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序章6 苦戦




 碕沢は知るはずもないが、彼に一歩一歩近づいてくるゴブリンは、ゴブリン・ヴァイカウントと呼ばれる種であった。

 碕沢たちが指揮官と認識していたゴブリンが、ゴブリン・バロンと呼ばれる種で、ゴブリン・ヴァイカウントはその一つ上の上位種にあたる。


 碕沢は木に背中を預けるようにして立ちあがった。視界の端では、ゴブリンたちが流れるように走っていく姿が映っていた。玖珂と冴南を追っているのだろう。

 だが、碕沢にはそれらにかまっている余裕はない。

 近づいてくるゴブリン・ヴァイカウントに視線を投じるだけで精一杯であった。


 身長は碕沢とたいして変わらない。だが、碕沢は気圧されている。その迫力は他のゴブリンとは比べものにならなかった。姿形は普通のゴブリンとそれほど大きく変わらないはずなのに、身長が高くなったというだけで、その圧力は桁外れのものとなっていた。

 異なるところは他にもある。表情だ。表情が豊かになっていた。凶悪な顔に弱者を貪る愉悦が乗っている。

 対峙する者に楽しくない未来が訪れることを否応なしに予感させた。


 距離は五メートルを切った。

 碕沢は木から離れる。それだけの動きで、身体に軋みが走った。本来痛みはマイナス要素だ。だが、その痛みが碕沢を救ってくれた。恐怖に支配されかける彼の心に痛みが活を入れていたからだ。

 攻撃はぎりぎりまで我慢する必要がある。

 互いの距離が二メートルを切ったところで綺紐きじゅうを飛ばし、咽喉を貫通させる。そのまま綺紐に硬い棒のイメージを乗せて、ゴブリン・ヴァイカウントの咽喉を横へと斬り裂く。

 一撃で決めるのだ。

 碕沢と綺紐の力は上昇している。二メートルという近距離まで呼びこめば、綺紐でゴブリン・ヴァイカウントの皮肉を破ることも可能だろう。

 それに賭けるしかなかった。


 碕沢はタイミングを計る。

 ゴブリン・ヴァイカウントは、碕沢が戦闘態勢に移行したことに気づいているだろうに、まったく動きを変えず、一歩一歩時間をかけて近づいてくる。

 完全に碕沢を舐めている。

 ゴブリンが何かを弾いた。

 それが何なのか碕沢には分からなかった。隙というほどに大きな動きではない。それが分かるだけで充分だった。周囲を見わたすような余裕は、彼にはなかった。追い込まれているのだ。

 ひどく時間が流れるのが遅かった。

 碕沢は攻撃に逸る気持ちを抑えこむ。チャンスは一度しかない。ゴブリン・ヴァイカウントが本気を出していない今しか隙はないのだ。


 ――あと二歩。


 攻撃したい。いや、逃げだしたい。本能が目の前の敵にはかなわないと碕沢に訴えかけてくる。


 ――あと一歩。


 碕沢は意識を集中した。


 ――今だ!


 綺紐を右手から解き放つ――寸前にゴブリン・ヴァイカウントの姿が碕沢の目の前から消えた。

 左腕に、肘に、激痛が走る。

 砕けた――いや、腕がなくなった、と思った。

 破壊のイメージが全身を駆けぬける。

 碕沢の思考は痛みに支配された。身体は意思の制御下から離れ、慣性に任せて吹っ飛ばされるままになった。

 ボロ雑巾のようにもみくちゃになって転がる。

 身体が停止した時、碕沢の瞳に意思の光はなかった。

 呆然と見開いた彼の瞳からは意図せぬ涙が流れ、開かれた口からはよだれが垂れていた。足を抱え込むように丸まった身体は、痙攣を起こしている。


 碕沢の左腕は無事だった。あまりの痛みに神経が情報齟齬を起こしたのだ。だが、骨が折れているのは間違いなかった。腕はそこだけだらりと伸びていた。

 青いもやにより強化された肉体であったからこそ、まだ何とかもったのだろう。


 ゴブリン・ヴァイカウントがやったことは、単純だった。

 碕沢の左脇腹を狙って、踏み込み、右フックを放っただけだ。

 碕沢は認識していないつもりであったが、肉体はゴブリン・ヴァイカウントの動きに反応し、左腕をわずかにさげ、もっとも硬い部位の一つである肘で防御しようとしたのだ。

 そう碕沢は本能的な動きで防御に成功した。

 だが、相手の膂力はそれをあっさりと上回った。

 碕沢の左腕を壊し、内臓にまでその衝撃を届かせた。


 倒れた碕沢のことを嘲笑いながら、ゴブリン・ヴァイカウントがまたもやゆっくりと歩を進め始めた。碕沢は気づいていなかったが、このゴブリンは背中に大剣を背負っていた。それをまだ抜いていない。

