三章 夜の風に吹かれて(2)
夜、多くの青城隊のメンバーが眠るか、あまり健全ではない思考の海に沈む中、常とたいして変わらない精神状態であったのは、碕沢秋長である。
彼は、窮屈な四人部屋からいったん退却して、外の空気を吸っていた。
夜空には月の光が灯り、星々が大海を泳いでいる。
ふと空を見あげた碕沢であるが、特に感情を動かされることはなかった。天体観測や星座にまったく興味を抱くことのなかった碕沢だ。夜空を見たところで、ここは違う世界なのだ、などという感傷がわくことはなかった。
異なる世界とはいえ、もしかしたらと思い、彼のつたない知識でも分かるオリオン座を探してみたが、探している途中で季節が関係するかもしれないと思いたち、北斗七星を探してみることにした。発見できなかった。
よく考えれば、日本にいた時も北斗七星を発見できたことはなかった気がする。というか、そもそも観測地点がまったく異なるのだから、星の位置が同じように観察できるはずがない。そもそも同宇宙であるのかさえ分からないというのに。
「無駄なことをしてしまった。反省反省」と苦笑の念を抱きながら、碕沢は砦内を散歩した。
篝火が各所に焚かれ、歩哨の兵士が各地に配置されていた。
兵士達と視線があい、すれ違い、あるいは話しかけられたりもしたが、対応はおおむね好意的なものばかりだった。
本来、砦内を自由に歩くことなど許されていないのかもしれないが、散歩に目をつぶってくれているのは、戦った者たちへの労いだろうか。
倉庫のような建物の近くで、碕沢は話し声が聞こえたので、そっと建物の裏をのぞいてみた。
二つの人影がある。
見覚えがあった。
どうやら、玖珂と冴南のようだ。
少しばかり深刻そうな空気が漂っている。
碕沢が声をかけようとすると、彼の肩をがしっとつかむ者がいた。
「ちょっと、こっちに来なさい」
小声で言った女は、植永亜貴だった。
碕沢は腕をつかまれ、引っぱられる。
抵抗することなく、碕沢はなすがままになって、ショートカットの髪が跳ねる様を見ていた。
百メートル以上離れて亜貴は碕沢の腕を離し、振りかえる。
「邪魔をしちゃダメでしょう」
「邪魔? むしろ、親切じゃないのか」
碕沢は二人の間に漂っていた空気を思い出し、そう切り替えした。
亜貴が呆れたようなため息をつき、わざとらしく額を手で押さえた。
「あんたにこういったことを言っても無駄だと思うけど、二人のことに他人が口を挟むべきじゃないでしょ」
「二人の間で何か問題が起こってるのか?」
「知らないけど」
「知らないのかよ」
「でも、あの二人、付き合ってるんでしょ。夜こそこそ会っているところに顔をだすバカがどこにいるのよ」
「付き合ってるのか?」
「あの二人以上に似合うカップルがいる?」
「まあ、確かに能力、容姿を考えると、それは言えるな」
「あっさりしてるのね」
「何が?」
「別に」
「しかし、付き合ってんのか。まったくそんなそぶりなかったけどな。あんがい、俺は鈍いのか」
「じゃないの」
顔をそむけながら、あっさりと亜貴が同意する。
「で、そういうおまえさんは、夜こんなところで何をしていらっしゃるのかな?」
「なんか寝つけなくて、部屋の中も湿っぽいし」
「そんなに湿度は高くないだろ」
「誰が気候を問題にしてるのよ! 皆の気持ち、精神的な問題! 碕沢、あんた鈍いどころじゃないんじゃないの」
「いや、今の言いかただと勘違いするのはしかたないんじゃ――」
「その無神経さ、信じられない」
亜貴が地面を踏みにじるようして歩き去っていった。背中には怒りがあった。
初めての大規模な戦闘を経験して気が立っているのだろう、と碕沢は亜貴の心を推測した。
碕沢は壁によりかかって、腕を組む。
これまではすべてが順調に行き過ぎた。今日も結果だけを見れば、文句の言いようがない。
だが、内実がどうなのかは、実体験した本人たちがよく分かっているはずだ。
碕沢は今回の戦いの推移を詳しく知らない。詳細な報告など彼にもたらされはしない。
うまくいったのは序盤だけで、後は皆がばらばらに動いて、状況を悪くしていったということだけを聞いていた。
個人の活躍がなければどうなっていたか分からない。
自分たちの力はさしてたいしたものではないと皆が知ったはずだ。
多くの人間が敗北と死への恐怖を味わったことだろう。
これからも戦うことができるだろうか?
