれができていたからこそ、あれほどの強さを発揮した。彼の天才がそれを可能にしたのだろう。
玖珂には及ばないが、冴南もこの短期間で会得したのだから、充分に凄い。
玖珂によって、最初の戦いを切りぬけることに成功し、冴南の目覚めによって、戦いを継続できている。
だが、現状の窮地を脱するにはまだ足りない。
圧倒的に三人の戦いは不利だった。
玖珂は苦戦している。このままではいずれやられるだろう。仮にゴブリン・ヴァイカウントが大剣を抜けば、一瞬でケリがつくかもしれない。
冴南がゴブリンを倒し続けているが、ゴブリンの数にまだまだ限界は見られなかった。時間が流れれば、援軍がさらに来ることになるだろう。
このままでは、そう遠くない未来に三人の命は終わる。
二人に続き、最後の一人がさらなる強さを発揮しなければならないのだ。
「俺がね」
碕沢は口中で呟いた。
碕沢は前に出る。
左腕は動かない。動くたびに身体には痛みがひろがっていく。
碕沢は綺紐を飛ばした。戦闘によって生じる反動が、鈍い痛みをさらに増長させる。
だが、碕沢は止まらずに戦い続ける。
時に冴南の援護を受けながら、彼は接近するゴブリンを撃退していった。
怪我のために動きは精彩を欠いている。
だが、碕沢は戦い続けた。
それ以外に、次のステージに登る方法を彼は思いつかなかった。
力尽きるのか、力を得るのか。単純な問題である。
集中して戦う。ミスを挽回できるほどに余裕はなかった。綺紐を放ち、時には長剣を扱うように薙ぎ払う。
その時である。碕沢は意外な言葉を耳にした。
「碕沢君、玖珂君を助けてあげて。私の技量じゃ、あの戦いに介入できない」
冴南の言葉に導かれるようにして、碕沢は一騎打ちを行っている二つの影に視線を投げる。
玖珂のスピードが落ちていた。寸でのところで躱してはいるが、危うい。傷を負ったのかもしれなかった。
あのまま放っておくわけにはいかない。
冴南はよく見えている。
彼女は視野が広い。混戦で弓を操るには必要な能力だろうが、まったくとんでもなくできる女である。
冴南こそ、三人の指揮官だろう。
――だが、と碕沢は頭の隅で考える。
「わかった。でもその前に――」
冴南の意見が正しいのはわかる。
危機に直面しているのは、間違いなく玖珂のほうだ。
だが、この場を碕沢が離れ、冴南一人で戦うことになると、絶対に死角が生まれてしまう。それは自殺行為でしかない。
「神原、敵の指揮官を狙え。場所はわかってるんだろ? 集中しろ。その間は、俺がおまえを守る」
「自分の言葉には責任を持ちなさいよ」
ほとんど休まずに放たれていた矢が停止した。
自分たちへ無情に降りかかる矢がやんだことに、ゴブリンたちは最初戸惑いを見せ、わずかに足を遅らせたが、すぐに突撃してきた。
ギャーギャーとわめく声がうるさい。完全に調子づいている。
碕沢は前へと飛び出し、ゴブリンの一体を綺紐で貫く。そのまま綺紐を硬化し、槍のように振りまわした。
碕沢の腕に合わせて綺紐がゴブリンの首を斬り払う。ゴブリンの頭部が地面に転がった。
三体目のゴブリンを狙った時、綺紐は勢いを失った。
碕沢は綺紐を手に戻し、すぐに放つ。ゴブリンが停止し、ぱたりと倒れた。
碕沢は後ろへ跳躍する。
別方向から冴南に迫っていたゴブリンを綺紐で撃退し、同じように硬化した綺紐で薙ぎ払った。
碕沢の視界に突撃してくる別のゴブリンが紛れ込む。
すでに綺紐は放っている。手もとに引き寄せ、飛ばすという二度の動作を許される時間はなかった。
このままでは間に合わない。
「行け!」
碕沢は痛む左手に集中する。光の粒子が収束した。
彼は左手をゴブリンたちに向けた――だが、激痛の走った左手はだらりと下がったままだった。
しかし、二本目の綺紐の具現化には成功していた。開いたままの碕沢の左手から綺紐が飛び出す。
綺紐はゴブリンの眉間を貫き、血を空中に噴射させた。
『鋼鉄の綺紐』が進化したのだ。
碕沢は二本の綺紐を操り、周囲の空間を制圧した。
そして、これまでにないほどに大きく高い音が旋律を奏で、空気を引き裂いていった。
回転する矢は弾丸のように鋭く飛び、ゴブリン・バロンに襲いかかる。
だが、ゴブリン・バロンはゴブリンの影に隠れていた。そのままゴブリンを盾にしようとしている。
矢はゴブリンへと突き刺さった。
思い描いた通りの展開に、ゴブリン・バロンは馬鹿にしたように笑う。笑顔を浮かべたまま、ゴブリン・バロンは胸に衝撃が突き抜けるのを感じた。うるさい音が背後からまだ聞こえている。
ゴブリン・バロンは視線を下げた。
胸当てに穴がある。
「ぐがっ」
声をだすと、穴から血が噴き出した。
ゴブリン・バロンはたたらを踏んで、片膝をついて座り込む。胸からさらに血が溢れ、口からも吐血した。
周囲にいるゴブリンが騒ぐ中、ゴブリン・バロンは立ちあがろうとするが、黒目からは力が失われていく。
ゴブリン・バロンが天に叫ぶ。
それは無念の叫びだった。だが、いくら抗議しようともすでに死の秒読みは止まらない。
ゴブリン・バロンは倒れ、命の終わりを示すように青い靄が身体から抜けていった。
初めてゴブリンたちに乱れが生じた。
前線で碕沢たちと戦っているゴブリンたちには動揺はない。ただ目の前にいる敵と戦うのみなのだろう。
だが、後方でゴブリン・バロンを防衛していたモノたちや、戦場に続々と姿を現しつつあるゴブリンたちは右往左往している。
「援護に行く」
碕沢は短く宣言すると、走りだした。
これだけの数だ。指揮するゴブリン・バロンはまだ控えているはずである。彼らが駆けつける前に、戦場の混乱を最大限に利用しなければならなかった。
「ええ、しっかり倒してきなさい」
気力のこもった声で、姫が騎士の背中を叩いた。