三章 夜の風に吹かれて(1)
新世界暦四一二年五月二二日早朝に青城隊はイスマーン砦を出発し、同日夜帰着した。青城隊には犠牲者は一人もいなかった。
砦の門をくぐる姿は、敗残兵のような有様であったが、彼らの残した戦果は初陣とは思えない内容だった。
まず、威力偵察の任務を見事に達成し、ゴブリンがすでに通常ではない状態にあることを確認した。
また、ゴブリン・アールの率いる八百近いゴブリン部隊を殲滅するという離れ業も成しとげている。
実際に、現場で戦況を検分していたスラーグや他三名の正規兵の評価は異なるものだったが、結果だけを見れば、期待以上の武功だった。
青城隊の面々は砦の兵士から歓声を浴びることになった。しかし、笑顔で答えるほどの余裕が彼らにはなかった。
多くは部屋に直行して眠りつき、治療の必要なものはすぐに医務室へと運ばれた。
イスマーン砦の幹部ともいうべき上位者たちは、確認した事実をできるだけ正確に報告書に記し、さらにゴブリン・キングが生まれた可能性も視野に含める意見を具申することに決定した。
ゴブリン・キングが誕生すれば、まっさきに狙われるのはイスマーン砦である。一万のゴブリンに攻められれば、二百人しか兵士のいない砦の行く末などあまりにあきらかだった。
報告書には彼らの危機感による熱意がこもっていた。さらに、そこにはある一人の男からもたらされた極めて重要な情報も記されていた――ゴブリン・デュークはすでに健在である、と。
深夜であるのにもかかわらず、十人からなる選抜隊が結成され、彼らは都市ドーラスへ向かって進発した。
青城隊がイスマーン砦へと帰着して、碕沢秋長はある重要な報告をスラーグを通して第二大隊大隊長へとあげた。
彼が遭遇したゴブリン・デュークについてだった。
碕沢が、とてもゴブリンには見えない外見をしたあの存在をゴブリン・デュークであると断定できるのは、本人がそう言ったからだった――もちろん、嘘をついている可能性はあるが……。
種への呼称は人間側からの一方的なものではなく、魔人たちにも共通するものであるらしかった。
禿頭白髭の体格の良いすでに壮年へと足を踏みこんだ男が、不機嫌そうに碕沢の前に座っていた。
顔立ちと雰囲気がいかにもいかにも厳めしく、何とも話しかけづらい空気を醸成している。
第二大隊長リールド・ドンである。
大きくはない、かろうじて小さいとも言えない部屋で、四人の男が向かいあうようにして腰かけていた。
碕沢、スラーグ、リールド・ドン、その副官。
まず碕沢が改めてゴブリン・デュークについて説明した。
それに対するドンの反応は、
「きさまの言っていることは本当なのか? ろくに偵察もできない者の言葉など信じる気にはなれんな」
というものだった。
「確かにそうですね。ゴブリン・デュークが仮に誕生していたとしても、それに出会う可能性はほとんどない。しかも、雌のデュークとなると遭遇する可能性はほとんど皆無でしょう」
副官の言葉である。彼にはドンほど青城隊に対する侮蔑の意思を感じないが、素人であるとの認識は同じようだった。
戦闘詳細からも分かるとおり、副官の観察はとても正しいと碕沢も思っている。短い期間で個人ならまだしも、素人の集団が玄人の集団などになれるはずがない。
ただし、それと自分の情報を誤認だと断じられることは別の話である。
「そもそも、そもそもだ。ゴブリン・デュークと遭遇したというのなら、なぜおまえは生き残っている? おまえの言葉によると、影からこっそりと見たというのではなく、互いを認識していたということのようだ。いったい、これはどういうことだ? こんな話を俺に信じろというのか? どうなんだ」
ドンの言うことはもっともだ、と碕沢は思った。
相手がこちらを殺そうと思ったのなら、それは簡単に実現していたことだろう。
向こうの行動次第でしか結果は左右しない。残念ながら、そう言うしかない実力差だった。
それならば、なぜ碕沢が生きているかと言えば、それはあのゴブリン・デュークの気まぐれとしか言いようがなかった。
あの時、どうやら相手から不合格がつきつけられたと感じた碕沢だったが、だからといってあきらめたわけではなかった。
