一章 試験(10)
無理だな、と碕沢は素直に計画の杜撰性を認めた。
無理だと碕沢が感じたのは三人と合流することだ。
だいたいのところに見当をつけて移動したが、崖の近くに来ても未だ三人と会うことができなかった。
ここから南にいるのか、それとも北にいるのかさえ分からない。
南下するのがもっとも妥当だと思われる。
三人の速度を考えても、すでにこのあたりは通過しているのではないか、と推測できた。
だが、絶対ではない。
魔獣に遭遇する、もしくは魔獣の気配を感じて、予定のコース(崖の近辺)をずれて迂回した場合などは、もっと北方にいる可能性は充分にあった。
合流することを第一と考えるなら、もっと北方に引き返して、三人がいないことを確認するべきかもしれない。
だが、本当に北にいたとしても三人がコースを少し離れただけで、確認することはできないのだ。
視野の悪い森で気配のみで発見することは難しいだろう。
向こうも存在を隠そうとしているはずだ。
かといって、魔獣がいる森で、まさか声をはりあげて探すわけにもいかない。
「失敗したな」
碕沢は呟き、そしてそれを禊として思考を切り替えた。
1 このまま南下し、森からの脱出をはかる。
2 その過程において可能ならば三人と合流する。
というふうに優先順位を新たに策定したのだった。
碕沢は自らの勘に従い、南下を開始した。
すでに日が傾き始めている。
夜になる前にできるだけ距離を稼ぐ必要があった。
碕沢は忘れていた。
自分が適当に進路を決定すると、その方向には必ず厄介事が待ち受けているということを。
むろん、この森での厄介とは、強力な魔獣において他ないだろう。
二時間後、碕沢は魔獣の存在を察知した。
二度目の追いかけっこが始まったのだ。
――恐竜じゃないか!
魔獣に対して碕沢の抱いた第一印象である。
背後から一歩踏みだすごとに地面を震わして、魔獣が追ってきている。
色は緑とねずみ色が交じったような目立たない彩色だ。
シルエットはティラノサウルスそっくりである。
といっても、碕沢の知識だ。
彼の知識には粗がある。
実際、細部には違いが多くあった。
また一目見て分かる違いもある。
大きさが異なった。
高さは――全長ではない――四メートルほどだろう。
腕も意外に肉厚で、長さも二メートル弱ほどあった。
尾は長く、走る時には宙に浮いていた。
足はあんがい速くない――と言いたいところだが、一歩一歩の距離が人間に比べてはるかに大きいので、速いと言えた。
額の部分に角がある。
陽光を反射し、煌めく角はまるで刀のように見えた。
牙や爪は恐竜と同じように鋭い。
巨大な体躯はおそらく想像もつかないほどの膂力を秘めていることだろう。
碕沢はこの恐竜にしか見えない魔獣――暴喰爬と激しいレースを繰りひろげていた。
碕沢はほとんど地面に足をつけていない。
綺紐を操り、木の枝を利用して、さまざまな軌道を描きながら逃走していた。
幾度か背筋が凍るほど近くで、牙が重なる音がした。
他にも三度ほど、先程まで傍にあった樹木が倒れる音を聞いていた。
魔獣の牙と爪は抜群の力を持っているようだ。
何度も危機に直面しているということは、つまり、魔獣をまったく引き離せていないということでもある。
碕沢の速さに、巨大な魔獣は完璧についてきているのだ。
碕沢はぎりぎりのところで綺紐を操作していた。
少しでも判断を誤れば、彼の速度はわずかであっても鈍るだろう。
少しでも判断を誤れば、跳躍は単調な軌道を描くことになるだろう。
そのいずれかが生じても碕沢の生命の灯火は簡単に吹き消されることになる。
どれほど逃走していたのかは分からないが、三十分ほどは経ったのではないか、と碕沢は思った。
時間を気にしたのは、集中力に翳りが現れたことを意味する。
このまま逃げてもしょうがないのではないか。
たとえ逃げきれても、森から外へ魔獣を放つことになるのではないか。
きちんと魔獣にとどめを刺さなければならないのではないか。
碕沢の思考は危険な方向へ流れていた。
彼の気配にも変化が訪れている。
碕沢は大きな樹木に綺紐を巻きつけた。
そのまま木を中心に置いて横方向に回転する。
