五章 戦いの後、その夜(1)
ドーラス攻防戦は三日間に及んだ。
決して少なくない被害と犠牲者をだし、戦いは終結した。
三日目の夜、ドーラス総督府から正式に市民に向けて勝利宣言が発表された。
発表がドーラス総督ではなく、本国のキルランス第五軍団団長の名で出されたことは、疑問を覚える点ではあったが、戦いの緊張から解放された市民は夜を通して宴をひろげた。
市民に犠牲者は一人も出なかったので、多くの者が純粋にこの夜を楽しむことができた。
一方で都市の人口に比べれば圧倒的に少数ではあったが、兵士と冒険者の家族は、死の報告を受けその夜を悲嘆に染められ過ごすことになる。
さらに兵士たちもまだ役目から解放されてはいなかった。
ゴブリンの掃討が無事に終わったとはいえ、ドーラスの周囲にゴブリンが一体もいないとは言い切れない。激戦区となった出城から侵入されれば、ゴブリン・アールあたりの肉体能力があれば防壁を超えることが可能かもしれなかった。
ゴブリンの上位種の取り逃しがないよう注意していたとはいえ、絶対とは言えなかった。
ただし、たとえ逃げたゴブリンの上位種がいたとしても、キングを失った今、わざわざ人間の多くいる都市へ侵入してくることは考えにくかった。普通に考えれば、南東へと逃げ帰るはずである。
防壁には歩哨が立っている。
特に出城の周辺は歩哨の人数が多い。というより、その地点だけは兵士は動くことなく、一カ所にとどまったまま警戒している。
警戒しているものの、やはり緊張は薄い。
軽傷しか負うことのなかった兵士三人が任務にあたっていたが、視線はきちんと出城のあたりに向けられているようで、どこかぼんやりとしている。
かがり火がゆらゆらと揺れているのが、眠気を誘うのかもしれない。
一人の兵士が首を左右に振った。関節が鳴る音が響く。
はあーと大きく息を吐くと、両腕を伸ばすのにあわせて、身体全体で伸びをした。
その瞬間、彼の瞳は閉じられる。
三秒後、ゆっくりと首を回して兵士は警戒を続けた。
三秒というわずかな時間に、彼からほんの少し離れた場所を影が通ったのだが、目をつぶり伸びをしていた兵士が気づくことはなかった。
他二人もまったく気づかなかった。何しろ一人に至っては、船をこいで、別の世界へと旅立ってしまっていたのだから……。
「奇蹟的だな」という玖珂の言葉が象徴しているように、青城隊の被害は奇蹟と言うよりない状況にあった。
何と死者が一人も出ていなかったのだ。
北條が戦いの最中に公言していた言葉は本当だったと証明されたわけである。
まあ、彼も死者が一人もいないと知った時驚きの声をあげたので、あの時の北條は皆を鼓舞するために嘘をついたということなのだろうが。
死者はいなかったが、重傷者は出た。
彼らは青城隊の住居となった兵舎ではなく、病院へと運ばれた。中にはその後兵舎に帰ってきた者もいた。病院にとどまるほどの重傷者は全体の三割ということだった。
これは、第三大隊につぐ被害の小ささだったが、むろん、当事者となった青城隊のメンバーにとって、そんなことはどうでもよい数字だった。
何とか皆生き残れた、それこそが重要であり、喜びであった。
青城隊は戦いの痕跡を身体から洗い落とすと、用意された食事――市民の有志が作ってくれた――を味わうことなく口へと運び、部屋に戻って皆すぐに眠りに落ちた。
負傷した者たちも世話をしてくれる人がいたので、身体を布で洗い、食事をとることはできた。
いずれにせよ、大部分の者は、その夜すぐに眠りに落ちた。安堵の中で眠れる睡眠こそ、今の彼らにとって何よりのご褒美だったのである。
静まる青城隊の宿舎、その屋上に三人の男がいた。
碕沢と玖珂、そして北條だ。
三人はコンクリートでできた手すりに並んで身を委ねていた。
もっともだらしないのは碕沢だ。全体重を手すりにあずけ、まるで手すりに対して管を巻くかのようにしている。
玖珂は片肘だけをついていた。
長身で容貌の整った彼がやると、たいしたことのない動作でも、まるでモデルがポーズをとったかのように決まっている。
北條は手すりに手を置いているだけだった。
彼は何か考えているふうで、軽くうつむいている。
「なかなかいい風が吹いてくるじゃないの、ここ」
碕沢の声は完全に気が抜けていた。戦場であった危ういまでの緊張感は一切ない。
「もともと立地している場所が他よりも高いからな。その上、建物の屋上だ」
夜の中では玖珂の青みがかった瞳も黒く見える。
戦いの最中はさすがに外していた眼鏡を今はつけていた。玖珂も日常に復帰している。
「風……か」
北條がぽつりと言った。
その時、強い風が吹いて、北條の髪を揺らした。彼は目を細め、風が止むと、口を開いた。
「今回はすまなかった」
北條は二人に向かって頭をさげた。
碕沢は顔を横に向けて、ちらりと一瞬だけ北條の姿を見る。
「何が?」
一言碕沢は訊いた。
「何って」北條は頭をあげる。「最初に二人からゴブリンの報告を受けた時に、僕がきちんと対応をとっていたら、こんな戦いにならなかったはずだ」
碕沢は困惑した。
あれだけの情報ですべての正誤の判断などできるはずがない。
