三章 愚者の議論(4)
北條は夕方までの時間を無駄にしなかった。
彼は精力的に、だがさりげなく動き回り、幾人かの人間としっかりと意見をかわした。何らかの約束をしたわけではない。だが、内容は誘導を伴っていた。
また、彼は約束の時間よりずいぶん前に食堂に入り、舞台設置を行った。
机と椅子を移動させて、『コ』の字型とし、まるで裁判所のような形を完成させた。ちょうど口の開いた部分が傍聴席側ということになる。
この配置から北條の狙いが透けて見えそうだった。
食事時となり、机の配置とそこに陣取る北條他数名を見て、眉をひそめる者や苦笑いを浮かべる者、単に邪魔だと顔をする者といろいろいたが、北條のやることを咎める人間はいなかった。
せいぜい「ご苦労なことだな」と皮肉な口調で声をかける程度だった。
夜の八時くらいだろうか。
外では激しい雨が降っていた。厚い雲がかかっているためか、闇が濃い。
太陽はすっかりと暮れて、とても夕方とは呼べない時間帯になって、ようやく須田玲美が姿を現した。
遅れてきた彼女に敵意のこもった視線が集まる。
彼女は食堂の机の並びを見て、やや驚いたようだが、それ以上特に反応を示さなかった。むしろ、食堂に集まった人の少なさに不満を持っているかのようだ。彼女の後ろには彼女の親衛隊がぞろぞろとついてきていた。
玲美の座る位置は、いわゆる裁判官側から見て、左の位置――被告席だった。無骨な長机と椅子が五つ並んでおり、すべてが埋まった。三人ほど座れなかったが、彼らは椅子を用意するでもなく、後ろに並んで立っていた。
裁判官の席には北條が座っている。彼の両隣りに男女が各一名座っていた。両者ともに北條とはそこまで深く関わりのある人間ではない。クラス委員とやっていた人物だった。
裁判官の右――検察側には、午前中、玲美と言いあっていた女子の中から五人が座っている。
傍聴席に座っているのは、十数人で少ないと言っていいだろう。
ほとんどがこんなことに付き合っていられないという心境なのかもしれない。ここは学校じゃないのだ。
そのような思いを抱いた者からしたら、この光景は滑稽でしなかっただろう。
玲美とは対照的に、北條はたいして人間が集まっていないことを気にするそぶりをまったく見せずに、話しあいという名の裁判を開廷した。
「まずは、あの場でいったい何を争っていたのか教えてほしい」
北條は女子五人に視線を投じる。
「あの戦いで、その人たちは後半苦しくなった時にまったく戦わずに後ろにさがって見ていた。十人近い人間が戦わなかったら苦戦するに決まってるでしょ! 怪我をしていたんならともかく、ほら、今見ても、この人たちは怪我をしていない。おかしいじゃない! しかも、笑っていた。怪我をしている仲間を見て、楽しんでいたんだから!」
時間をおいたことでいくらか冷静になったようだが、内容は攻撃性を失っていなかった。
「笑っていたわけじゃない。そう見えたのは、もともとの顔がこうだからとしか言いようがないわね。それが駄目だというなら謝ります。怪我をしてないと言ったけど、怪我をしていない人間ならいるでしょう。玖珂君や神原さんだって、無傷じゃないの?」
「あの人たちは――」
「待って」北條が反論を止めた。「怪我をしたかどうかよりも、彼女たちは戦ったのかどうかを訊いたんだ。それに対しての答えは?」
北條は議論の行方を修正した。もちろん、意識的に。女子の反論を封じたことで、結果、玖珂と神原の名前が宙へと浮いた。
「あの場にいて戦わないわけがないでしょう。その子が言っていたように、確かに戦いの後半になって私たちはさがった。でも、それはとても強い怪物が現れたから勝てないと判断しただけ。実際、あれに勝てる人なんてあの時のメンバーに一人もいなかったと思うけど」
後半部分を玲美は、北條に視線を投じて話した。意図的に顔と視線を変えたので、誰もが北條のことを揶揄していることをさとる。
玲美は、北條だって勝てなかったではないか、と言っているのだ。おめおめと敗北して逃げた北條に戦わなかった自分たちを責める権利があるのか、と。
