一章 試験(8)
「神原さん、君は凄い。私はこれまで自分以上の人間に出会ったことがなかったが、君という存在を知ることで己の未熟に気づくことができた。できればこれからも――」
美形と称して差しつかえない男がやや大仰に両腕をひろげ、冴南のことを賞賛した。
「私以上の人間なんていくらでもいると思います。私と出会わなくてもいずれ、あなたは自身の未熟を知ることになったのではないでしょうか?」
冴南は口調と雰囲気によって、相手との間に明確なラインを引く。
相手に伝わるように分かりやすくしたのは、もちろん意図的なものだ。
「――え?」
「班行動はすでに終わっているので、これで失礼します」
「いや、ちょっと待ってくれないか」
「何か用件が? 手短にお願いします」
「そんな今試験が終わったばかりで、そして最優秀の結果を残した私たちに急ぐ用事などないだろう?」
男に対して冴南はかすかに微笑むだけで答えた。
男が眉をひそめる。
冴南の意思が通じたらしい。
「では、失礼します」
「ああ、また、後で」
と男が言った。
班行動をしている時は、なかなか頼りになる男だった。
冴南に近いタイプの戦士で、最初こそはりあうような素振りを見せたが、途中からは冴南の指示に従うようになった。
こちらの意図を察する感覚も悪くない。
戦場においては良い仲間となるだろう。
だが、それ以外の場において、冴南は関心がなかった。
「あんたかなり強いな。俺より強い女なんて初めてだ。気に入ったぜ、どうだ、俺の女にならないか。俺たちならいい相棒になれる」
野性味あふれるというより、野蛮な雰囲気を持った男がサクラに親しげに声をかけた。
「弱い自分を守って下さいと言っているの?」
「弱いだと? この俺が?」
「あの程度の戦いぶりでまさか強いとでも言うの? 私とはまったく別世界で生きているのね。ああ、世界が違うというのはこのことね」
ふふふとサクラは碕沢のことを思い出して笑った。
彼が言っていたのだ。
俺と君とは住んでいる世界が違うんだ。いや、本当だからな、と。
サクラと碕沢が住んでいる世界は間違いなく同じだが、確かに世の中には住んでいる世界が違う者たちもいるのだ、
というより、そんな者たちばかりだ、人間は。
弱い者たちばかり。
まったく興味を惹かれない。
「はん、つまらない挑発だな。それこそ弱っちいやつらならそれで怒るだろうが、俺は強いからな。そんなことで、感情は乱さねーぜ」
と言いながら、男の手は握り拳をつくり、しかもかすかに拳が震えていた。
サクラは男の言葉に応えず、横を素通りしていこうとした。
すると、男がサクラの前をさえぎった。
なぜか男が笑顔を浮かべている。
サクラは男の横をもう一度通り抜けるようなことはしなかった。
右掌で男の左頬をビンタしたのだ。
やや鈍い音を立てながら、男の身体が横向きに倒れる。
棒のように倒れて、受け身をしたようには見えなかった。
すぐに立ちあがることもない。
どうやら気絶したらしい。
サクラは男を一瞥することすらなく、そのままその場を歩き去った。
周囲の者たちは、突然の惨事に全員顔を引きつらせている。
サクラは、野蛮に見える男のことをまったく相手にしなったが、男の能力は決して低くはなかった。
サクラのいた班の中で何とかサクラについてこようとしていた唯一の男だったのだから、弱いということはない。
まあ、ついていこうとしたことと、実際についていけるのとは異なるし、結果、男はついていけなかったので、サクラの視界に入らなかったのは仕方のないことかもしれなかった。
どうやら今回の試験はいつもとは違うらしい。
冴南は駐屯している集団の雰囲気からそれを察知した。
だが、異変がすでに自分たちを襲っているという事実には気づいていなかった。
冴南はサクラと合流して、初めて碕沢に危険が生じている可能性を知ったのである。
それはサクラの言葉から始まった。
「碕沢がいない」
「まだ、戻ってきてないの? 苦戦するほどじゃないと思うけど」
「違う。ずっと遠くにいる。移動しているようだけど、こっちには向かっていない」
「どういうこと――いえ、あなたにも碕沢君に何が起こったかまでは分からないわね。大隊長に訊ねに行きましょう」
「そんなことより、碕沢のもとに行ったほうが早い」
「情報を得てから行動したほうが結局早く済むの。それに何らかの危険に巻きこまれたのなら、救援部隊を出すかもしれない。それにまじればいい。精鋭だろうから、私たちの足を引っ張るということもないと思う」
自信過剰ともとられかねない冴南の発言である。
だが、彼女は模擬戦をした経験と試験時の観察から、自分たちの強さの位置をある程度把握していた。
一般兵に劣るということはない。
隊長にも勝てるのではないか、と考えている。
むろん、隊長たちは強さに違いがあるだろうから、彼女より強い者もおそらくいるはずだ。