戦うにしても、皆で一緒に戦おうと思うだろうか?
先のことはともかく、今回の件だ。
恐怖や自身の無能を遠ざけるために、誰かに責任を押しつけたいと考える者がいるのではないか。
ドーラスに戻ったら、北條が何かするかもしれない。
どうもいろいろなことがどんどん捻じ曲がっているような気がする。
「さてどうしたものか」
碕沢は名の知れない星をじっと眺めた。
建物の影に玖珂はいた。
十メートル以上先にある壁には、直径一センチメートルくらいの小さな穴がいくつか穿っていた。
もう少し試し撃ちをしたいところだが、どうやらお客さんの登場らしい。彼は振りかえる。
「何か用でも?」
玖珂から声をかけた。
「ええ、少し話をしたいと思って」
「神原さんから話しかけられるなんて、光栄だね」
「思ってもいないことを口にしてくれなくてもいいから」
「厳しいな」玖珂はひょいと肩をすくめた。「まあ、そのとおりだけど」
「今日の戦いのことよ」
「だと思った」
「ゴブリン・アールとの戦い。私にはあなたがわざと碕沢君がピンチになるよう誘導しているように見えた。いえ、その時は思わなかったけど、後になって冷静になると、そう思えた」
「感覚的な話には、答えようがないな」
「なぜ?」
「僕がそれは違うと言っても信じないだろう。かといって、違うことを実証するのも難しい。実際の行動でおかしな点をあげてくれれば、説明のしようもあるだろうけど」
「本気で言っているの?」
「――その紐をほぐしたところで、何か得られるものがあるかい?」
「あなたと碕沢君のラインが崩れたら、私たちは終わりよ」
「私たちというのは、僕ら三人のことかな?」
「三人でも、青城南の皆を含めても同じ。ゴブリンの上位種に勝てるとしたら、あなたたち二人のコンビ以外いない。それは今日分かったでしょう」
「以前から分かっていたことだな」
「その上であんなことをしたの? 理由は? まさか碕沢君を鍛えるために殺そうとしたとは言わないでしょうね」
「言ったら」
「あなた――」
「嘘だよ。正直、碕沢があれくらいで死にそうになるとは思わなかった。確かにゴブリン・アールは強かったけど、神原さんもあいつがあんなふうに追いつめられるのは意外だったんじゃないか?」
「それは――」
「言っておくけど、あんな無様な戦いになった理由の大本は、碕沢だよ。あいつは間違いなく全力じゃなかった」
「………」
「まあ、もしかたらあれが実力なのかもしれないけど」
玖珂は片頬をあげた。薄い笑みが顔に浮かぶ。
「状況は分かっているんでしょう?」
青城南生の状況である。
「あまり興味がないな」
「自分は生き残れるから?」
「それは分からない。過去の例を見るなら、ゴブリン・キングがドーラスを襲う可能性は高い。その場合、防壁がどの程度の強度を見込めるのか。都市の兵士がどれくらい戦えるのか。重要なのはこの二点だろう。高校生が内部分裂したところで大勢に影響はない――普通はね」
「分裂すると考えているのね」
「可能性の一つに過ぎない。何もせずに、何も変わらずにこのまま流されるということもある。その時は、まったく戦いの役に立たないだろうね。いざという時、自分の身さえ守れないかもしれない」
「あなたは戦うの?」
「ああ、戦いを避ける理由がない」
「勝てるの?」
「現段階では届かない」
「まどろっこしい言いかたね」
「僕がどう意気込もうと、現実は変わらない。神原さんはどうする? 今日の戦いで皆の本質が見えたと思うけど」