たとえ正確な解答を導きだせたとしても、他所者でしかも高校生の代表者でしかない北条が、少なくともあの時点で防衛作戦の主導的立場に立てるはずなどない。
北條の言葉を受けての意見が、碕沢の頭の中で浮上しては消えた。
碕沢はじゃっかんというか、かなり考えるのが面倒くさくなっている。
「いや、無茶だぞ、北條。その責任の感じ方は。せめて、総督くらいの権力とおまえと玖珂と神原の能力を過不足なく併せもった人間でもないと、何というか、無理だろう」
碕沢に北條が困惑する気配が伝わってきた。
言いたいことが伝わらなかったようだ。
「玖珂に任せた。わたくし、現在脱け殻状態で、思考がほとんどまわっていません。あ、言っとけど、青城隊をぎりぎりのところで、踏んばらせてくれたのは、とても感謝しているからな。俺なんか、ほどんと皆と一緒に戦えなかったし」
「それは――」
「北條」と玖珂が声をかけた。
碕沢は町の風景に目をやっているので、二人の様子は見えないが、もしかしたら、視線を交わすだけで分かりあっているのかもしれない。
さすが頭のいいやつが違う。
「北條、おまえが何を思って行動していたのかなんて、僕には分からないし、たぶん、碕沢も分からないだろう。というか、碕沢はそんなことまったく考えてないと思うぞ」
やはり、玖珂と北條でも以心伝心は無理だったようだ。冷静に考えれば、この状況で男同士でそれをやられても気持ちが悪い。
会話で分かりあうべきだろう。
「玖珂、今、さりげなく俺をディスった?」
「今、そこは重要なポイントではないな」
つまり、ディスったわけだ。
この時、玖珂は笑っていたが、碕沢は気づかなかった。彼の視界は夜の世界しか映しだしていない。
憶えていろよ、と碕沢は軽く思っただけだ。
「たぶん北條は自身の思惑で動き、それはもしかすると、僕や碕沢にとって、あまり有利に働くことはないと考えていた。そして、北條の考えでは、それであっても、もっといい未来が訪れる予定だったのに、良くない結末が待っていた。だから、その失敗は自分にあり、もっとも迷惑をかけたのが――というところなんだろうけど、まあ、実際の現実がそうだったとは思えない。正直北條が考えていたとおりになんて、ほとんどいっていない。どの時点であれ、うまくいったと思ったのなら、君の視点においてそう見えたというだけだ」
碕沢の回らない思考でも、玖珂がかなりひどいことを言っているのは理解できた。
「僕は空まわっていただけ、ということか?」
「それは言い過ぎだな。さっき碕沢も言ったが、君が動くことで、戦うことで、皆が多く助かったのも事実だ。確かに北條には思惑があったんだろう。ただいろいろと動いていたことのすべてが、君の思い描いた通りに作用したわけではないということだ。まず、さまざまな点で君は計算違いをしている。たとえば、碕沢の強さなんて、北條にはまったく予想外のことだったんじゃないか?」
「予想外だな」
碕沢は自分に二人の視線が向けられたことが分かったが、相手にしなかった。反応するのが面倒くさかったのだ。
――と、思ったのだが、視線がいつまでもしつこく離れないので、碕沢は口を開く。
「おまえには能力があるだろうけど、まあ、身の程を知れってことだ。北條だけじゃなく、俺もだけどな。玖珂はどうなのかは知らないが」
実際に声に出したわけではないが、玖珂の苦笑が空気を通して伝わってきた。
夜風はどこか生ぬるい。宿舎は静まりきっているために、自然のさまざまな音色が耳に届く。
しばらくして、北條が呟くようにして言った。
「――力を得たことで、調子に乗っていたってことか、僕は……情けないな」
「この世界の力は異常だからな」
玖珂の言葉は北條に同意したというよりも他のことを念頭に置いているかのようだった。
「あの赤い髪の人がいれば、簡単に勝てただろうからな――犠牲もなく」
「優先順位の違いだろうね」北條の声にはやや力が欠けていた。「この島はもっとも弱い者が集う場所だそうだから、そんなところに大きな戦力をはりつけておくのは合理的じゃないんだろう」
「僕たちに増長する暇なんかないみたいだな」
玖珂が皮肉げに笑った。
それからの三人はたいして口数は多くなかったが、こちらの世界に来てからのいくつかのことについて話をした。
そして、未来のことを話そうとした時、北條が小さく笑った。
「そろそろ解散かな」
あきらかにそれまでとは口調が異なる。明るいというか、からかいの響きがあった。
「どうしたんだ、急に?」
ごく当たり前の疑問を当たり前に碕沢は口にした。
「玖珂、行こうか」
「その辺りの気づかいは、僕や碕沢よりはるかにまさっているよ」
玖珂が北條の言葉に頷き、歩きだす。
碕沢も後に続こうと手すりから離れようとした。
「おまえはそこにいていいんだよ」
北條がそう言い、玖珂も同意する視線を送ってきた。
いったい二人が何を通じあっているのかが、碕沢には謎だったが、おそらく原因だろう存在がすぐに現れた。
北條と玖珂と入れ替わるようにして、冴南が屋上へと来たのである。
碕沢は思った。
気を使う相手を間違っているんじゃないか、と。
冴南の相手は確か……。