仮に救援部隊を選抜するとしたなら、隊長クラスが並ぶことになるだろう。
戦力としては期待できるに違いない。
「碕沢が苦戦しているかもしれないのに、ここにいるやつらが役に立つの?」
皮肉の口調ではない。
サクラは純粋にそう思っているのだ。
サクラの戦力分析――おそらく勘だろうが――では、隊長クラスでも役に立たないということだろう。
「とにかく大隊長に会う。そこで判断しましょう。時間はかけないわ」
冴南は速足となって歩く。
サクラは納得していないようだったが、いくらか冴南のことを信頼してくれているのか、彼女の後についてきた。
一直線に大隊長たちがいる場所へ向かっていると、直前で冴南は呼びとめられた。
視線を向けると、髭面の男がいた。
「急いでいるところ悪いが、おまえさん碕沢の女じゃないか」
「言い方に語弊があります。仲間です。それで何か用ですか? 急いでいるんですけど」
「すまない。俺がついていながら碕沢を――」
髭面の男――オーダンが懺悔する。
だが、冴南は懺悔をすぐに切り上げさせて状況の説明を求めた。
表現しがたい表情を浮かべた後に、オーダンは何があったのかを冴南とサクラに説明してくれた。
事情を聞いて、冴南はとりあえず安堵した。
崖から落ちたということだが、サクラの話によると碕沢はすでに移動している。
おそらく大きな負傷はしていないということだ。
無事である可能性が高いだろう。
「山の裏にいる魔獣はそんなに強いのですか?」
「ああ、ここにいるやつらじゃ、大隊長くらいしか互角に戦えるやつはいないだろうな。大隊長でももしかしたら危ないかもしれない」
安堵を覚えるのは早かったらしい。
碕沢は現在進行形で危険の真っただ中にいるのだ。
「――じゃあ、救援部隊が結成されるということはありませんね」
冴南は冷静に判断する。
危険をおかしてまで受験者を救いにいくことなどしないだろう。
「今、うちの班についていた監督官が大隊長に状況の詳しい報告と意見を言いに行っている。あの監督官は助けに行くべきだと主張してくれるらしいが……」
オーダンの視線が動く。
「ちょうど戻ってきたようだ」
厳しい顔をして兵士がこちらに歩いてきていた。
オーダンがまず声をかけ、そしてすぐに冴南たちを紹介する。
その監督官はすぐに本題に移った。
「悪いが救援部隊は送られないことになった。ここにいる他の受験者を守ることが先決とされた」
「生きているかどうか分からない人間のために危険はおかせないという判断ですね」
冴南の口調は攻撃的なものになった。
監督官の言葉は彼女が推測したとおりの内容だったが、だからといって見捨てることを容認できるはずがなかった。
はっきり言えば、気に食わない。
「冴南」
サクラが名を呼んだ。
「ええ、分かっている」
サクラに頷いた後、冴南はオーダンと監督官に小さく頭をさげた。
「待て。碕沢の居場所も分からないのに闇雲に追いかけるつもりか……いや、そもそも君たちではあの一帯の魔獣には――」
「碕沢秋長の居場所は分かります。この子はそのあたりちょっと勘が優れているんです」
冴南は監督官の言葉に心配の念を感じとったので、答えを返した。
「場所が分かる?」
信じがたいといった口調だ。
「ええ、そうです」
「ちょっと待て、分かった。信じよう」
冴南がすぐにでも会話を切りあげたいことをさとったようで、監督官が続けざまに話しかけてきた。
「碕沢が無事なら、おそらく彼は南に向かって移動しているんじゃないか?」
監督官の言葉が正しいのか確認するために、冴南はサクラを見た。
いつまでも移動しないことにサクラは腹を立てているようだが、冴南が視線で問うと、しっかりと頷いた。
「なら、君たちは山に向かうんじゃなく、南から回り込むんだ。ウォーレン山は南に向かって絶壁が続いているが、当然終わりはある。そこから合流を目指したほうが危険も少ないし、おそらく近道になるだろう。そして、合流できたなら南へ行け。とにかく森の終わりを目指すんだ。そうずれば、魔獣どもの棲み処から逃れることができる」
「分かりました。助言、ありがとうございます」
「いや、礼を言われる筋合いはない。本来は私たちが助けなければならないのだからな」
第三軍団にもまともな人はいるようだ、と冴南は感想を抱いた。
「冴南」
と、サクラが呼ぶ。
彼女は早く碕沢の元に駆けつけたくてたまらないようだ。
「分かった」
「待て、俺も行こう」
髭面の男が言う。
「邪魔」
と、サクラが一言で切って捨てた。
「ケガの治療をしてください」
社会的常識のある冴南は、言葉を変えて、オーダンの協力を断ったのだった。
そして、冴南とサクラは走りだす。
背中から呼びとめるオーダンの声に答える必要性はまったく感じない。
サクラの先導の元、冴南は碕沢を救うために全力で駆けだした。