「本質じゃなくて、現段階の力と心がまえが分かったんだと思う」
冴南が言葉を選びながら話す。それは言葉を選ばなければ、評価が辛いものになることを示していた。
「ゴブリンのおかしな動き、あれは後ろに守るものがあったからと考えることができる。守るものというのが、ゴブリン・キングに関する何か――儀式のようなものだったとすれば、近い内にゴブリン・キングが誕生することになる。もちろん、遠い未来に生まれる可能性もあるけど、ゴブリン・アールが確認されたことから過去の例を紐解くと、近い未来、数日中にもゴブリンの侵攻が考えられる」
玖珂は冴南を見る。
冴南は睨みつけるように視線を投じてきていた。
「僕は、数日中に皆が戦える状態になるとはとても思えない。そこに時間をかけるよりも、少人数で、個々で鍛えた方がましだろう。それも訓練ではなく、すべて都市外での実戦をやるべきだ。特に碕沢だな」
「残った人たちはどうするの?」
「どうもしない。総督をやっているあの男も、さすがにゴブリン・キングの襲来があるかもしれない時に、僕らにかまっている時間はないだろう。いちおう、今回の戦いで一定の戦果をあげてもいる。追いだされる心配はない。彼らはあそこでやりたいようにやればいい」
「その後は?」
「それは個人が自分で考えることだ」
「玖珂君の意見は正しいのかもしれない。でも、ゴブリン・キングを撃退した後に、さらに皆の関係は悪くなるでしょうね。力に差がはっきりとつくことになるから」
上下の別ができるかもしれない。
戦った人間は戦わない者に対して不満を抱くだろうし、その声に聴く耳をもたなくなるかもしれなかった。
「そんな先の心配する余裕が僕らにあるのかな? ゴブリン・キングが都市を壊滅する未来だってないわけじゃないだろう? 僕は、バル・バーンという冒険者がゴブリン・キングに勝てるとは思っていない。スラーグという人のほうが可能性はありそうだけど、あの人は、あんがいこの地を捨てて逃げるかもしれない」
「関係ないというわりに、いろいろなことが見えているのね」
「すべて妄想の類でしかない」
「北條君が何かしてきたら」
冴南の言葉に玖珂は笑った。
「関係ない」
「関係ない?」
「ああ、何をやろうと意味がない。たとえば北條が僕を排除したとする。それがどうかしたのか? それによって僕が何か困るのか?」
「それは、そうね。むしろ、青城隊の戦力が大きく減少する。でも、北條君は玖珂君が皆から離れることをしないと考えているかもしれない」
「彼の視野が狭いのは僕の責任じゃない。僕があそこにこだわる理由はすでにない」
「碕沢君が期待はずれだったから?」
「そうだね。それにね、北條を排除すことは難しいことじゃないよ。皆に選ばせればいいだけだ。弱い北條についていくのかどうかを」
玖珂と北條のどちらが実戦で頼りになるのかはすでに結果が出ている。
玖珂の言葉は、身も蓋もない容赦のない内容だった。
「玖珂君が予想以上にひどい性格をしていることが分かった」
「僕は想像以上に神原さんが優しくて驚いたよ」
同じ学年の生徒からお似合いと言われた男女は、甘い話とはまるで反対方向の会話をしていた。
「神原さん、君、碕沢と過去に何かあった?」
「……なぜ?」
「僕が碕沢に期待する以上に、君の碕沢への信頼は高いように感じる――こちらに来たばかりの頃からね。そこまで信頼する根拠をあいつが示したとは思えないけど」
「玖珂君には関係のないことね」