簡単に捨てられるほど彼は自分の命を軽く思っていない。
碕沢の集中力は再び増していた。
意識はどこまでも深い深度にもぐり、認識しているのは目の前のゴブリン・デュークと自らの肉体のみとなる。
他者の介入、あるいは、偶発的な何かが生じても、碕沢はまったく反応できなかっただろう。
あらゆる危険が存在する戦場ではあってはならない状態だ。だが、すべてを削ぎ落して、碕沢は最大の敵と対峙していたのである。
ほんのかすかに空気の揺らぎを感じ、碕沢は跳躍し、何もない空間へと最大限の力を込めた綺紐を放った。
そこで意識と感覚が一瞬断絶した。
すぐに碕沢は目覚めた――それは当人の認識であり、実際はやや異なる――が、隙しか存在しなかったその時間をゴブリン・デュークは攻撃の時間にまったく使っていなかった。
いつの間にか木に背をあてて座りこんでいた碕沢の前に、不思議そうな顔をしたゴブリン・デュークがいた。
とても近い。
間合いがどうこう言えるレベルではなかった。
敵が目の前にいる。
だが、不思議なことに碕沢は怖さを感じなかった。
「弱い。あなたはとても弱いけど、見込みがあるかもしれない――あればいいなあ、とか」
ゴブリン・デュークが話し始めた。
「賭け? 約束? 一年間、いや一年間は長くて私が忘れるかも……なら、半年? それも長いよね。じゃあ、三カ月にしよう。それでいい?」
「いや、何が?」
戦いの雰囲気が霧散していることは間違いない。
碕沢は急激な雰囲気の変化についていけなかった。だが、相手が先程よりかは、幾分好意的な雰囲気に変わっていることは分かった。
「三カ月後に会いに行くから――やっぱり気分次第かな。その時は、最低でも私と同じくらいになっていてもらえるかな? ならないとダメなんだけど」
「後日再戦をするってことか?」
「ちょっと違うけど、生きるか死ぬか、そんな感じかな? そんな感じ、そんな感じ」ゴブリン・デュークが声を弾ませる。「うん、だから契約の証」
「一つ注意しておくけど、自分の中で理屈が通っていようと、説明が不足していると他者には伝わらないものだぞ」
「私が分かっていれば問題ないでしょ? 何か問題があるの?」
「問題は多くあると思う」
「そう? でもそれはあなたの問題で私の問題じゃない」
「俺の問題ではあるけど、そっちは俺に何かを期待しているんだろう? 期待に応えるには自覚的であるほうがいいと思うけど」
「あなたに期待するのは、強くなること、それだけ」
「そうか――で、何で近づいてくる?」
ゴブリン・デュークが身を乗りだすようにして碕沢に顔を近づけてきた。
群青の空を思わせる青い髪がさらりと流れ、首もとを隠す。紫水晶の瞳が、碕沢をじっと見つめていた。
作り物めいた美しい顔が、碕沢の視界を埋める。
「いや、おい」
止まる気配のないゴブリン・デュークに、碕沢は背を反らして避けようとするが、背後は木でさえぎられていた。
両手で相手の動きを止めようにも、力は見た目が華奢美女のゴブリン・デュークのほうが上だった。
顔と顔が正面衝突する直前にゴブリン・デュークはすっと顔をかしげて、碕沢の首もとへと顔をうずめる。
首もとに湿りと柔らかな感触があったかと思うと、痛みが閃いた。痛みの種類は細い針を刺されたようなものだ。だが、首にある感触はより大きなナイフのようなものが喰いこむ感触。
痛みは一瞬で、接触も同じ時間で終わった。
ゴブリン・デュークが離れる。といっても、距離は五十センチメートルほどで充分に近い。
「――何を?」
「刻印」
「しるし?」
「そう、これは私のモノだから手を出すなよ、ザコどもって感じかな」
ゴブリン・デュークは鼻歌でも歌いそうなほどにご機嫌である。
碕沢は首筋に右手をあてた。
血の感触はなく、また触れたところに痛みはない。ただし、小さなでっぱり、いや、穴のような物が二つあった。
「噛んだわけか……」
「これは契約。一月後を楽しみにしているから」
そう言うと、碕沢の返事も待たずに後姿をゴブリン・デュークが見せた。ステップを踏むように軽快な歩みで、森の中へと消えていく。
一カ月後? 三カ月後だろう?
