一章 試験(9)
碕沢は森の中を一人で息をひそめながら移動していた。
他の三人とはぐれたというわけではない。
魔獣の接近を感じ、碕沢が囮となったのだ。
魔獣を彼が引きつけ、三人は先に逃れてもらう。
まだ碕沢は魔獣と接敵していない。
まったく刃を交わしていなかった。
できるならば、魔獣の強さを実感する機会がなければいい、と碕沢は思っている。
皆がおそれているウォーレン山の裏面に棲む魔獣である。
碕沢だって戦いたいなどとは思っていないし、自分の力が通じると考えるほどうぬぼれてはいなかった。
離れたところに魔獣の気配がある。
ずっと碕沢を追ってきている。
もう少し引き寄せた後に、いっきに移動速度をあげて巻くつもりだった。
三人が進んでいる方向はだいたい分かっている。
碕沢は方向音痴ではなかったので、合流はおそらく可能だろうと楽観していた。
魔獣から逃れることが可能か否か、それが唯一にして最大の問題だった。
碕沢はアトレウスとの会話を思い出す。
そもそも最初に魔獣の存在に気づいたのは、あの少年だったのだ。少年自身はずいぶんと否定的ではあったが……。
「どうした?」
方々に視線を飛ばしていたアトレウスに碕沢は声をかけた。
走りながらではあったが、後ろの二人の速度にあわせていたので、碕沢にはまだ喋る余裕がある。
「何か見られているような気がします」
意外としっかりとした口調で、アトレウスが答えた。
この少年もまだ余力を多く残しているようだ。
どうやら走っている三人の中でグルクスがもっとも体力がないということになりそうだった。
グルクスの速度にあわせているのだが、だからといってグルクスも限界ぎりぎりではさすがに走ってはいなかった。
いざという時に、疲れて動けませんでは戦いにならないからである。
「魔獣か?」
「違うと思います。敵意が感じられません」
「魔獣でも敵意がないやつがいるんじゃないか」
「僕はそんな存在聞いたことがありませんね」
アトレウスが馬鹿にするように言った。
その後もアトレウスは周囲に視線を飛ばし、最大限の警戒を行っていた。
ちなみに碕沢にはまったく分からなかった。
アトレウスのほうが感覚が優れているということだろうか。
それとも単なる気のせいか。
結局、この十分後に魔獣の気配を碕沢は感じた。
アトレウスの感覚が正しかったことが証明された、と彼は思ったのである。
だが、当のアトレウスは魔獣がいると分かっても、どこかすっきりとしていない様子を見せいていた。
さて、現状の確認である。
背後にいる魔獣に関して、であるが、これがさっぱり分からない。
そもそも目視していないので、姿形が分からないのはしょうがないのだが、大きさすら定かではなかった。
地面を踏みしめる音や木を倒す音などはしない。
朱猩のような巨躯の魔獣ではない可能性がある。
もちろん、巨大な体格でありながら気配を感じさせない魔獣という可能性もないわけじゃない。
敵の正体が分からないことがもっとも恐ろしいと言われる。
恐ろしいとまでは碕沢は思っていなかったが、不気味さを感じていた。
これまでの魔獣からは感じたことのない感覚である。
碕沢は身をひそめて移動している。
なのに、変わらずに一定の距離を保って魔獣はついてきていた。
魔獣には碕沢の居場所が分かっているということだろう。
わざと引き寄せていっきに逃走し、逃走経路を別方角へと誤認させてから撒くというのが碕沢の方針だったのが、今になって落ち着いて考えると、少々リスクが高いように思えた。
わざわざ魔獣を引き寄せる必要はないだろう。
このままもう少し三人がとっているはずのルートから離れ、一気に引き離すほうが安全ではないだろうか。
もちろん、碕沢の移動する距離がのびることで、他の魔獣と遭遇する危険性は高まるだろう。
だが、背後に迫る不気味な魔獣に近づくリスクと、新たな魔獣に遭遇するかもしれないというリスクを天秤にかけたなら、碕沢は前者のリスクのほうが高いと判じたのだった。