「――それにあの怪物、ゴブリン・アール? だったかしら、あれがいなくなった後は、私たちも戦った。ゴブリンを倒した数なら、目の前にいる人たちより多いと思うけど」
「適当なことを言わないでよ! あなたたちが多いなんて、なんで分かるの! 私たちの行動をずっと見てたとでも言うの!」
「それを言うなら、私もそのままお返しする。あなたたちは私たちの行動を逐一見ていたの?」
「それは――見られるわけないでしょう。私たちは一生懸命戦っていたんだから!」
「あなたたちにどう見えていたのか分からないけど、私たちも命がけで戦っていたのよ。そうじゃないと、とてもあそこから戻ってくることはできなかったでしょう」
「ちょっと、みんな言ってやらなくていいの!」ずっと意見を言っていた女が立ちあがって、隣に並ぶ仲間を見る。「このままじゃ、この女のウソ――」
「おそらくだけど」北條が言葉をかぶせた。「彼女たちが一番問題にしているのは戦っているか戦っていないかじゃなく、仲間を見捨てて逃げたんじゃないのか、というところだと思うんだけど、どうかな?」
「ええ、そう。もしかしたら、あれで誰か死んでたかもしれない。桂木でさえ、飛びこんでいったのに」
最後に余計な一言を加えながら、女子が大きく頷く。
「戦ったのかどうかを訊いたのは北條君だと思ったけれど」玲美が薄く笑う。「聞きたいのは助けようとしなかったんじゃないかということね?」
「見えなかったとは言わせないから、皆の前であれは起こった」
「そうね。皆の前であれは起こった。そして、私たちは助けられなかった。それは認める。じゃあ、私からも言わせてもらうけど、見ていたはずの他のみんなはその時何をしていたの? 戦おうとした人がいた?」
玲美は目の前に座る女たちだけではなく、傍聴席へも視線を投じた。そこには、いつの間にか、青城南高生が集まってきていた。三十人はいるだろう。
玲美は満足そうに笑う。
「なぜ、私たちだけが責められるのかしら? おかしくない? ねえ、もしかして、あなた、個人的な感情で私を非難しているんじゃないの? たとえば、私を守ろうとしてくれるこの子たちの中に、好きな人がいるとか」
玲美が言ったことが事実であるかは分からない。だが、今まで意見を言っていた女子生徒が眦を吊りあげ、顔を紅潮させたのは事実だった。
「何が言いたいの、あなたは!」と隣に並ぶ女子生徒が声をはりあげた。
「だいたいあなた教師でしょ? おかしいんじゃないの」
「そんな男をはべらせて、今がどういう時か分かっているの!」
「気持ち悪いんだけど」
等々、女子の不満が爆発した。
それは議論ではなかった。
非難の対象も戦いにおける言動ではなく、日常生活での態度や言動に対するものになっていた。
傍聴席からも賛同の声があがっていたが、多くは女子だった。
男性陣の多くは眉をひそめ、不満をのぞかせていた。議論の内容がずれていっていることが、彼らにとっては不快だったのだ。
男子の視線は北條に投じられる。
さっさとこの感情論による言いあいをやめさせろ、と彼らの目が語っていた。
それでも北條はすぐに動かず、数分間放置した。いいかげん、傍聴席の人間が席を立とうかという時になって、北條は金切り声のまじった文句と愚痴の宴を散会させた。
大声で文句を言っていたわりに、意外なほどあっさりと女性陣が北條の言葉を受け入れる。真正面から非難したことで、そして大声を出したことで、ストレスを発散したのだろうか、玲美に投じられる視線はあいかわらず攻撃的だが、表情にはどこか達成感があった。
「僕も須田先生に聞きたいことがあるんですが、よろしいですか」
沈静化して、すぐに北條が口を開いた。
「まだ、先生って言ってくれるんだ。まあ、もう言わなくてもいいんだけど……それで質問があるの? そんなふうに改めなくても、ずっと北條君が質問していたような気がするのは、私だけ?」
玲美がふふふと場違いな微笑をのぞかせた。傍聴席の男子からも同意の失笑がもれる。