「あ、そうだ」
と小さくない声でゴブリン・デュークが呟き、振りかえった。
「向こうのほうに人間がいっぱいいて戦っているけど、あれはあなたの仲間?」
「戦っているのか?」
「たぶん。上物が他にいる……? まあ、見つかったからいいか」
ゴブリン・デュークは碕沢をじっと見つめて、一度頷くとそのまま森の奥へと歩いていった。
この後、碕沢はゴブリン・デュークが向こうのほうと示した方角へ駆けだしたのである。
「きさま、『死の接吻』を受けたのか!」
ゴブリン・デュークとの顛末を話しおえようかという時に、第二大隊長リールド・ドンが大声をあげて、立ちあがった。
色めき立ったのはドンばかりではない。他の二人もだった。スラーグまでもが同様の反応を示したのは、碕沢には意外だった。
ドンは碕沢の傍に立つと、乱暴な手つきで碕沢の襟もとをひねり、二本の牙跡を確認した。
碕沢はすぐにドンの腕を振り払った。ドンのやりようも無礼だったが、碕沢の対応も充分無礼だった。
だが、ドンは何も言わない。
自分がされた無礼事態に気づかないまま、ただ脱力しているかのようだった。その表情には深刻のヴェールがおりていた。
「どうしたんですか?」
碕沢が訊ねると、一瞬視線をあわして、ドンは答えることなく席へと戻った。
「ああ、そうか、知らないかぁ。冒険者だったら噂話くらい耳にするかもしれないけど、一般人だと知る機会もないだろうしね。知らなくても不思議ではないんだけど」
スラーグが口を開いた。会話を放棄し、沈黙を守る第二大隊長に代わって、説明してくれるらしい。
「もったいつけるような話なんですか」
「そうだね。君にとっては」
「俺にとって? ゴブリンとの戦況に影響はないんですか」
「まあ、ないだろうね。雌というか女性のゴブリン・デュークは種族の戦闘に興味がないと言われている――そうか、碕沢君、君がゴブリン・アールにとどめを刺されようとした時、なぜかゴブリン・アールの動きが一瞬止まったね。それはゴブリン・アールが『死の接吻』を見たからだったんだな。謎が解けて良かったよ」
ゴブリン・アールの最後の不可解な行動について、碕沢は戦いの後にすでに思い至っていた。
上位種のゴブリン・デュークによる『刻印』があったために、下位種のゴブリン・アールは攻撃を躊躇したのだろう、と。
「――スラーグさんの推測はいいんで、『死の接吻』が何なのかを教えてくれませんか? 不吉な響きしか感じませんけど」
「予測はついているみたいだね。それは正しい。君は一月後までにゴブリン・デュークを完全に超える力を得なければ、死ぬことになる」
「完全に超える――ですか?」
なぜ「完全」なのだろうか。
「中途半端がもっともいけないな。君にとっても皆にとっても」
「もう少し分かりやすく説明してもらえませんかね」
「たとえば、君がゴブリン・デュークと結ばれたとしても、彼女たちは精力旺盛でね。まあ、普通の人間ではそれに応えることはできないらしい。腹上死を迎えることになる」
「……そうですか」
碕沢は何となく白けた。
「けどまあ、重要なのは、ゴブリン・デュークの望みがかなうということは、人間にとってより強い敵が生まれることを意味する、これなんだ」
「――なるほど」碕沢はスラーグが言わんとすることを察した。「完全に超えていないかぎり、俺は人間によって殺されるんですね」
「僕らも命がけだよ。『死の接吻』を受けた対象を手にかければ、今度は『死の接吻』を授けた者から復讐を受けるんだからね」
「当事者の俺からすれば、同情する気にはなれませんね」
「そうだろうね。まあ、僕としては君が強くなることを期待するよ」
スラーグがいつものように眠たい目をしてぼんやりとした口調で激励した。
まったく厄介なことになったようだった。
一月で『あれ』に勝つなど、玖珂の天才によってしか不可能じゃないのか。
「分かったか?」ドンが言う。「今日からおまえには監視がつくことになる」
「逃げないようにですか?」
「どう捉えてもかまわん。まあ、ここじゃ、四六時中監視をつけるようなことはしない。歩哨も立っているしな。ただ、おそらくドーラスではそうはいかない」
ドンの口調が変わっていた。同情だろうか、あるいは、ゴブリン・デュークに認められるほどの戦士として認識したためか。いずれにせよ、碕沢を尊重する意思が垣間見える。
「報告するんですね」
「当然だ。それが俺たちの任務だ」
「まあ、そうですね」
四人による会議は、一人の男の不幸をつまびらかにしたことで解散を迎えたのである。