さらに三十分ほど時間をかけて移動し、碕沢は充分な距離を稼げたと判断した。
決断は一瞬。
いっきに脚力を高め、碕沢は魔獣を引き離しにかかった。
樹木の間を駆けぬけ、綺紐を使って、上空を跳躍する。
空間を三次元に利用した全力の逃走である。
それまでとは比べものにならないほどの速度を碕沢は爆発的に引き出した。
だが――まったく距離が開かない。
五分間ほどの鬼ごっこの結果、碕沢は背後の魔獣の力を理解した。
間違いなく碕沢より上だ。
スピードはもちろんだが、それ以外のすべても上をいかれている。
完全に格上と言えた。
しかも、すぐに追いついて来ないのは、いつでも碕沢を狩れるという自信があるためだろう。
そして、碕沢の逃走につきあっている理由は楽しんでいるからに違いない。
人間と見れば襲いかかるという魔獣の単純性を、理性や嗜好によって跳び越えているのだ。
能力も及ばないのに、狡賢さも備えているとしたら、正直碕沢の勝利の可能性は皆無と言えるだろう。
逃走劇のみで勝てないという事実を押しつけられた。
予想していなかったわけじゃないが、改めてつきつけられた現実は、なかなかにしんどいものがある。
――後ろ向きすぎるかな、
と思わないでもない。
いくらか碕沢も力をつけているのだから……。
だが、敵をあまく評価するよりはよっぽどいいだろう。少なくとも戦いになるまでは。
碕沢は三人と合流することをあきらめた。
引き離す目的で来たのに、魔獣を連れてきたでは話にならない。
とにかく南方と思われる方角へ、碕沢は逃走を続けることにした。
だが、碕沢はほどなく幸運に巡りあうことになる。
背後をつけてくる魔獣の気配がなくなったのだ。
碕沢は最初、これに対して襲撃の可能性を第一に考え、さらに警戒を強めいつでも戦える準備をして移動した。
気配を消して魔獣が奇襲をかけてくると予測したのだ。
だが、いっこうに魔獣が襲ってくる気配はなく、十分が経過しても、結局襲われることはなかった。
理由は分からないが、どうやら撒くことに成功したらしい。
まさか、別の強力な魔獣の縄張りに入ったわけじゃないよな……。
嫌な予感が脳裏を走ったが、碕沢はしばらく様子を見た後、三人と合流するための進路をとったのであった。
判断の選択肢にあげながらも、この時碕沢は、他の魔獣に襲われる可能性をさして考慮していなかった。
迂闊にも思いもつかなかったのである。
背後から追われ続けるという恐怖感がやはりどこかにあったのか。
そのストレスのために客観的思考力が欠けていたのだろう。
碕沢とは別に、森の中では三人の疾走が続いてる。
グルクスの足の動きが遅れだした。
限度ぎりぎりの速さで走っている。しかも抱えているのは自分のみの重さではない。
筋肉質の男を背負って走りっぱなしなのである。
霊力を吸収し、一般人以上の力をもつとはいえ、限界があることには変わりがないのだ。
グルクスとアトレウスの移動速度は低下した。
碕沢が囮になっている状況で逃走速度を落とすことなどしたくなかったが、身体がいうことをきかなかったのだ。
この状況下で良い点をあげるとするなら、重傷のライアスがさほど悪化していないように観察されることだ。
ライアスの冒険者ランクはDプラスである。
跳びぬけて凄いとは言えないが、一定の実力が認められるレベルである――冒険者で実力者とされるのはランクCマイナス以上。
さすがに肉体は頑丈だと言えた。
このまま何とか森を脱出して、きちんとした治療を受ければ確実に命は助かるだろう。
グルクスはそこに希望を見ていたが、ライアス自身は違うらしかった。
「俺がもっと重傷だったなら、おまえたちだって俺を見捨てられただろうに――中途半端な傷だから……」
ライアスは自身が助かることより、自身が足手まといになっていることを責めていた。
特に碕沢が囮になって以降、そういった傾向が見られる。
年少のアトレウスが無感情な眼差しでライアスを見ていた。
ライアスの発言に何かしら思うところがあるのだろう。