Uターンする形である。
碕沢の視界に暴喰爬の姿がはっきりと捉えられた。
――でかい。
大きな口からよだれが垂れているのが、なぜだか碕沢の印象に強く残る。
それは魔獣の食欲の表れを鋭敏に感じとったからかもしれない。
碕沢はすぐに綺紐を飛ばした。
前方ではなく、横方角にある樹木へと彼は綺紐を放っていた。
地面を一蹴りするだけで、暴喰爬がぐんと距離をつめる。
だが、すでに碕沢は回避行動をとっている。
暴喰爬の腕は長い。
余裕で避けられると思った碕沢の予想をこえて、暴喰爬の腕が伸びてきた。
碕沢は空中で体勢を変えることで、暴喰爬の爪を避ける。
チッというかすかな音がした。
当たったのか当たらなかったのか分からないほどの接触である。
だが、その結果は劇的であった。
碕沢の身体が捻じれる。
彼の身体はそのまま凄まじい回転にさらされた。
あらぬ方向へと飛ばされ、受け身をとることもかなわず木に激突した。
碕沢は頭から地面に落下する。
何とか左腕を伸ばして頭部を地面にぶつけることを防いだ。
幹の大きな樹木から突然破裂音のようなものが響いた。
内部の何かが弾け、それはついに木の外部にまで達する。
音をたてて大きな樹木がゆっくりと倒れた。
碕沢は木の根元に倒れていたおかげで、倒木の被害をこうむることはない。
だが、危難が去ったわけではなかった。
いや、本当の危機はすでに彼の眼前にまで迫っている。
碕沢をのぞきこむように暴喰爬が首をゆっくりと振っていた。
全体の四分の一を占めるのではないかという巨大な頭が接近する。
よだれが地面にボタリボタリと落ちていた。
碕沢はすぐに立ちあがろうとしたが、身体が言うことをきかない。
痛みがあるわけではなかった。
いや、全身を痛みが駆けまわり、感覚が麻痺していた。
爪がかすっただけの攻撃とも呼べない攻撃。
その衝撃が全身を駆けめぐっただけで、碕沢の肉体はショック症状を起こしていたのだ。
碕沢には何とかしようとする意思はある。
だが、思考は形を持つ前に散り散りとなり、定まることがなかった。
身体は動かず、思考も停止。
視線は暴喰爬に向けられている。
だが、焦点は合致と動揺を繰り返していた。
今の碕沢は魔獣に対する生贄としてのみ存在しているかのようだった。
碕沢の力など真に強力な魔獣の前では、まったく通用しなかった。
脇腹が異様な熱を持っている。
生命が流れ落ちていくかのような感覚が碕沢を包んでいた。
彼は無意識のうちの増長していた鼻っ柱を最悪のタイミングで折られたのである。
巨大な頭部にふさわしい巨大な咢を最大限に開き、暴喰爬が碕沢を丸ごとむしゃぶりつこうとした。
牙と牙とが重なる寸前に、暴喰爬の巨躯が大きく揺らぎ、横へと倒れ込む。
魔獣が体勢を崩したおかげで、碕沢は無事だった。
暴喰爬が攻撃を行った相手を確認するように、頭部を旋回させた。
――その瞬間。
巨大な頭が炎によって包まれる。
咆哮を轟かせ、暴喰爬が頭部を地面にこすりつけて火を消そうとした。
消火の最中に魔獣はさらなる攻撃を受ける。
胴体部分に、見えない刃が空気を割って斬撃した。
まるで風の刃のようである。
おそらく硬く分厚いであろう暴喰爬の皮を風の刃はいともたやすく切り裂く。
遅れて鮮血が空を舞い、地を濡らした。
「まったくしょせん人間風情ですね」
まさに音もなく何者かが碕沢の隣に立った。
碕沢の身体が抱えられる。
碕沢は相手を確認しようとしたが、視界はぼやけ残念ながらはっきりと見ることはできなかった。
碕沢の身体に風が当たる。
どうやら正体不明の人物が碕沢を抱えて移動を開始したらしい。
しかも、どうやら戦いながらそれを行っているようだ。
魔獣の咆哮がそう遠くないところから聞こえていた。
そして、碕沢はついに意識を手放した。
「いつまでも私に抱きついているつもりです」
碕沢の身体が揺らされる。
声と振動によって、彼の意識は覚醒した。
ぼんやりとした思考、ぼんやりとした視界。
数秒の時間を要して、ようやく碕沢は感覚を取り戻す。
最初に感じたのはいい匂いだな、ということだ。
次に意識したのは、全身がやわらかく細いものに包まれているということだった。