 ゴブリン・ヴァイカウントは本当にただ碕沢のことをもてあそんでいるのだ。戦いにならないほどに強さには開きがあった。

 玖珂の予測したとおり、いや、それ以上にゴブリンの上位種は強かったのだ。





 大丈夫かもしれない――という思いを抱いたのと同時に、異変を冴南は感じた。

 背後にあった気配が消えたのだ。

 反射的に冴南は振り向く。走る速度が落ちることなど、まったく頭になかった。

 碕沢の姿が消えていた。代わりに、彼女が見たこともないゴブリンが立っている。

 ゴブリン・ヴァイカウントである。

 冴南の視線とゴブリン・ヴァイカウントのそれが重なった。

 ゴブリン・ヴァイカウントがにやりと笑う。

 冴南の背筋に冷たい何かが伝わった――それは恐怖だ。捕食者の欲望を冴南はゴブリン・ヴァイカウントの目に見たのだ。

 ゴブリン・ヴァイカウントが巨大な咆哮をあげた。びりびりと空気が震える。


 冴南はゴブリン・ヴァイカウントから視線を外し、碕沢を捜す。視線を飛ばしても、どこにいるのかがわからない。


「神原さん、もう少しこっちに下がってから、援護して。僕が行く」


 玖珂が冴南の横を駆けぬけていった。

 ゴブリン・ヴァイカウントはすでにゆっくりと移動を開始している。行き先を見ると、碕沢の姿が見えた。

 木に体重を預け、身体を引きずるようにして立っている。すでに負傷していることが、遠目でも分かった。

 すぐにでも助けに行きたいが、ゴブリンたちがこちらに向かってくる。あれに対処しなければ、冴南と玖珂もやられてしまう。

 とにかく今は、玖珂を信じ、彼が早くたどりつけるように、ゴブリンを始末して、道をつくるのだ。


 冴南はわずかに下がっただけで、すぐに弓をかまえた。

 最初の一本を碕沢に近づくゴブリン・ヴァイカウントに射る。次に、玖珂に向かっているゴブリンを標的とした。

 ゴブリン・ヴァイカウントがこちらを見さえせずに矢を払いのけたのを、冴南は弦を絞りながら視界に捉えていた。

 威力があがったはずの冴南の矢が片腕で簡単に弾かれてしまった。何という硬さ、何という反応だろうか。

 なぜ矢がくるのがわかったのか?


 ――何なの、あのゴブリン。


 冴南の手もとは微妙に狂ったが、それでも威力の増した矢は、ゴブリンを一撃で葬る。


 ――碕沢が吹っ飛ばされた。

 ――ゴブリン・ヴァイカウントが勝ち誇るように立っている。

 ――玖珂がもう一歩のところまで迫っていた。

 ――ゴブリンたちが、ゴブリン・ヴァイカウントのいる場所を避けて、こちらに突進してくる。

 ――中に一体、先程戦ったやや大きめのゴブリン――ゴブリン・バロンが姿を現した。


 冴南は周辺の状況を一気に認識していった。

 危機的状況にあって空間認識力と状況把握力の才能が開花し始めたのだろう。彼女は、戦場からごく短い時間で多くの情報をすくいあげていく。

 冴南はすぐに決断した。

 前に出るのだ。

 後方に下がって戦っていても仕方がない。いずれ追いつめられるだろうし、何よりこの位置では碕沢を助けることができなかった。

 玖珂はゴブリン・ヴァイカウントの相手をするので精一杯で、とても碕沢にかまっていられないだろう。

 冴南が動くしかなかった。

 彼女は状況を理解している。状況は絶望的であり、敗れる可能性が高いと理性が警告をかきならしつづけていた。

 ここでの敗北は死だ。

 生きのびることを目的とするなら、甘い判断だ――と言わざるをえない。

 だが、これが彼女の資質であった。

 ありえないと笑ってしまうそうだが、彼女は太陽の輝きを精神の心根に持っていたのだ。


 冴南は次々と矢を放ちながら、可能なかぎりの速さで前へと進んでいった。

 青い靄が絶え間なく彼女と彼女の弓に吸い込まれ、彼女は力を増していく。

 ゴブリン・バロンが冴南の射程に入らないよう、遠くから指揮している。

 冴南は矢の威力を見せつけるように、射出しながら、碕沢の傍へ――それはゴブリン・ヴァイカウントの傍へ、ということでもある――歩を進めていった。








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