「たとえどんな傷でも、俺たちは――俺はおまえを助けるために最善を尽くす。見捨てることなどしない」
グルクスは宣言した。
魂からの発言だった。
「……この傷は俺の責任だ。俺がヘマをしたんだ。誰も責任を感じる必要はない」
グルクスをかばってライアスが重傷を負ったという事実は消えない。
グルクスは消すつもりもない。
だが、それはライアスを助けるというグルクスの気持ちをさらに強くしただけにすぎない。
「……ケガをしたのがどんな理由だろうと、俺はおまえを見捨てない。ライアスだって逆の立場ならそうだろう?」
意思のみで構成されたようなグルクスの言葉だった。
グルクスの背でライアスはしばし沈黙した。
そして――。
「俺は生きるために最善を尽くす男だ」呼吸を整えてライアスが言う。「俺なら皆に迷惑をかけるようなヘマをしたやつは見捨てるね。相棒のおまえもそうだと俺は信じている」
痛みを伴う静寂が二人の間を流れた。
どちらも口をきかない。
すると口数の減っていたアトレウスが口を開いた。
「僕もライアスさんを背負いますよ。交替して背負ったほうがより速く移動できると思います――ああ、見た目で判断しないでください。僕だって成人男性一人くらい簡単に背負える体力はあります。そうじゃないと、試験なんか受けません」
グルクスはその提案を意外に思った。
魔獣に対してもっとも強い警戒心を持っていたのはアトレウスだ。
この少年は碕沢の行動にも否定的だった。
おそらくライアスの発言した内容と似たような思想を持っているとグルクスは考えていたのだ。
「碕沢さんじゃないですけど、いざという時はともかく、それ以外はまあ協力したほうがいいですよね。ここでつまらない議論や言いあいをするほうが、よっぽど時間の無駄ですし」
グルクスはアトレウスの提案を受け入れた――荷物となっているライアスに発言権はない。
これ以上グルクスはライアスから自己犠牲の言葉を聞きたくなかった。
グルクスの背中からアトレウスの小さな背中にライアスは移動した。
「結局、アトレウスが何かに見られていると言ったのは、魔獣だったんだな」
ライアスの言葉だ。
彼も少年の言葉を受け入れたようで、別の話題を口にした。
「碕沢がいなくなって、視線も消えたんだろう?」
自分でも珍しいと思いながら、グルクスも話題にのった。
それはライアスに対して間接的に和平の手を伸ばす行為であった。
「違うのか?」
とライアス。
やや口調は苦しそうだ。
このライアスの言葉で、グルクスは和平がなったことを感じとった。
長年の友人のみが分かりあえる感覚だろう。
「そう言われると否定できませんね。確かに碕沢さんがいなくなって、視線は消えましたから……それより、出発しましょう。森を脱出するのに、まだ遠いんですから」
三人はまた移動を開始した。
先程のグルクスに比べたらずいぶんと速度はあがっていた。
だが、しばらくして状況が変化する。
周囲が変わったわけではない。
ライアスの症状だった。
アトレウスが背負ってしばらくしてライアスは眠りについた。
グルクスはライアスが眠ったことに不審を覚えた。
だが、起こすほどの不審ではない。
むしろ、眠った状態で移動したほうが本人の負担は少ないだろう、とグルクスは理性で判断した。
だが、後にして思えば、この時ライアスの体調には異変が起こっていたのかもしれない。
アトレウスの走る速度が落ちたところで、再びグルクスがライアスを背負った。
その時、ライアスは瞼をあげたが、顔色はさらに悪くなっていた。
呼吸にも乱れが生じている。
発汗が激しい。
急激に容体が悪化していた。
急ぐ必要がある。
グルクスとアトレウスは最大の速度を保ち南へ向かって移動した。
喜ぶべきだろう――魔獣に遭うことはなかった。
途切れそうな意識の中で、ライアスは夢を見る。
それは子供の頃に見た夢。
精鋭キルランス軍団に所属し、魔獣を斃す光景。
ライアスは夢を見る。
夢が叶うことはあるのだろうか……。