「いいかげん離れてほしいのですが」
「え?」
女性の声。
それを意識した途端、碕沢は自分の状況をようやく理解した。
「悪い」
と言いつつ、身体を離す。
そう、碕沢は女性に抱きしめられていたのだ。
いや、おそらく碕沢が一方的に寄りかかっていたのだ。
――綺麗な女。
と思った瞬間、意識がブラックアウトしそうになる。
「貧血ですね」
驚くほどに近い場所で、女の声が聞こえた。
またもや、碕沢は女性の手をわずらわせてしまったらしい。
「傷の手当はしました。出血はとまっています」
「――ありがとう。もう、大丈夫だ」
碕沢は女性から離れた。
身長は碕沢より低い。冴南と同じくらいだろうか。
細身である。
冴南やサクラも細いが、彼女たちよりももっと細い。
ただし、その代わりというわけではないだろうが、胸部の主張はかなり控えめだ。
白い輝きを放ちそうな黄金の髪が腰のあたりまで流れている。
緑水晶のような瞳が切れ長の目に収まっていた。
鼻梁は高く通っており、顎が細く顔のラインはシャープだ。
表情があまり豊かではないので、冷たい印象があり、氷の美を感じさせる。
処女雪のような白すぎる肌はどこか作り物めいた人工美を想起させた。
それも氷の美を助長しているだろう。
碕沢は視線を外した。
碕沢が見とれた時間が一瞬だけだったのは、異なる種類ではあるものの、美貌の類に見慣れているという経験があったからだろう。
その時、碕沢の脳裏を不意に映像が流れる。
巨躯の魔獣だ。
遅れてこんな重要なことを思い出すなどあまりに間抜けなことだった。
「あいつは――」
「あいつ?」
「あのでかい魔獣だ」
「ああ、暴喰爬ですね。棲み処に戻っていきましたよ」
「戻った? ……あなたがやったのか?」
「あなた以外には私しかあの場にはいませんでしたね」
簡単に言ってのける。
事実だとすれば、驚愕するべき強さだが、碕沢にはぴんとこなかった。
一瞬、魔法戦のような光景が脳裏をよぎったが、すぐに霧散する。
まだ、彼の思考は本調子ではないらしい。
「――命を救われたってことだな。ありがとう」
「素直なことはいいことです。人間の中には感謝の気持ちさえ伝えることができない愚か者がいますからね」
プライドは高そうだが、驕慢ということはないらしい。
こちらが誠実に接すれば、相当の対応をするタイプだろうか。
「ここがどのあたりか分かるか?」
「森の終わりに近いですね。このあたりまで来れば、人間を追っている魔獣じゃないかぎり、遭うことはないでしょう」
「やつらの縄張りから逃れられたということか――」碕沢は今さらあることに気づいた。「俺を背負ってこんなところまで?」
「先程と答えは同じです」
「見た目よりずっと力もちなんだ」
彼女は四肢や腰など身体のすべてが細い。
とても筋肉がついているようには見えなかった。
碕沢もパワーは格段にあがっているが、筋肉はさほどついたわけではない。
この世界ではパワーの上昇に筋肉量は関係ないということのようだ。
「女性に対して言うべき言葉ではありませんね」
「それは失礼」
「謝罪もできるのですね」
エルフは美しく微笑する。
感情のあまり見えない作られた微笑だった。
彼女の言葉と態度から、碕沢はやはりエルフはお高くとまった種族なのだろうか、と偏見になりかねない感想を抱いた。
「ああ、そう言えば、名のっていませんでした。俺は碕沢といいます」
碕沢は口調を改めた。
「私はエルドティーナ。神域の森から来たエルフです」
誇りでもあるのか、エルドティーナはわざわざ種族までも明言する。
エルドティーナの容姿でもっとも目を引くのがその特徴的な長い耳だろう。
碕沢の感覚からすれば、異質性や違和感を覚えるのが当然なのだが、彼女の耳はごく自然になじんでいた。
碕沢はエルフの印象を特に持っていなかったが、エルドティーナを見て何となくエルフであることが納得できた。
まあ、筋肉もりもりの巨体の男がエルフと名のっても、彼は、それはそれで納得したかもしれないが。
「ずうずうしく頼むけど、森の外まで案内してくれないか?」
「確かにずうずうしい頼みですね」
