序章5 ゴブリン・ヴァイカウント
ゴブリン・ヴァイカウントという種がある。
それはゴブリンが二度の進化を果たした結果生まれる種であった。
身長は一七〇センチメートルを超え、筋肉の鎧でおおわれているがすらりとしており、シルエットだけを見ればゴブリンだとはとても思えない。
だが、顔立ちはいかにもゴブリンである。ただし、瞳には理性の輝きが灯っていた。
ゴブリン・ヴァイカウントは、配下にゴブリン・バロンを従える。最大でその数は五体であるという。
たった五体と馬鹿にはできない。なぜなら、ゴブリン・バロンは配下に四〇体近くのゴブリンを従えているからだ。
ゴブリン・ヴァイカウントが姿を現した時、最大で二〇〇体強のゴブリンがいるかもしれないということである。
今、あるゴブリン・ヴァイカウントが怒りに震えていた。
戯れでやり始めた狩りによって、自身の戦力が大きく減らされてしまったからだ。
このゴブリン・ヴァイカウントは五体のゴブリン・バロンを従えていたのだが、一体のゴブリン・バロンを失っていた。それは四〇体のゴブリンを同時に失うことにつながる。
ゴブリン・ヴァイカウントの怒りが、従うゴブリンたちに恐怖として伝染した。
ゴブリン・ヴァイカウントは強者である。その怒りが自分にぶつけられれば、簡単に死んでしまうことをすべてのゴブリンが理解していた。だからこそ、彼らは命令を文字通り命懸けで果たす。
どこかに潜む人間を暴きだし、ゴブリン・ヴァイカウントの前へと連れてくるのだ。
ゴブリンたちは人間を懸命に捜していた。数の力を借りた捜索は、あまり時間を必要とせずに解決する可能性が高いだろう。
その時が訪れれば、人間たちが無残な死を迎えることを、すべてのゴブリンたちは確信していた。むろん、同情心などない。発見できなければ、その立場になるのは、彼らなのだから。
玖珂は周囲をかこまれている――と言ったが、完璧に包囲されているかは実際のところわからない。
玖珂自身が先行して得た情報と、彼が予測していたゴブリンの配置のずれ、この二つから包囲されているに違いないとの推測を玖珂が導きだしただけだ。これはあくまでも彼の推測にすぎない。
そして、確かめる術はなかった。
玖珂に方々(ほうぼう)へ偵察に行ってもらえば、より確度の高い情報を得ることができる。それによって、包囲されているかどうかや、仮に包囲されているのなら、どこが一番防御陣が薄いか、なども分かるかもしれない。
ただし、これには条件がある。
情報を探る間、ゴブリンがこちらに気づかないということだ。
だが、これを期待するのはあまりに楽観すぎるだろう。すでにかなり近い位置までゴブリンたちは迫っているのだ。
碕沢たちは限られた情報の中で決断することを強いられていた。
「玖珂、俺と神原は、単独であの毛色の違うゴブリンを倒すことができると思うか?」
唯一ゴブリンの指揮官と戦った玖珂だからこそ、力量がわかるだろう。
「僕は二人の力を把握しているとは言えない。戦いながら二人を見ただけだから。それでもかまわないなら、神原さんならやりようによっては勝てる。でも、碕沢はかなりきわどいと思う」
「五分に渡りあえるか?」
「どうかな? 力は互角かもしれない。でも戦いの経験に差がある。接近戦になれば、おそらく二人とも負ける」
「あの青い靄は本人の身体だけじゃなくて、武器にも影響を与えていると思う。玖珂君はそれを考慮して、なお難しいと考えているの?」
「二人とも射程が伸びているね。たぶん、神原さんは矢のタイムラグがかなり短くなっているんじゃないか? もしかして、連続で射ることもできる?」
「たぶん」
「そう。なら、長距離で攻撃しつづけることができれば、神原さんは勝てるかもしれない。致命傷を与えることができなくても、傷を負わすことは可能だろうから」
「私の矢は避けられる?」
「不意打ちでなければ」
玖珂の評価は辛い。だが、だからこそ信憑性があった。
「簡単に倒したように見えたけど、普通のゴブリンとは別物なんだな」
「ああ。まったく違う。でも、問題はゴブリンの強さよりも、勝って得られた力が思った以上にたいしたことがなかったことなんだ」
「あまりパワーアップしなかったのか?」
「ああ。もしも、より強い個体が現れたら、それがあのゴブリンのバージョンアップしたものなら、今の僕じゃ難しい」
「つまり、次はゴブリンの部隊と戦っても、さっきみたいにうまくいかないってことだな」
「そうだ。さっきとはまったく別のことを言うけど、今度は戦うべきじゃない」
「強い個体がどうというより、すでに数で圧倒されているんだから、戦うという選択肢は最初からないでしょ?」
冴南の言うことももっともだった。
玖珂の言葉を信じるなら、少なくとも二部隊、あるいは三部隊が合流していることになる。ゴブリンの数は百体を超すかもしれなかった。
「とりあえず正面は無理なようだから――」碕沢の脳裏に閃きが走る。「まさか俺たちの行動が読まれたのか?」