それは感情的になっていた女子たちへの蔑称の意味があった。女子たちは感覚で汲みとり、それに敏感に反応した。
男性陣と女性陣の間で、小さくない壁が生まれようとしている。
冷めた理性と熱い感情が性別によって色分けされていた。それは集団心理によって、さらに増長されているかのようだった。
むろん、女性陣の中にも理が勝るタイプの人間はいる。だが、彼女らはこの場にいなかった。意味がないとして、遠ざけていたのだ。あるいは彼女たちこそが、須田玲美をもっとも嫌っている集団と言えるかもしれない。
「ゴブリン・アールが現れた時、皆は呆然としていた。はっきり言えば、動けなかったと思います」
北條の発言は皆を非難するものだった。場がざわついた。いっきに嫌悪の情が北條に注がれ始める。
「それに対して、先生と君たちは冷静に判断し、行動している。他の皆は動けなかったのだから何もできなくてもしかたない。実際、避難行動さえとれてなかった。つまり、危険に身をさらしたままだった。それに比べて、先生たちは後ろにさがって、自分たちの安全を確保しようとしていた」
「何が言いたいのかしら?」
聴衆の空気が北條の発言の途中から変わっていた。彼らは北條の言葉の到達点に期待を向ける。
「あそこにいた者たちは全員戦える者たちだった。そういう試験をして、くぐりぬけた人間だけがあの場に立っていたはずだ。もちろん、僕たちは軍人でもなければ、戦士でもない。戦いの中で硬直することだってある。だが、理性的に動ける間であれば、戦うという選択肢を外すことは許されない」
「みんなはいいけど、私たちは駄目と言うことかしら? ずいぶん一方的ね」
「分かっていてやらなかった人間と、そもそも認識していなかった人間とを同じにはできない。もちろん、ゴブリン・アールと戦って勝てとは言わない。だが、傷を負った仲間を救うために何らかの手段をとれなかったのかということです。時間稼ぎで良かった。後ろには僕がいた」
「ええ、無様に敗北した北條君がいたわね」
「そう、僕は負けた。だけど、負傷者を救う時間を稼ぐことはできた。あの中で、一番動けたはずのあなたたちはその時にどこにいた? 何をしていたんだ? 負傷者を助けたのか? それすらできない状況だったとは言わせない。実際にそれを行った人間がいるんだからな」
拍手こそ起こらなかったが、賞賛と同意の息吹がこの場にいた多くの者たちから北條に送られた。
いつの間にか、食堂には人が溢れかえっていた。騒ぎを聞いて、興味を抱いた者たちが駆けつけたのだろう。少数の野次馬が多数の野次馬を呼び込むことになったようだ。
玲美も場の空気が一瞬にして北條の支配下になったことを敏感に察したようだ。余裕のあった表情が消える。
「そうね、北條君の言うことは正しい。私たち、いえ、私は動けなかった。怖かったから……怖くて一歩も動けなくなった。臆病なのが罪だと責められるならしかたない」うつむき、玲美が首を振った。「私の行動は間違っていたんでしょうね。北條君がそこまで責めるのだから、間違いなんでしょう。一度の失敗が許されないというのなら……」
玲美の言葉は途中で消えた。
先程までの彼女からは一転して、ひどく弱々しい空気を玲美が纏っている。栗色の長い髪が若い女教師の顔を隠していた。
――大人の女性が怯えている。
大半の男が須田玲美を見て、そう思った。
――わざとらしい演技をして。
すべての女が須田玲美を見て、そう思った。
「あのさ、私は戦いのこととかよく分からないんだけど、あの戦いが駄目だったとしたら、その責任は誰にあるの?」
傍聴席の一列目にいた女――前川朝美が染めた髪をかきあげて、立ちあがった。
「別にそこにいないと発言したらダメとかないんでしょ? どうなの、北條君。あの戦いって勝ったはずなのに、なんかいつの間にか負けたみたいになっているけど、まあ、私はどっちでもいいんだけど、責任があるとしたら誰になるの? 結局、一番悪いのってどんな時でも責任者でしょ」