「この程度のずうずうしさは生きる上で必要だろう?」
碕沢の言葉にエルドティーナほんのわずかだけ大きな目を細め、苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべた。
「それは了承の合図か?」
「私はあなたの保護者ではないんですけどね。これ以上私に何かを望むのなら、対価を払うべきでしょう。あなたは相応の何かを私に与えることができるのですか?」
「相応の何か? 第一候補は金かな」
「そんなものでエルフを釣れるとでも?」
「金はあらゆるものを数字化した相対価値をわかりやすく示すものだから便利だと思うけど、気に入らないのなら……そうだな、俺と一緒にいれば退屈しないというのはどうだ? 少なくとも俺を抱えて移動している間は、退屈なんてする暇はなかっただろう?」
長い時間をエルフは生きている、という付け焼刃な知識を碕沢は思い出していた。
おもしろいという単語は、重要なキーワードではないか、との安易な発想だ。
「なるほど本当にあなたはずうずうしい。でも、一緒にいれば、退屈しないのですね。あなたは責任をとる自信がある?」
女性から責任をとってと言われると、男ならばどきりとするものだ。
だが、碕沢はそのあたりが鈍感らしかった。
躊躇なく頷く。
「ああ、楽しむってことは、俺にとっても重要だからな」
答えになっていない答えを碕沢は返した。
駄目だったなら、森を出てから謝ればいいさ、と彼は軽く考えていた。
危機を回避したために、完全に腑抜けモード、あるいは楽観モードに碕沢の精神は移行していた。
「おもしろいですね。では、楽しませてもらいましょう――あなたの人生で」
エルドティーナの綺麗な微笑。
だが、それは肉食獣が嗤っているかのような静かな獰猛さが見てとれた。
「いや、どういう――」
嫌な予感を覚え、碕沢は一歩エルドティーナに向かって踏みだした。
だが、彼の身体はまだ本調子ではない。
力の入らない彼の足元は覚束ず、前方へと身体を投げ出すことになった。
碕沢の前方には、細身のエルフがいる。
柔かな感触が碕沢を包んだ。
黄金色の髪が風のように碕沢の顔をかすめる。
「あなたはそんなに私に抱きかかえられたいのですか? スケベですね」
「いや、これは」
碕沢はすぐに離れようとした。
だが、彼の行動はさえぎられる。
エルドティーナが細い両腕で碕沢をしっかりと抱きしめ、身動きをとれないようにしたのだ。
みしりと脇腹に痛みが走る。
いったい何が起こっているのか碕沢には分からない。
一方で、顔にささやかな膨らみがあたっている感触は分かった。
だが、その柔らかさを楽しむことはできなかった。
「いったいあなたは何をやっているの?」
感情を押し殺した女の声。
二人分の足音が高らかに響く。
それは碕沢の背後から近づいてきていた。
この場を安全だと認識したのは誤りであったらしい。
ため息をつく暇も与えられず、エルドティーナの胸から碕沢の頭は後方へと強引に抜き取られたのだった。
碕沢の視界がひろがり、黄昏の空が見える。
同時に、二つの見覚えのある人影が視界に入った。
冴南とサクラだ。
戦力が増強され、状況は改善された。
三人の女はいずれも微笑みを浮かべている。
だが、まったく友好的な空気だと思えないのはどういうわけだろうか。
というか、サクラの表情は微笑みではない。あれは獲物を前に口元をまくりあげて牙を見せつける猛獣のそれだ。
体調が万全であったなら、戦略的撤退を即座に実行する碕沢だったが、現状彼の足は大地を踏みしめるだけで精一杯だ。
しかも彼の頭はまだ冴南の手につかまれたままなのだ。
「碕沢君、私はあなたが危険に身をさらしていると聞いていたのだけれど、いったいさっきのは何だったの? きちんとした説明をしてくれるかしら」
真横から冴南の不自然にやわらかい声が碕沢の耳に届く。
碕沢はへへへと笑った。
むろん、そんなごまかしは通用しなかった。
碕沢の頭がみしりと危険な音を奏でる。
「こけただけだ!」
碕沢は事実を叫んだ。
だが、すぐ傍にいるはずの冴南の耳には届かなかったようで、彼の頭痛はさらにひどくなったのだった。