「その可能性はある。だとしたら、すでに僕らが倒した部隊のことも相手は知っていて、なおかつ連絡も行き届いているということになる」
「それって――まずいんじゃない? 思っていたよりも狭い範囲にゴブリンたちが最初から集中していたことになる。むしろ、会わなかったことが幸運って言えるかも」
冴南の口調が早口になっていた。動揺が外に漏れ始めている。
深刻な沈黙が、三人の緊張を高めた。
「どこかを強行突破するしかない。喰い破ったら、振りかえらずに全力で逃げる――これしかないだろ」
「碕沢の言うとおりだね。それしかない」
「ゴブリンと競争ってわけね」
「短距離走なら勝てそうだな」
碕沢は軽口を叩いた。
「可能性は充分ある。あの身体つきのくせに、短距離は遅い。いや、筋肉が重すぎるのかな」
「――ねえ、あの身体なら持久力はないんじゃないの?」
「神原さんの意見は地球じゃ正しいけど、ここではどうかな? 僕は何となく持久力こそ彼らの本領のような気がしてならないんだけどね」
「そこらへんのつくりは確かにぶっとんでそうだな――じゃあ、そろそろ行こうか。どの辺りを急襲するかは俺が決めていいのか?」
碕沢は最初にどの方角へ行くのかを決めた時と同じように、反対はないと思っていた。だが、二人は予想に反して意見を言う。
「いや、今回は僕の意見を採用してほしいな」
「私も碕沢君はちょっと止めておいたほうがいいと思う」
「なんだ? 急に息があったな」
「時間がない。早く行こう」
「ええ、早く行きましょう」
腑に落ちないまま碕沢は二人の意見に従った。別に絶対に自分が決めたいと思っていたわけではなかったので、反対されてもかまわないのだが、二人の言動はやはり納得いかない。
最初の選択で失敗したことが尾を引いているのだろうか。まさか、それくらいで、と碕沢は思っていたが、彼の推測は当たっていた。
そのものずばり、玖珂と冴南の二人は、碕沢の勘をまったく信用していなかったのだ。
時間はあまりない。
玖珂と冴南の両者が選んだ地点へ三人は突撃することにした。
むろん、この時点で敵の総指揮官となるゴブリンがどこにいるかはわからない。そのゴブリンがいないこと、そして、そのゴブリンがさらなる上位種でないことを願うよりなかった。
太陽が一日の終わりを告げるには、まだ早すぎる時間だ。日本で言えば、午後二時を過ぎたあたりだろうか。
木の影に隠れての移動とはいえ、ゴブリンの索敵能力は低いのか、あるいは単純に視力が低いのか――ついでに鼻もたいしてきかないのかもしれない――距離が三〇メートルを切っても三人は発見されなかった。
玖珂を先頭に、真ん中を冴南、最後尾を碕沢として三人は走りだす。
視界に捉えているのは、二〇を超えるゴブリンたち。ざっと見たところで、指揮官クラスのゴブリンはいない。
捜索効率をあげるためか、それぞれの間はかなり離れており、突破は難しいことではなさそうだった。ただし、奥にはもっと多くのゴブリンが控えているはずで、すぐに駆けつけてくることになるだろう。
二〇メートルを切った。
もっとも近いゴブリンが顔をこちらに向ける。
玖珂の速度がいっきにあがった。ぎりぎりまで気づかれないよう制限をかけていた力を解き放ち、全速力を出している。
冴南も走ることに集中していた。彼女の弓矢は音が大きすぎる。射撃すれば、必ず気づかれる。なら、向上した玖珂の速さと技術に賭けたほうがマシという判断だった。
だが、玖珂は間に合わない。
ゴブリンが大声をあげた。
意味をなさない叫びに聞こえたが、それで充分に伝わったのだろう。ゴブリンたちの空気が一変した。
戦気が高まり、怒号が飛び交う。
玖珂が最初に叫んだゴブリンを斬り捨てた。
彼は余計な動きをせずに、一直線に森を駆けぬける。
冴南は弓を具現化することすらなく、走ることに集中していた。
碕沢も腕の中に綺紐を持っていたが、攻撃することなく走る。
玖珂がもう一体ゴブリンを斬り捨てたが、攻撃したのはそれだけで、彼はゴブリンの網を突破した。
冴南も後に続く。
碕沢もすぐに続いた。
意外にもあっけなく包囲網を破ることに成功した。
後は全力で逃げだすだけであった。
碕沢の身体に衝撃が走り、視界がぶれる。二人の背中が見えていたはずなのに、彼の視界は一瞬にして色を失った。
碕沢の身体は横方向に吹っ飛び、ちょうどそこにあった樹木に叩きつけられた。そのまま碕沢の身体は力を失い、ずるずると地面へと座り込む。
強烈な衝撃に、碕沢は一瞬呼吸を失っていた。
呻き声を漏らしながら、碕沢は何があったのかを確認しようと目を凝らす。
――何かがいる。
木の影で暗闇とあわさり、姿が一瞬確認できなかった。だが、形はわかる。筋骨たくましい人間が立っていた。碕沢と同じくらいの身長か。
影が一歩踏みだし、射光に身をさらした。
顔があらわになる。
ゴブリンの顔がそこにはあった。
ゴブリンが笑っていた。獲物を貪ろうとする獣の顔だ。
今までにない大きな体格をしたゴブリンが咆哮する。まるで森全体が悲鳴をあげるかのように咆哮が響きわたった。
碕沢は右手にある綺紐を握りしめた。